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交差点のアイデアが生み出される、雑談

2年ほどの付き合いになる友人のKさん(男性)と、宇宙の話やら社会の話やらで、雑談がおおいに盛り上がった。
そこで、実行にうつしてみたいと思うアイデアの種がたくさん生まれた。

彼は科学、工学の分野に造詣が深く、私と価値感が近い一方で、得意とすることや、世の中の情報をうけとるアンテナじたいは結構異なっている。

先日、別のブログでも書いたのだけど、雑談が最も盛り上がり、アイデアが生まれてくるのは、こういう間柄なのではないかと思っている。

箇条書きに、要素を整理するとこのような感じ。

・価値感 → 近い
・得意なこと、世の中へのアンテナ → 異なる

価値感が離れていると、そもそも、安心して言葉のヒラメキを開放していくことができない。この人、こんなこと言って怒らないかな。みたいに思考に先回りしてフタをしてしまいがちになる。だから、価値感が近いことが、まず言葉のヒラメキの量を出すために大事。
そして、得意なこと、世の中へのアンテナ。これが近すぎると、そこでかわされる言葉は、ただ単にお互いの日常的な考えの相互承認を繰り返すだけになってしまう。出された言葉のヒラメキが、さらに相手の言葉のヒラメキと出会う。「交差点 」でスパークして、創造的で革新的な、おもしろいアイデアとなっていく。それを起こすためには、お互いの得意なことやアンテナがズレていることが実に大事になってくる。

私とKさんはそういう意味で、ベスト・雑談パートナーだなと、この2年くらいをとおして振り返ってみるとかんじる。もっとすばらしいことに、Kさんとはアイデアにとどまらず、色々なプロジェクト・遊びを一緒に実行してきて、これからも実行し続けるであろう仲であることも記しておきたい。そして、いつも助けてもらえることへの心からの感謝と。


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この「アイデアの交差点」の考え方は、つい先日読んだ「メディチ・エフェクト」にかかれていることに大きく影響を受けている。 この本では中世のメディチ家が果たしたような「アイデアの交差点から世の中を変えるイノベーションは始まる」ということを、いかに現代社会で起こしていくか、を具体例たっぷりに解き明かしていて、大変おもしろかった。(*1)

この本じたいも、今年知り合いになり、多大な影響を受けているビジネス・プロフェッショナルのYさんにオススメいただいたものだった。改めてYさんに感謝。いつも、たくさんの刺激をいただいている。

余談だが、この本はいまは絶版になってしまっているのがとても惜しい。Amazonなりの中古本コーナーで手に入れるか、図書館で読むほかない(わたしは自治体の図書館で取り寄せて、借りた)。機会があれば、買いたいところ。

さて、雑談の奥深さについては、また別の機会に書きたい。


*1 http://booklog.jp/item/1/4270000759

3本同時に映画をレビューしてみたら、このシン・セカイの名は。

アニメ映画「この世界の片隅に 」を観てきた。

本作がつくられた経緯としては、クラウドファンディングが大きな役割を果たしたとか、能年玲奈さんがのん、という芸名に変更して主人公すずの声優をしていたとか、そういう話だけは知っていたのだが、物語自体の知識はまったくゼロで鑑賞に臨んだ。そして観終えて思ったことは、いろいろある。

毎日ブログを書く企画という無茶ゲーをやっている最中の良い機会なので、「この世界の片隅に 」だけではなくて、今年映画館で観てきた「シン・ゴジラ」と「君の名は。」も、併せてレビューしたいと思う。

ネタバレ、の定義がよくわからないが、そんなにストーリーの核心に触れるつもりもないので、未見の人の楽しみを奪わないとは思う。

どうやって3本同時にレビューするかは何も考えていないので、以下ブログとして崩壊する可能性もあるが、まずはやってみよう。


シン・ゴジラ」は7月に公開されて、最初はまったく観るつもりもなかったのだが、自分が見てるSNSなどで知人が絶賛しているのを見かけて、観ないといけない気持ちになった。

そして、実は2回観た。1回目に観た時は、情報量に圧倒されて、雰囲気おもしろいなーと思ってすごく惹き込まれたんだけど、細部がいまいち分からなかった。怪獣映画のフリをして、政治家と公務員がワーワーがんばる話なので、専門用語と固有名詞の連発なのだ。後日、2回目を観たら、物語を把握していたおかげで、より細部の人間模様や交渉の進み具合を捉えることができ、深く没入できたので、1回目よりも更におもしろさがアップしたと感じた。

