ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

エレベータの開ボタンを押すことは人助けでないと言った先輩の話

最初に就職した会社に、かっこいい先輩がいた。
Zさんと仮称する。
ぼくより10歳年上の男性だ。

彼は事あるごとに色々なことをぼくと話してくれた。
10歳も下の若造に、偉ぶることもなく、とても楽しそうに、丁寧に。

あるとき、経緯は忘れてしまったのだけど、こんな話をした。

「H君(ぼくの1つ上の別の先輩)がこないだエレベータの開ボタンを押しながらニコニコして『どうぞ降りてください』と言ったので、
 『H君、エレベータの開ボタンを押すことは人助けではないよ』
 と彼に言ったら、ポカンとしていたよ」

それを聞いた僕もポカンとして、彼に質問した。
なぜですか、と。

「だってね、エレベータは放っておいても、フロアに着いたら開くようにできているのだよ。
 押そうが押すまいが、関係ない。
 ボタンを押すことが、人助けだと考えるほうが変ではないかい?」

と答えが返ってきた。
なるほど。

「人助けというのは、人が本当に困っていて、自分では解決できないことに対して、必要な助けを差し伸べることを言うのだよ」

Zさんは微笑みながら話を終えた。

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それ以来、
「常識を持ち出す空気」や「場の空気」に押し流されて無意識に、人助けを定義したり、自分が人助けをしている、と思うことがないか。
意識的に、留保して考えるクセが着いたような気がする。

別に人助けのためではなく、あくまでマナー、常識として開ボタンを押しているのだ、という人も多いだろう。
しかし、交通の常識・マナーとしても妥当なのだろうか?

たとえば「エスカレータの右(または左)を開けて、歩行する人に1列あける」のはマナーとされているが実際輸送効率は落ちる。

ロンドンの地下鉄で片側空けを禁止する実験をしたところ、輸送効率は30%向上したという。(*1)
片方開けるためには、面積あたりの搭載量が著しく減る。
両側にしっかり立って歩行禁止にしたほうが全体最適なのだ。

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エレベータの開ボタンも同じことで、そもそも自動で開くのにわざわざボタンを押すのは、エレベータ前のパネル塞ぎにもなるし、むしろ効率を下げているのではなかろうか。
なんのために開ボタンがあるかだけど、「開く時間の延長」とか、「トラブル時などに内部からの操作で開けられるようにする」とかが主目的ではないか。
(私は海外のエレベータ事情は詳しくないので、あくまで日本国内の現代的な建物の、それなりに新しいエレベータを想定して話をしていることは付け加えておきたい)

マナーというのは、元は、それを行うことが全体最適になる、効率化、円滑化になる、という挙動の定着として、始まったものだと思う。
しかしテクノロジーの進歩や、社会的前提の変化によって、本来の目的が達成されなくなっているとしたら、そのマナーは遵守すべきなのだろうか?

何が言いたかったのか忘れてしまったけど、久しぶりにまたZさんに会いたくなった。


*1

world-action.net

ペインがなくても、未来のために継続行動できますか?

数ヶ月前から整体にかよっている。

あるとき、背中のあたりに痛みを覚えて、肩こりかなにか分からないがこれは辛いと思ったことがきっかけだ。以前、体調が悪くなったときに整体に行ったらだいぶよくなったという知人がおり、その人の言葉を思い出したので整体に行くことにしたのだ。

結果的にその整体の方と、私の相性はかなり良かったようで、最初の1-2回で背中の痛みはほとんど消えた。その後も、定期的に月に1回程度通っている。行くと、体調が良くなる気がするので、行くことは好きだ。
整体の人からも「身体のメンテナンス」のためには月1回くらい来てくださいと言われている。

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が、今日の朝、整体を予約していたのに、行くのを忘れそうになってしまった。ふと思い出して慌てて向かった。すぐ近所なので、10分の遅れで済んだ。

なぜ忘れてしまったのか?
私は予定管理をGoogleカレンダーにすべて入れるようにしているので、そこは今回もちゃんと入れていた。
ただし、そういったツールとは別の次元で「ペイン」がなかったので忘れてしまったのだ。そう考えている。

