ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

ほぼ日に学ぶ、自由と慣性の組織。

組織の中でパフォーマンスを出すためには時間がかかる。
と思うのだけど、これは先入観なのだろうか。

ぼくは、いまフリーランスで働いている。
ビジネス、マーケティングに寄った仕事。
そして、経験のない仕事も多い。

こうなってくると、結局多くのことを周りのメンバーに聞くしかない。
聞かないで済まそうという意識はない。
聞いて聞いて学んでの繰り返しで、知見を貯めていく。

そうやって貯めた知見は、もちろん仕事をするための知識であることも多い。
ただし、仕事のアウトプットの水準、早さを決めているのは、その話を聞く相手に対する関係性の構築にあるのではないかと感じる。

良い関係が作れたら、仕事は早くて、質も上がる。
関係性を築けていないと、仕事には時間を要するし、質も上がっていかない。
不幸な関係になってしまうと、一切話を聞かずに目先の仕事は済ますが合意ができておらず出し直し、やり直しで負荷がかかり続ける苦しい仕事になる。質はもう目も当てられない。

良い関係、ということばが定義があいまいなので補足する。
ぼくが考えるに、「オープンなマインドで、すぐ仕事に必要と感じる質問、そして必要でないが楽しめる雑談を、相互に繰り出せる関係」が、良い関係だと思っている。

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と、ちょうど今、「ほぼ日」の組織研究の記事を読んでいたら、ぼくが思っていたことの本質がすでに言語化されていた(笑)。 (*1)

ひとことでいうと、ほぼ日では、雑談と会議を分けていない、ということ。
外部の人から見ると要点の得ないように見えるただの雑談が、ユニークな商品開発に繋がっているという。

このほぼ日の組織について、筆者は「環境構築自体に多大な労力がかかっている」と分析している。
ぼくもそう思う。
一朝一夕で、こんな組織が作られるわけがなく、また長くその微妙なバランスの心地よさがほっておいて保たれるものではないということを。

これがぼくが冒頭で述べた「時間がかかる」ことのひとつの究極系なのかなと思う。
逆にいうと、ただ「雑談を奨励する」とか「フラットな組織にする」とか「人材の交流をはかる」とかのお題目を掲げるだけでは、全然ユニークなものが生まれる環境にはならない。

厳格なルールで縛る、でもなく。放任主義で価値あるアウトプットがなにも出てこない、でもなく。
「自由と慣性」を、温泉で浴衣を羽織るかのような肩の力の抜け具合で、日常化する。意識をせずに「感性の対話」を続けていく。

それができる環境としての会社組織とは、なんて素敵なところなのか。
唯一の正解ではない。再現性は低い特殊解かもしれない。
でも、その環境に学ぶことの価値は、企業人であろうがフリーランスであろうが、いや家庭にもローカルコミュニティにも、多々あるのではないか。


*1 www.dhbr.net

レゴを使って他人に目標を立ててもらったら、肚落ちた。

レゴを使って他人の目標を立ててみるというイベントに参加した。

まず、レゴ・シリアスプレイというレゴブロックを使ったワークショップがある。 (*1)

そして、「他人に目標を立ててもらう」 (*2)
という、4人一組になって、自分以外の3人が目標を立ててくれるという常識破りの目標を作る手法がある。

この2つを融合させたワークショップが、今回私が参加したものだ。
(実は、私はこのワークショップに参加するのは2回めなのだけど)

このワークショップは

「わたしの現状をブロックでつくる」 ↓ 「ほかの3人にそれを使って現状を説明する」 ↓ 「3人がわたしに成り代わって、ブロックで目標をつくってくれる」 ↓ 「それをわたしにプレゼンする ×3」

という構成になっている。それを4人分繰り返すのだ。
そして最後に「自分の目標をまた自分でつくる」ことをする。

今回私が、現状認識としてつくったものがこれ。

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それを説明することばを3つほど添えてある。
エネルギーはあるのに、やりたいことが集束しない、足がバランス悪くてうまく歩けない。