それから1ヶ月ほどして、やっぱりまた、SNSが盛り上がっている作品があって、それが「君の名は。」だった。なかなか観に行く機会がとれなかったが、ついに横浜の映画館で観た。なお、周囲はカップルだらけで、男ひとりだったわたしの居心地の悪さをここに記しておく。

これもまったくストーリー知らないまま観に行ったら、最初はただの男女入れ替わりものに思って、のんびりと鑑賞していた。でも、途中から話がタイムスリップSFとして爆速モードに入っていき、駆け抜ける物語の列車に揺られて、終点まであっという間にたどり着いたという感を持った。

そしてそこから2ヶ月ほどたった先日、またSNSが...もうこのくだりは省略しよう。ともかく、ついに今日「この世界の片隅に 」観てきた。ひとことで感想をいうと、重い作品だった。すっきりしなかった。第2次世界大戦の広島が舞台な時点で、何が大きなテーマとして扱われるかは、日本人なら想像がつくわけだが、必ずしも原爆だけが描きたかったわけではないなと思った。70年前、この国に確かに起こっていたことを、時間に沿って、家族の物語として丁寧に描ききったがゆえに、とても大事な「すっきりしない」感覚を刻んでくれたと思う。戦争って、いやなもんだなぁというのを、観ているときに何度も思わされる。


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さて、この2016年大ヒットの3タイトルの名前でググったところ、やっぱり3本同時に扱おうという無茶な人はいた。(*1)

東日本大震災と絡めて論じるのは、なるほどと思う。制作チームの表現者としてのメンタリティに東日本大震災の影響がなかったわけはないよね、というほうが実態に近いだろうか。

シン・ゴジラ」はゴジラという災厄が東京と神奈川を蹂躙する(注:神奈川も充分ひどい目に遭ったことを忘れないでほしい。私は本作を鑑賞したときは神奈川在住だった)。「君の名は。」では彗星が岐阜の山中の小さな町を直撃する。そして「この世界の片隅に 」は、戦時下の広島が舞台である。
生物災害か、天災か、戦災かはさておき、災厄であることは繋がっている。
そして時間軸は違えど、日本の実在の明確な都市を舞台としていて、「時間」と「場」と「社会」をとことんリアルに設定して描いていることが共通項だろうか。

要するに、これら3本は、徹底的に「ジャパン・ローカル・コンテクスト」のうえに生み出した作品だと言っていいかもしれない。

ローカル・コンテクストを使う強みは、それを知っている鑑賞者に対しては説明が省けることだ。したがって、人物と感情の描写に、時間を割くことができる。上映時間という尺が限られている中で、要素を盛り込みすぎて人物描写が浅くなると、そもそも映画としてツマラない。したがって、ローカル・コンテクストを使うのは理に適っている。

いっぽうで、ローカル・コンテクストありきというのは、海外展開含めて、違う文化圏に商業展開する際にはハードルになってしまうのかもしれない。そもそも日本国内でヒットしてから海外市場を、と考えるのが常々、日本の映像作品ではセオリーになっている。それは、この3本でも見られるように思う。(*2)

市場に対する考え方は、コンテンツ自体の良い悪いの問題ではない。わたしは日本人として、ローカル・コンテクスト前提の優れた作品が楽しめているから、コンテンツ・ファンとして、この瞬間において何の文句もない。むしろ、最初から海外ビジネスを見据えようとした結果、作品がツマラなくなるのは一番もったいないので、この状態はありがたいなと思ってはいる。

しかし、ジャパン・ローカル・コンテクストの前提で考えた時に、その視線の先には、市場縮小の未来しかないのだ。
折しも、ちょうど人口統計が発表され、史上初めて日本の1年間の出生数が100万人を切ったことが明らかになった。そして人口減少は10年連続で続いている。増え続ける世界人口に対して、日本に生まれる日本人というカテゴリの人は減り続けているという、純然たる事実がある。(*3)
つまるところ、ジャパン・ローカル・コンテクストに限定したコンテンツ産業には、数を基準にすると、基本的に未来の広がりはない。