ペインとは痛み。
スタートアップが顧客の課題を発見して、それに対するソリューションをつくろうというプロセスにおいて「顧客のペイン」を探り当てることが、ひとつのやりかたとしては、とても重要になってくる。
「なんとなく、良さそうなもの」をつくっても、それは全然顧客にとってありがたみはない。顧客が求めているのは「ペイン」を取り除いてくれるもの、すなわち「ペインキラー」なのである。

私の整体通いについては(スタートアップとはなんの関係もないけれど)ペインはまさにその名の通りリアルな痛みの訳だ。
でも、ある程度整体にかよって痛みがなくなったので、そもそもペインがなくなってしまうと、行く理由そのものを忘れてしまう。
本当にはメンテナンスとして行き続けたほうが「予防」になるから、コストパフォーマンスも良ければ、自分にとっても幸福度が高まるはず。それは頭では分かっていても、ペインが消失すると行くことを忘れてしまう。

それが人間のサガなのかもしれない。
健康にかぎらず。
新しいスキルの習得や、やったことのない仕事を始めてみる、あるいは経営者であれば新規の事業の種づくり、のような将来への投資もこれに通じていると感じる。
いま必要でないもののために、コストを払って、自らの時間と意思エネルギーを使って何かを始めて続けるのは、とてもむずかしい。

逆に、未来の自分の状況を予見して、いまペインがなくても、とるべき定期的行動を設定し、それを続けることができる人は、それだけで、そうでない人に比べて未来に大きな差がつくのではないか?
私自身は、未来予見・行動継続力がとても低い自覚があるので、ここに対する解の方向性を探すべく、もがいている。

型をもつこと、型にとらわれないこと

型があると、何か新しいことを習得するとしても飲み込みが早くなるなと思う。

単純なたとえだが、数学というかロジックというか、「行と列のマトリクスの仕組みと有効な場面」を「型」で理解していればエクセルなどの表計算ソフトの使い方を学び、効果的に使うことができるのが想像できる。
逆にいうと、その型なしでエクセルをどう習得するのかが私にはもう想像がつかない。

しかし一方で型の存在が、革新的な考え方やアプローチへの素直な感動と、吸収したいという気持ち、行動を妨げてしまうケースもあるんだと思う。

たとえば水泳において、「伏し浮き」というテクニック(というか原理)がある。
これは、人間は自然な姿勢を取れれば必ず浮く、という原理をただ実行するだけのことである。
が、下手に水泳教室や我流で、「バタバタ手足を動かすから沈まずに居られる」という認識の型を身に着けてしまっている人は、この伏し浮きの習得が困難になりやすい、と私が伏し浮きを知ったWebサイト (*1) に書いてあった気がするのだが、実際そうだと思う。

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型というか自分の信じる常識が、真実への対面から目をそらす理由を自分の中に作ってしまうのだ。

かように考えてみると、新規に学びを得んとするときに、それの助けになる型と、邪魔になる型がありそうだ。
その差分はどこにあるのか?

私の意見では科学的に反証、検証のプロセスを充分に受けた科学的真理にもとづく型は、基本的に助けになる。
一方で、思い込み始まりで確かめられていない型、科学的審議のプロセスに充分さらされていない知見ベースの型は、新規なことの学びにおいてむしろ害になっていそうだ。

たとえば、今日の例示絡みでいうと、エクセルの件ではX,Yの二軸の情報パラメータを用意したら、それらがそれぞれどう関わるかをマトリクスに表現できる、というのは明らかに充分反証可能性を踏まえて真理になっているので、信じてよいと思う。

一方で、「手足をばたつかせて浮力を得る」という思い込みは科学的に反証されていないので、あまり信じない方が良い型でありそうだ。

ではどうすればそもそもその型が信じられるかどうかを判定すればいいのか?
自分で試行錯誤と検証を繰り返して、場馴れと、先を見据えた学びを持っておくとよいかもしれない。


(*1)

大和部屋(やまとべや)

パソコン・エイジがスマホで文章を書くときに起こりがちなこと

スマホを使って文章を書くことに抵抗があるのは、やはり自分がパソコンからデジタルに入った人間だからだろうかと思う。
どうやってもパソコンを使ったほうが効率が良いではないか、という先入観がある。