それに対して、ほかの3名の方がつくってくれた「目標」がこれ。

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とくに、
「無理に集束しなくてもいいんじゃない?」
という目標提案と
「自分がととのった人間じゃなくてもいいんじゃないか。」
「行動していれば自分の原点があとからついてくる」
という目標提案が、ぐっときた。

そして、他の方の提案を材料にして、最後に自分でつくった目標がこれ。

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ブロック、そこから言語化したものに、自分の中では肚落ち感をつかんだ。


レゴシリアスプレイのワークショップは、「つくってしまった形ドリブン」なのが面白い。
考えるより先につくってしまって、あとから説明をつける。
その「あとづけ」が自分の無意識を、顕在化させる効果があるように思う。

そして、ほかの人が立ててくれる目標から、自分の目標に取り込むときもブロックなので、言語と違って、言葉どおりに「合体可能」になる。
そこからさらに、「あとづけ」で言語化させることで、自分の無意識を引きだして、そこに認識と変化のスパイスを加えて、少し変化がもたらされた無意識を再度、顕在化するということで、「ほかのひとの考えを身に取り込む」ことが成りたつように感じられる。

ほかにこの応用としては、自分の好きな言葉や、尊敬する人の哲学をブロックで創ってみる、それをほかの人のを聞いてみる、とかもできるかもと思った。

今回のワークショップ主催、運営くださった皆様、ありがとうございました。


*1 matome.naver.jp

*2 mirai.doda.jp

はたらくに思い悩める梅雨の朝

ぼくはいまフリーランスではたらいている。
といっても、ソフトウェアエンジニアやデザイナーではない仕事をしている。ビジネス畑。

具体的になにをやっているかというと、
「イベントの運営」
「事業会社のインターン・手伝い」
非営利団体の事務局」
「企業のSNSの運用」
「法人向けの小さい事業の立ち上げと運用」
など。

8年間、合計いくつかの会社で正社員としてフルタイムで働いてきたのだが、思うところあって会社員をやめてフリーランスになってみた。

この働き方に変えて、いろいろな発見がある。
良かったことと、辛いことを書いてみる。

良かったこと

仕事が選べるようになった。

命じられたことをやるのではなくて、働きたいと思う人と働くことができるようになった。

働く場所と時間の自由が得られた。

朝起きて会社行くのが辛いので、通勤をなくして家や違う場所で働くことがある程度可能になった。

辛いこと

値付けに苦しむ。

会社員だったときは、自分で自分の給与を算定しなくても会社が決めてくれて、それを受け入れるだけでよかった。
いまは、自分の働き方、成果、それに対する対価を自分で定義して、契約相手と納得行く合意を作らないといけない。
これは難しくて、結果ミスって馬鹿みたいに安く受けてしまって、辛かったりする。
ちなみに結果的に月収はサラリーマン時代より半分くらいになった。なんとか生活はできるレベル。

労働時間とエネルギーのかけ方に苦しむ。

操業時間どころか、コアタイムなるものすらないので、自分で働く時間を決めないといけない。
そして複数仕事を掛け持っているので、投入時間量とエネルギー配分の波があってキツイときにはとてもキツイ。

自分のアイデンティティに苦しむ。

これは、ぼくが明確なスキルの強み(エンジニアリングなど)を持たず、かつ熱意の注ぎ方がわかっていないことに起因していて、かつ複数の仕事をバラバラやっているからではあるが。
締切に追われていると、自分って何をやりたかったからこれをしてるんだっけ、というのが迷いがこみ上げて辛い。


以上、辛いことがたくさんあるように見えるが、ある意味では自然だとも思う。

ぼくはそもそも9年前、大学四年のときに、働きたくなかったけど、大学院にいって研究したいこともなく、とりあえず就職する他ない考えて就活していた。
結果、第一志望というべき会社には就職したが、そこで気づいたのは、その会社で何十年も会社員をし続けることは、未来を考えると、それでいいんだっけという思いが去来した。
でも確たる未来に向き合う方法はよくわからなくて、勢いで転職してみたけど、とくに本質的な感覚の転換、セルフイノベーションとでも言うようなものはついぞ起こっていない。