ディズニー&ピクサーが世界中でヒットさせているアニメ・コンテンツというのは、ほとんどローカル・コンテクストが取り払った普遍的に受け入れられる物語である。(*4)

また、少し視点を変えて、80年代からの、任天堂ブランドを中心にした全世界での日本ゲームのヒットを考えてみる。世界でのメガヒット・コンテンツにはローカル・コンテクスト依存のものはほぼない。世界歴代ゲーム売り上げ本数ランキングなどを見ると、それはある程度裏付けられる。(*5)

コンテンツのプロデュースという視点で考えた時、それがアニメでもゲームでも良いが、本当に世界中でヒットするコンテンツを作りたいならば、引き換えに、ジャパン・ローカル・コンテクストには依存しない作り方が求められる。
だが、日本の中で、そのコンテクストから外れたコンテンツづくりというのは、簡単ではない。ローカルにいる人を想定される顧客としてコンテンツを作りたいと思うのは、感性として、ごく当たり前のことだから。

届ける顧客をローカルからグローバルに拡張した傑作を世に出し続けるのは、常識にとらわれず「プロデュース・イノベーション」を起こし続ける、クリエイティブなチームなのだ。かように考えると、1本の傑作をつくるより、それをつくるチームをつくり育てることへの注力こそが、はるかに難しくもあり、いっぽうで大きな果実も得られる戦略だといえる。

ディズニー&ピクサーって恐ろしい子任天堂ポケモンは凄まじい子、と改めて思った。

ってあれ、映画のレビューしてたはずなのに。この新世界はどこだ...。


*1

blog.monogatarukame.net

*2

www.makuake.com

*3

chibiblog.hatenablog.com

*4

ciatr.jp

*5

potatostudio.hatenablog.com

ことばをひらき、ことばをまつ。

すこし、かわったことをしたい。

ことばをつづるときに、漢字をそのままにせず、ひらがなやカタカナにかえること。
そして、やまとことばをえらぶこと。

そのおもしろさを、かんがえたい。

まずはじめに、このブログをかくあそびをいっしょにたのしんでいるメンバーのひとり、エムさんのことばをおかりしたい。

言葉をひらく、とじるだけで、文章の印象が大きく変わる

これをよんで、ハッとした。

ことばをひらく。

それまでわたしは、漢字をつづけざまにつかう、カクバったことばえらびが、ごくあたりまえのことだとかんじていた。
むしろ、漢字でかけることばなら、そうかかないのは、ミスやもれにみえてしまうのではないか、くらいのことをおもっていたかもしれない。
じぶんのことばのつかいかたを、うたがうことがなかった。

でも、こんかいのブログをかきつづけるゲームがキッカケで、すこしはなれたところから、みずからのことばをみつめるということが、わたしにおきはじめていた。

ブログをかいて、それをナカマにみてもらって、コメントやフィードバックをもらって、またかんがえては、かく。

なにをかいているか。
どんなかきかたをしているか。
だれにむけてかいているのか。

そのくりかえし。
なにか、いままでみていなかったものへのきづきがうまれていた。

という、ちょうどそのタイミングで、さきほどのエムさんのことばえらびへのおもいをきいて、カミナリがはしった。

ことばをひらく。ことばをとじる。

そのときにようやく、きづいたことがあった。
これまで、こころがじんわりするなぁ、グッとくるなぁ、とおもったことばたちというのは、じつにみごとに、ひらいたり、とじたりを、くみあわせてつむがれたものだった。

私は、人と話す中で、
「なぜこの会社に入ったの?」
という質問のほかに
必ず訊くことがもうひとつあって、それは、
「いままでやってきた仕事の中で
 いちばんおもしろかったことってなに?
 いちばんつらかったことってなに?」
ということなんですね。

(*1)