文章(レギュレーションが特になく、思うままに書けるものをここでは意図する)を書くというのは、順番に分解してみると以下になる。

思考する→タイプする→書いた文を見て、修正か、書き続けるかを判断する→思考する

このループ。
このループこそが自然だ、とパソコンを使ってタイピングするときは思う。

だがスマホを使って文章を書くときは、どうもこのループとは少し違う感じがする。

具体的には、

思考と同時にフリックで打ち込む→打ち込んだものを振り返ることなく、また思考して同時に打ち込む

という、戻りのない進み方をしている気がしてならない。
もちろん、少し戻して書き直すこともあるのだが、パソコンを使うときよりも遥かに戻る割合が低い気がする。

なぜこうなるかはインターフェイスの観点からだいたい説明がつくような気がする。

1.同じ小さな液晶パネルの中に、指とソフトウェアキーボードと打ち込まれる文章が、三位一体で現れてくるので、視界が邪魔だと感じないよう、没入するように脳が意識を集中させる
2.言葉の推測変換が迅速に出てきて、タッチで選べることにより、自分のよく使う語彙を、その言葉を思考し切るよりも早く入力できる
3.カーソルの移動領域がパソコンに比べて限られるので目の動く範囲が絞られ、結果的に遡って目の端に書いたものが入ることが少ないため、見返しがあまり起こらない

こういった点が主と考えている。
結果何が起こるかというと、推敲が少なく、文章を書き終えた時点では全体のバランスがあまりとれていない文章である確率が高まるのではないか、と。

このように書くとやはり旧世代のパソコン愛好家ですね、なんて感じがするが、自己弁護がてら意見を表明すると、むしろ高速に、ある程度の文章量を紡がないといけない場面ではスマホのほうが有効なのではないかと思うのである。
無意識的に推敲したくなるモードを抑制することができるのではないか。
ゆるいブログを毎日書くのが目的なら、ひょっとするとそのほうがいいのかなと思う。

実際いまこの文章はスマホで書いているが分量の割に、パソコンで書くときよりも早い感じがしている。正味20分もかかっていない。

私含め、パソコン世代は「文章書くならパソコンでしょ」という先入観を抑制し、スマホで書くことの強みを理解して、ニーズに応じて使い分けることができたら、文章のアウトプットが質量ともに向上させられる可能性があると強く感じている。

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ブログの場合、スマホだとどこまでいってもやりづらいこともある。
それは、画像探しと、挿入の操作。
すなわち、情報を検索する、ビジュアルに量で判断する、アプリケーションを細かくポイント操作する、というプロセスは、どうやっても厳しい。
文章を書くという、流れがリズムに乗るケースについてはスマホは優れているが、逆に言うと、バランスについての思考と判断を繰り返し要求するケースでは、使いやすい道具ではないと私は思う。まだ。

というわけでいまから画像を探すお仕事。
が終わったので公開する。夜中3時。

30日間新しいことをはじめるときの障壁と打ち手案

www.youtube.com

30日間の新しいことへのチャレンジを提案するMatt CuttsのTEDトーク
3分間に凝縮された挑戦の軌跡と、リアリティがにじみ出る。

30日間続けるだけで、人はここまで変わるキッカケが掴めるんじゃないか?
そう思わせる力がある。

実際に何か新しい習慣を30日続けようとしたら何が障壁になるのだろうか。
ピックアップしてみると

・抜き差しならない事情が発生した
・時間がない
・飽きた
・忘れた

このあたりが挫折の主要要因になりそうだ。

個別に打ち手を考えてみたい。

・抜き差しならない事情が発生した

たとえば家族や自分が大きな病気にかかった、など。
このような状況で続けるのは、かなり難しい。
こういったケースは「ホールド」または「スキップ」を最初から認めておけばいいかもしれない。

ホールド → n日間できなかった場合は、n日間を後に続ける
スキップ → n日間できなかった場合は、飛ばしてOK

最初から逃げ道を作るようではあるが、これくらい予見していたほうがなんとかなる気もする。

・時間がない

これは優先度の問題に思える。
仕事や家事がある、それに追われて出来なかったとしたら、自分の中で30日間チャレンジの優先度を高く置けてない。
とするともしかしたらそれは、最初からチャレンジを始めることでなかったのかもしれない。

もちろん、始めるべきことだったけれど、心理的負荷が高くてつい後回しにしてしまうというケースも多いだろう。
そう感じるなら「量の削減による時間の短縮」を認めるといいのかもしれない。
たとえば「毎日5km走る」であれば「毎日1km走る」にする。
1kmなんて10分足らずで走れてしまい、運動にならないと感じたとしても、それでよいはずだ。 大事なのは続けること。

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・飽きた

かなりの難敵、飽きである。
飽きは、慣れによる刺激の低下に起因することが多い。
であるとするなら、飽きないように創意工夫を入れることがひとつ有効な打ち手ではないか。
たとえば料理が苦手な人が、料理の腕を高めたいと思って「毎日、料理をする」というチャレンジをした場合、自分のできる料理幅が狭い人の場合は、同じようなものばかり作って飽きてしまう可能性がある。
そこで、たとえばExcelでもなんでもいいのだがリストと乱数の使える道具を用意して、そこに食材リストを適当に書き、乱数を発生させて、ランダムで出てきた食材を使った料理をする、というゲームにしてみるというアイデアを今思いついた。
自分の脳内の選択肢では決して出てこないものを取り込むことで、ゲーム性、刺激を高めることができるのではないか。

・忘れた

人間、忘れる。
特に新しいチャレンジの場合、日常習慣に根付いていないものだから、「習慣の無意識」のパワーに飲み込まれて、本当にあっさりと毎日のチャレンジのことが意識に漏れる。
チャレンジの内容が面倒くさいという意識が心理の中にあると、むしろ無意識的に忘れることでそれをなかったことにしようという脳の働きさえ起こっているような気がする。

これに対するひとつの有効な打ち手は「複数人でやる、コミュニケーションを日々続ける」ではないか。

そして今書いていて思ったが、30日間チャレンジを複数人でやる場合、同じ内容でなくても良いのではないか。
たとえばAさんは「毎日料理をする」、Bさんは「毎日3km走る」、Cさんは「毎日日記を書く」のように。でも、毎日チャレンジすることがあるのは変わらないので、コミュニケーションしてモチベートしあう動機は存在する。

と、このアイデアを検証してみたい気もする。

私はいま「30日間ブログを書く」をやっているが、この派生系として「30日間、毎日ホニャララする」同盟を立ち上げてみる、等。

特殊解を見出す旅:人生はロールプレイングで。

mirai.doda.jp

読んでいると、色々な感情が去来する。

私のキャリアは、大学卒業のあと、8年間、合計3社の企業の会社員(=本業)としてのみ、働いてきた。

そして今年、本業一本から「色々な仕事を並行する」の働き方にガラリと変えた。
そこで、気づいたこと。

「なぜ自分は仕事をするのか問う」
「その仕事は誰の何の役に立っているのか検証する」
「発揮する価値を自ら評価し、他者の評価とすり合わせる」

これを自分で繰り返し、他者との対話での探求とアップデートしていくことが、死ぬほど大事なんだということ。
で、自分はそれができてない。

ただ単に仕事の種類を増やすことを「副業/複業」と認識して、それにハマってしまうと、複数の期限に追われて疲弊して、気がついたら大切な時間を失ってしまっていた。という状態に行ってしまうのかもしれない。

深いフロー状態に没入し、それが複数人で集まる掛け算で初めて生み出される「感動をもたらすインサイトと、社会への卓越したインパクト」。
ここに、たどり着きたい。
そう願っているはずなのに、そのために行動する難しさ。


これは、他者の知見を取り入れながら、自分に適した働き方と働き場の「特殊解を見出す旅」ともいえる。

起業家、会社員、個人事業主、それらを組み合わせた複業家。
どの働き方にも優劣はない。
働くを楽しいと思って、ワクワクする毎日を重ねられるはず。

大企業、小企業、ベンチャー、プロジェクトチーム、行政組織、非営利組織、共同体、オープンソース・コミュニティ。
どの組織や形態であっても、社会へのインパクトを出しうるはず。