ひらかれた、ことば。
みえかたも、かんがえぬかれて、ことばがつむがれている。

あまりになめらかなことばのながれで、わたしはそれをつむいだひとの、たくみのワザにきづけなかった。

ビックリした。ながらく、きがつかなかったことに、すこし、ションボリもした。
けれど、そのワザをみにつけたい!と、つよくおもった。

そのあとは、こころがけて、ことばをつかってみている。
漢字をえらべるところでも、ひらがなでかく。
また、なるべく、やまとことばをえらんでみる。

それをすると、おもしろいくらい、ことばのフインキがかわってきた。

そして、ブログのゲームもついにのこり11にちになった、きょう。
このかきかたに、とりくんでいる。

ルールは1つ。
「漢字」ということばだけ、漢字をつかってよい。ほかはナシ。
あと、だれかのことばをかりるときも、漢字をつかってよい。

ということで、ここまでかいてみた。

これをやってみると、いかにわたしのアタマは、カタいことばをえらびたくなるのかということにきづく。
いきなりうかぶことばを、ヨコにどかして、ほかのことばがうかんでくるのを、じっとまっている。
そこからかきだすので、つづるのはとてもゆっくりしたペースになる。
きわめて、ふしぎなキモチがしてくる。

けっして、ラクではない。さすがに、あすからはやらないとおもう。

だが、とてもアタマをひねるあそびなので、いちどやってみるのは、アリかもしれない。

ことばをひらく。
ことばをとじる。
ことばをどかす。
ことばをまつ。

ところで、ひらがなだらけだと、むかしのドラクエみたいだね。

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*1

ほぼ日刊イトイ新聞 - 星空の下の仕事観。

LINEスタンプ市場は、緑が赤に染まっていたのか?

ふだん、知人とやりとりするときに、どのインターネット・サービスを使うかと考えてみた。
今や圧倒的にFacebookが多いように思う。Facebookそれ自体と、Messenger。

仕事や、特定のコミュニティ活動の仲間とはSlackでやりとりすることも結構多い。
あとは、ゆるくTwitterも使う。

LINEは、使うと言えば使うが、頻度は少ない。感覚としては、3日に1回くらい。相手としては、大学時代の知人などが多い。

Instagramはアカウント持ってるけど、ほっとんど使わない。

ということで、他者とやりとりする量の、感覚比率としては、
FB : Slack : Twitter : LINE : Instagram = 5 : 3 : 1 : 1 : 0
くらいに感じている。

というような私が、街や、電車の中の10-20代のコミュニケーションのサービス利用をそっと観察すると、この比率は全然違うなあと感じる。

ひとによるので、本当にただの感覚の平均という程度だが、
FB : Slack : Twitter : LINE : Instagram = 2 : 0 : 2 : 5 : 1
くらいに見える。

要するに何が言いたいかというと、みんなLINE大好きだよね、って思ったという話なのだが。前フリが長すぎた。

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LINEスタンプのことをふと考えていた。

LINEのLINEらしさって何に代表されるのかなというと、機能と特性という意味では、スタンプ文化なのではないかと感じていた。
公式キャラがスタンプとして感情を手軽に表現することに活かされ、それがキッカケで利用者がキャラを認識し、LINEのブランドが確立していった。
ビジネス面でも、スタンプの売り上げは存在感を増していった。

そして2014年2月、クリエイターズスタンプというのが出た。登場からの経緯については、SmaListというサイトの詳しい記事を参考にしていただくとして。(*1)
私の友人にも、スタンプを作って販売している人もいる。

このクリエイターズスタンプの市場が、いまやすっかりレッドオーシャンと化しているという記事をみつけた。(*2)

スタンプ市場とは、ざっくり考えると、
「スタンプ単価 * アクティブユーザ数 * ひとりあたり購入数」
みたいに分解できる。

まず単価だが、これはクリエイターズスタンプの場合は、120円程度が主流のようであり、2014年頃とあまり変わっていない。当時はたしか100円だった。

次にアクティブユーザを考える。
日本国内、スマホの普及がほぼ行き渡り、そしてコミュニケーションツールとして、LINE主体の文化が根付いたということだとすると、逆にいうとここからもう、爆発的にインストール数やアクティブユーザ数が増えることはない、とも思われる。

最後、ひとりあたり購入数だが、ここが決定的に頭打ちになっているのかなと思われる。

というのは、LINEのコミュニケーションは、じっくり考えてコメントをするというよりは、チャット型でポンポン伝えることが多いことに原因があると考える。要するに、そんなにたくさんのスタンプを脳で認識しておいて、いつでも繰り出せるようには、人間はなっていないんじゃないだろうか、ということだ。

「自分のキャラ・フィーリングにバッチリ合ったスタンプがなかなか見つけられない、(選択肢がいっぱいありすぎて)選ぶのが面倒くさい」(24歳:保育士)

であるとか

「LINEはスピード重視なので、スタンプに切り替える一瞬の手間が時間のロス」(27歳:デザイナー)

であるとかの街の声があるようだ。(*3)

気持ちよくスピード感をもってコミュニケーションするのには、必要な感情表現のできるお気に入りのスタンプがある程度の数あれば充分なのかもしれない。

以上から、ユーザが新しいスタンプを買うことが、2014年頃に比べると相当に減少しているのではないかと思い、つまりLINEのスタンプ市場全体が伸び悩みに来ていると考えた。
さらに、スタンプは公式スタンプとクリエイターズスタンプに分かれるので、そこも限定されたパイの取り合いになっている。
クリエイターズスタンプは、初期にはブルーオーシャンならぬ、グリーンオーシャンだった。が、いまやカンタンには儲からないレッドオーシャンと化したのかもしれない。


*1

smalistblog.com

*2

nurgle77.com

*3

nikkan-spa.jp

愛は金より出る 〜逃げ恥最終回直前 勝手に大予想スペシャル〜

明日最終回を迎えるドラマ逃げ恥。

その前に、今時点で触れといたほうが楽しそうなことに触れておきたい。
っていうか、ただのストーリーがどうなるかの予想!
なお、原作漫画は一切読んでない。(*1)

【平匡解雇問題】

あれだけ優秀な平匡さんなので、速攻、転職先がみつかるでしょう。でも、それだとあんまりおもしろくないように思う。
むしろ失業保険をもらって、あえてその間は転職活動をせず、みくりさんに家事を教えてもらいつつ、逆にみくりが商店街盛り上げ計画をがんばるために毎日外に出ていく、というオチのほうがおもしろいかな。

【ユリちゃんと風見さんと広告会社の子持ちのおじさんの関係】

前回、風見さんにグイっと迫られてドキドキが止まらないユリちゃんですが、大学時代から知り合いのおじさんともデートを続けているわけで、そっちの線も消えてない。最後どうなるかだけど、風見さんに対しては多分「あなたと恋人になることはできない」と告げて、でも別におじさんとすぐどうこうということもなく、しばらく今までどおりのユリちゃんで居続けるのではないか。あまりおもしろくないかもしれないが、主人公の物語のクライマックスを奪っちゃうわけにもいかないし。
ただ、この逃げ恥人気だと、スピンオフの後日談ドラマ「ユリちゃん外伝」とか作られる可能性は30%くらいありそう。

【結局、平匡とみくりは結婚するのかどうか】

するでしょ!さすがに。12月2日のブログでかいたとおり、ステークホルダーの説得が完了しているので、このまま結婚するかどうかは平匡とみくりが決めればいいことだから。
前回持ち上がった「愛情の搾取」これが解決すれば、契約結婚から、戸籍上の結婚に変わることができるはず。
愛とは何か? 金とは何か? 搾取とは何か?

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さて、逃げ恥は、みくりの妄想全開のキュンキュンドラマのフリをして、結婚という制度と慣習に対する根底からの問い直しを入れているのが、すごいなーって感じる。

守旧的な「旦那は外で働いてお金を稼ぎ、妻は家で家事(と子育て)をするから金銭的価値は生んでない」という通念に対するアンチテーゼ、というだけに留まらないわけです。それはかつて、けっこう出された話であるし、そもそも平匡も最初から金を払ってみくりを雇う時点で、家事に経済的価値が発生していることに疑問を持っていなかったという意味で、じゅうぶんに現代的な労働と家庭に対する感覚を持っていたわけなので。

逃げ恥のスゴいところは、ほんとに結婚しようとなったときにみくりのほうが「金銭という対価のない家事は搾取だ」と言い切れてしまうところであり、かつそれを聞いた平匡がおそらく最終回にはその論理を受け入れるであろう、という文脈がごく自然に成り立つということまで含めて、時代の風を正しく読み切った物語の作り方をしている、というところかと。

私たち人間は、進化の過程で、「不平等嫌悪」と呼ばれる心理的な選好を持つようになった。よーするに、不平等な取引を押し付けてくるヤツを見抜き、俊敏に反応し、そいつを懲らしめるような行動を取りたがる、ってはなしである。(*2)