どの働き方で、どの形態で、何のために仕事をするか。
選び取り、決断して、没頭する。
それを実行し、応援し、支える人たちが繋がっている。
仕組みが回る。
その状態こそが、大事なんだと。


「旅」に触れたら、ふと思ったこと。
ロールプレイングゲームって、旅だなと。

役割を演ずることと、世界で旅をすること。それらが分かちがたく結びつくビデオゲームは多い。

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“人生はロールプレイング!!” とドラクエの生みの親、堀井雄二さんは言った。(*1)

観客や傍観者でいるのではなく。
役割を選び取る。
人生の主役を演ずる。

それは、他人の人生を生きるということではない。
物語の筋を掴み、自らの意思をもって全力で演ずるがゆえに、他者との共存・協奏が起こり、かけがえない価値が生み出される。

仕事への取り組み方、そしてキャリアの中での大切な行動は。
ロールプレイングで生きたい。


(*1)

www.4gamer.net

映像作品の評価、他者を理解していくこと

いま、2日前くらいにテレ朝で放送してた新海誠の”秒速5センチメートル”の録画を観た。
はじめて観たときと、面白いくらい、自分の中の印象が違った。 (*1)

初めて観たといってもそんな昔ではなく今年1月の三が日。ぶっ続けで、一連の新海作品として観た。このときは正直、映像が綺麗だなくらいしか思ってなかった。
だけど、自分の体験して学んだことを反芻しつつ、ストーリーや構成がわかった状態で、今日2回目として見ると、「この作品では、"伝えられない好き"のもどかしさの機微が描きたかったのかな」と肚落ちした。
映像作家のメッセージがすべて分かった、ということではない。ただ自分なりに納得いく解釈を見つけ出せたということだ。

この作品は、amazonやネットのレビューで、低評価の人と高評価の人がくっきりと分かれている。 (*2)

最初、作品がハイコンテキストでコンテキストが受け入れられるかどうかで評価が分かれている。という解釈をすべきなのかと思ったが、そう単純でもないと思い直した。

これは、視聴者の演出に対する理解がどこまでできているかに着目すべきなのかと思う。
どういうことかというと、具体的には、演出に対する理解がなくても絶賛して★5つつける人もいれば、よく裏まで理解して納得しても★2とか★3とかをつける人もいるんだろうということ。

何がいいたいか。
★や点数なんか見ても、なんにも意味ある情報は得られない。どころか変な先入観を得て、すてきな出会いになりうる作品を遠ざける効果すらあるのではないかと思ってしまった。

設問の設計が曖昧な点数システムに基いて数値化されたデータは、ひとりひとりに、さらに時によっても大きく変動する私達の心に新しい感覚をもたらせるかどうかの指標にはならない。
かといって、レビュー文章を読めば万事解決かというとそれもまた、文脈の共通理解がなされていない限りは鶏卵みたいなもので役に立たない。

結局一番有効なのは、自分が何かほかの理由で信頼している人がススメてくれるかどうかという属人的な情報、もっというとそれも双方向的な「情報交換」なんじゃないかと思う。
まだちょっとここらを説明しきる論理が持ててないんだけど。

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さて。

他者を理解するというのもこの作品を理解する際のフレームに通じるものはあるのかもしれない。

「引き出して、傾聴しよう」という姿勢が自分を変えて、相手の持つものを引き出して、時間をかけてまさに関係を”構築”していく。

最初はよくわからないなこの人、と思っていたくらいのほうが、その後で変わる余地が大きくて、おもしろかったりするのかも もしれない。

見えるものだけを評価したがってしまうと、そのよくわからない状態に身を置くところに、踏み込めない。

見えないものに何かを見出そうという行為は、自分の安心場所(コンフォート・ゾーン)からの踏み出しだとも言える。
その踏み出しをするかしないかの、差分の蓄積が、その人が生涯にわたって他者に生み出す価値と、他者から受け取るもののの大きさ、つまり幸せの積分の総量に出てくるのではないか。
検証、してみたい。


*1

give.hatenadiary.com

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