これは男女のペア(短期的な恋人ではなく、長期的・継続的な関係の)においてもたぶん通じる話だと思われる。そして、お金という概念とシステムを人類が手にする前から、この選好は進化してきたはずなので、お金に限らず、なんらかの不平等嫌悪が私たちにはあるとも考えられる。

その本質を扱う行為、ならび状態として、逃げ恥における「搾取」が出てくると考えると、色々すっきり。

愛情というものもまた、目に見ることはできないけれども、人間のこころというすぐれた計測装置は、ある程度は正確に、それをはかれる。誰の愛情がどこに向いているか、自分にはなんの愛情が注がれているか。これを正しく測定して、行動に活かすことは、生き延びるうえでとても大事だっただろう。適切に愛されないと、生きられないのだ。

無力で、かわいい赤ちゃんが泣いて周囲の人間にギバー的ふるまいを求めて自己の生存を達成するようできていることを考えてみる。これは、そもそも細かい計測(それは赤ちゃんにはまだ難しい)ナシでも、愛情が一定量注いでもらえるように設計された、いわば良くできた自然の贈り物なのだ。
だが、だんだん成長するにつれて、ギバーの愛情を注がれる側から注ぐ側に回っていかないと、結局自分もコミュニティで居場所がなくなってくる。
現代はお金と市場のおかげで、ギバーでなくてもお金さえ獲得していれば生存そのものはカンタンになったけれど、一方で、コミュニティ&コミュニケーションに対して自らをコミットさせて、愛情を提供できるひとになるためのトレーニング機会を積めないままのひとも増えたのではないかと、データはないがそう思ったりしている。

平匡も、いや実はみくりのほうも、そういう意味では愛情の効果的な注ぎ方と受け取り方、増やし方をあんまり分かっていなくて、それはこれから2人で、あるいは増える家族を含めて、だんだん身につけていくんじゃないかと思う。
しかしその最初の一歩は、雇用契約としての「時空間の共有」にあったわけであり、結局のところ、お金以外の価値も、始まりはお金の副産物から生まれてきた。そこもまた、パンチが効いた物語の設計だなと思うのだ。

さあ! 明日はテレビの前で正座だ諸君!
しかし私は足が痛くて正座なんてできないので、ベッドでごろんとしながら観る予定だ! いいだろう!


*1

kisscomic.com

*2

不平等嫌悪 - 脳科学辞典

糸井重里さんにお会いして、岩田聡さんのことをお話しした

昨日、表参道にある、ほぼ日のお店TOBICHIを初めて訪れた。
『抱きしめられたい。』発売記念小さいことば堂 2016 というイベントに参加するためだ。 (*1)

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そして、糸井重里さんに初めてお会いした。
最新のほぼ日の本『抱きしめられたい。』にサインをもらって、少しお話して、一緒に写真をとってもらった。

✳✳✳

ほぼ日は、私はある目的のために訪問するサイトである。
具体的に言うと、私は岩田聡任天堂前社長)さんの物語を知りたくて、ほぼ日を読んでいる。

岩田さんと糸井さんはともだちだ。
もともと、広告の分野で仕事をしていた糸井さんがゲームをつくろうと思って立ち上げたMOTHERのプロジェクトから、お二人の仕事人としての繋がりが始まった。
そしてスーパーファミコン用ソフトMOTHER2の開発が暗礁に乗り上げたとき。ピンチに現れたのが、当時HAL研究所の社長だった岩田さんである。苦悩する開発陣を目の前にして、いまや伝説となった「このまま作り続けるなら2年かかるが、1からやり直すなら半年で作れる」という話を伝える。

せっかくなので、ほぼ日に掲載されている岩田さんと糸井さんご本人の対談から引用しておきたい。 (*2)

─現場でそれまでできたものをチェックした岩田さんは、糸井重里に向かってこう言ったそうです。これをこのまま‥‥。
糸井「これをこのままつくるなら2年かかります」
─しゃべるならぜんぶしゃべってくださいよ。
岩田「ええとね、私の記憶によると、とりあえず、その時点では完成する流れになってなかったんですね。で、まず『このままではできないと思います』って糸井さんに断言したんです。」
─うわぁ。
岩田「『よければお手伝いしますが、つきましては2つ方法があります』と。そこで、そのことばになるんですね。『いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります』と。」
糸井「かっこいいだろう? 」

かっこいい。あまりにもかっこいい。
頓挫しかかったプロジェクトの現場にさっそうと現れた救世主が、こんなことを言ってくれたら。
困っているプロジェクトメンバーは、どんなに救われたことだろう。

結果、それまで4年の期間をかけても完成に進むことのなかったプロジェクトは、岩田さんが加入してから後は1年で開発を終了させ、1994年には販売にまで漕ぎ着けた。
国内でも多くの人がMOTHER2をプレイしたが、アメリカでも翌1995年にはEARTHBOUNDとして発売され、熱狂的なファンを生み出している。 (*3)
今なお、もっとも好きなゲームのひとつに、本作の名を挙げる人も少なくない。

✳✳✳

岩田さんは2015年7月11日、55歳の若さでこの世を去った。

数々のプロジェクトを共にした仕事仲間であり、そして最もこころ通じあった友人でもあった糸井さんのくるしみはとても大きく、その頃の糸井さんの発信には、岩田さんへの思いが強く、何度も出てくる。

私自身、岩田さんに多大な影響を受けた。人生の方向性を導いてもらったと感じることは一度や二度ではない。
岩田さんが亡くなったとき、自分の中の一部がもがれるような感覚に陥ったことは今でも鮮明に思い出せる。

あれから、まもなく1年半が経とうとしている。

昨日、はじめてお会いした糸井さんに、私はこれまで岩田さんの言葉を伝えてくれたことへの心からの感謝と、これからも、岩田さんのことを発信し続けていただけたらうれしい、と伝えた。
糸井さんはやさしい笑顔で、話を聞きながら、うなずいてくれた。

誰も、あの少し甲高くて早口で、温かみのある声を生で聞くことは、もうできない。
けれど、深く知るひとが紡いでくれることばを聞き、目をつむることで、心の中でいつでも会うことができる。 (*4)

ひとのいのちは限りがある。だからこそ、ことばを胸に刻んで、語りつぎたい。

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*1 www.1101.com

*2 www.1101.com

*3 jp.automaton.am

*4 www.1101.com

酒を飲まないようにするには、準備99%、現場1%

習慣を変えるのはとっても難しい。

何日か前のブログで酒を飲む必要はないんじゃないの、ってことを書いた。書いたということは、ある程度それの実行に対しても意識が向いたということだと思う。でも、結局それ以来何度か人と会って飲食する機会があったときに、酒を飲むことを止めることはできなかった。

「酒を飲むことを止めることはできなかった」って書くと、なにやら深刻に見えるけれど(笑)、別にアルコール中毒ってわけでもないし、そこまで酒癖が悪い(飲んで人に不快なことをする)タイプではない、はずなので、飲むことにそこまで問題はない。
習慣を変えたいというもやっとした意識づけは、実際の行動にはほとんど効果がない、ということが自分を実験台にして、よく示された結果ではある。

もっとも大前研一の「行動を変えるのにもっとも無意味なことは新たな決意」という名言のように、これが「強い決意」だったとしても、多分なにも行動は変わらなかったはずだ。今回、別に強い決意は何もしてないけど。

こう書いてみて、ふと思うのは、強い決意というのは、その発想じたい、かなり悪いものかもしれない、ということである。
なぜかというと、たとえば強い決意でもって「絶対に会食で酒は飲みません!」と誓ったとして、実際に酒を飲むことはとても簡単だからである。
そして実際に酒を飲む、すなわち決意に反する行動をとったときに、自分を責めてしまいやすい。これが悪いと思う理由だ。

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仮に、「酒は飲まない」と強い決意をもったとしよう。しかしながら、人との会食の約束が、その決意よりも前の段階で決まっていて、その場所が夜の居酒屋だとするなら、メニューには100%の確率で酒が入っているはずだ。 そして、自分に酒を飲むという習慣が定着していて、そして会食の相手も同じ習慣を持っているのであれば。
「何飲みますか?」「じゃあビール」「俺も」「私も」の流れが始まったときに「ぼくは酒を飲まないつもりなんで、ウーロン茶」と言うのは、とても難しい。

ここでウーロン茶を頼む難しさの理由は2つある。
1つは自分の習慣じたいが、無意識に染み付いているからである。

行動経済学者のダニエル・カーネマンは、人間の思考と行動には「速い」ものと「遅い」ものの2つがあると提唱した。 (*1)
速いほうはシステム1と呼ばれ、思考と行動のオートパイロットである。遅いほうは、システム2と呼ばれ、熟慮のうえの決定を指す。

居酒屋でビールを頼むのは、明らかにシステム1のなせる業だ。そして、システム1は基本的に、システム2よりも速く、強力に作動する。だから、行動を変えようと思うたびに、システム2を使おうとする、つまり「意識をもって行動を変える」のは、人間のしくみからすると、かなり不合理な選択ということになる。

もう1つの理由は、周囲のひとの行動の影響である。

会食は1人ではできない。必ず、友人や家族、接待相手などなどがいるはずだ。相手との関係性や文脈にもよるが、いずれにせよ飲み物、食べ物のメニュー選択においては、必ず影響を受け合うであろう。
人は極めて社会関係に影響される生き物だ。そうやって、自然界の厳しい環境を生き抜いてきた。「周囲に流されない」と決意することは簡単だが、私たちの思考と行動は「周囲に流されてうまくいく」ほうを選ぶのが得意なのだ。これもまた、システム1の奥底にがっちり埋め込まれているので、行動の現場で抵抗することはむずかしい。
みんなが酒を頼むのに、自分だけ断れないのは、当たり前だ。

という、2つのシステム1の強い行動原理があるのに、それを「決意」というもので変えるのは、まず持って不可能と思うべきなのだ。

そこを認識しないで、「酒を飲まない」と決意したのに、それが守れなくて自分を「なんて意志が弱いのだ」と責めてしまうと、これは負のループの入り口だ。
これが繰り返されると、まじめな人ほど、学習性無力感を覚えるようになってしまう恐れもある。非常に危ない。 (*2)

意志・決意は、強い、弱い、という形容詞のバロメーターで評価しないほうがいいのだ。実態としては、強いことが良いわけではないはずだし、そもそも今回のポイントとしては、意志に強さという基準を持ち込まないほうが幸せなんじゃないかということなので。

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とはいえ、酒を飲まない、という達成すべき状態の目標を立てることは、とりわけアルコールが悪い影響をもたらしてしまう人には重要である。そこはやっぱり、達成すべきだ。

では、どうすれば居酒屋で、酒を飲まないでいられるのだろうか?

結論としては、それは通常かなり困難なので、居酒屋に行ったら諦めることが良いと思う。既に決まっている予定については、飲むことを自分に禁じないほうがよい。

ただし、そこから先、居酒屋になるべく行かないように行動すればいい。
たとえば、メールやFacebookメッセンジャーで友人から誘いが来たならば、別に即座に返答する必要はないはずだ。 そこがまさに、システム2の出番である。
即答でシステム1が「行く行く〜!」と返すのを待ったをかけることは、居酒屋の現場で酒を頼まないことに比べれば、よほど実現性は高い。

そこでシステム2を使うためには、準備が必要だ。「意志の力で」友達の誘いを断るのは、難しいのでやめたほうがいい。

たとえば、代案を出すことは、かなり有効なはずだ。「夜ではなくて、昼のランチにしませんか」とか。
これなら、友達と会うことと、酒を飲まないことを両立できる。お金も安上がりになるはずで、お得でしかない(笑)。
こうやってお得になった額を手帳なり家計簿アプリなりで記録していくと、もしかしたら、続きやすくなるなどのプラスの効果もあるかもしれない。
とにもかくにも、準備99%。うっかりランチの店で、メニューに酒を見つけても頼まないようにする、1%くらいしか現場でやることはない。

どうしても夜の酒のシーンになるものは、おとなしく諦めること。それ以外を減らせばいい。

酒を飲んでしまうという習慣を変えるには、習慣を「量と頻度」と定義しなおして、それをブレークダウンして減らせるところから減らすのが、一番効果的だろうと思う。

なんで、こんなこと書いているかというと、この連続ブログを書く企画の自分の継続を危うくするのは、ほぼほぼ毎回酒なので(笑)。 今日もこうやって時間ギリギリに書いている。

そもそも12月というシーズンにこれを企画したことが無茶だよね、と改めて思うけど、それもまたシステム1の直感は、未知の習慣づくりをうまく予測できない、という証左だと思ったりもする。


*1 blog.livedoor.jp

*2 diamond.jp