という思考と生き方を続けた人間が、受動系のはたらき方を短期間で外したら、そりゃ不慣れと不安で、こういう状況になるものだろう、と。
そういう意味で自然だと。
どこかのタイミングで慣れるはずだ。
しかし、ただ慣れて終わりで良しにしたら、それも違うだろうと内奥の声が聞こえる。

考える事、試行錯誤すること、フィードバックを活かすこと。 それをあきらめたら、試合終了かもしれないから。

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蒸し暑い。今日はこのへんで。

エレベータの開ボタンを押すことは人助けでないと言った先輩の話

最初に就職した会社に、かっこいい先輩がいた。
Zさんと仮称する。
ぼくより10歳年上の男性だ。

彼は事あるごとに色々なことをぼくと話してくれた。
10歳も下の若造に、偉ぶることもなく、とても楽しそうに、丁寧に。

あるとき、経緯は忘れてしまったのだけど、こんな話をした。

「H君(ぼくの1つ上の別の先輩)がこないだエレベータの開ボタンを押しながらニコニコして『どうぞ降りてください』と言ったので、
 『H君、エレベータの開ボタンを押すことは人助けではないよ』
 と彼に言ったら、ポカンとしていたよ」

それを聞いた僕もポカンとして、彼に質問した。
なぜですか、と。

「だってね、エレベータは放っておいても、フロアに着いたら開くようにできているのだよ。
 押そうが押すまいが、関係ない。
 ボタンを押すことが、人助けだと考えるほうが変ではないかい?」

と答えが返ってきた。
なるほど。

「人助けというのは、人が本当に困っていて、自分では解決できないことに対して、必要な助けを差し伸べることを言うのだよ」

Zさんは微笑みながら話を終えた。

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それ以来、
「常識を持ち出す空気」や「場の空気」に押し流されて無意識に、人助けを定義したり、自分が人助けをしている、と思うことがないか。
意識的に、留保して考えるクセが着いたような気がする。

別に人助けのためではなく、あくまでマナー、常識として開ボタンを押しているのだ、という人も多いだろう。
しかし、交通の常識・マナーとしても妥当なのだろうか?

たとえば「エスカレータの右(または左)を開けて、歩行する人に1列あける」のはマナーとされているが実際輸送効率は落ちる。

ロンドンの地下鉄で片側空けを禁止する実験をしたところ、輸送効率は30%向上したという。(*1)
片方開けるためには、面積あたりの搭載量が著しく減る。
両側にしっかり立って歩行禁止にしたほうが全体最適なのだ。

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エレベータの開ボタンも同じことで、そもそも自動で開くのにわざわざボタンを押すのは、エレベータ前のパネル塞ぎにもなるし、むしろ効率を下げているのではなかろうか。
なんのために開ボタンがあるかだけど、「開く時間の延長」とか、「トラブル時などに内部からの操作で開けられるようにする」とかが主目的ではないか。
(私は海外のエレベータ事情は詳しくないので、あくまで日本国内の現代的な建物の、それなりに新しいエレベータを想定して話をしていることは付け加えておきたい)

マナーというのは、元は、それを行うことが全体最適になる、効率化、円滑化になる、という挙動の定着として、始まったものだと思う。
しかしテクノロジーの進歩や、社会的前提の変化によって、本来の目的が達成されなくなっているとしたら、そのマナーは遵守すべきなのだろうか?

何が言いたかったのか忘れてしまったけど、久しぶりにまたZさんに会いたくなった。


*1

world-action.net

ペインがなくても、未来のために継続行動できますか?

数ヶ月前から整体にかよっている。

あるとき、背中のあたりに痛みを覚えて、肩こりかなにか分からないがこれは辛いと思ったことがきっかけだ。以前、体調が悪くなったときに整体に行ったらだいぶよくなったという知人がおり、その人の言葉を思い出したので整体に行くことにしたのだ。

結果的にその整体の方と、私の相性はかなり良かったようで、最初の1-2回で背中の痛みはほとんど消えた。その後も、定期的に月に1回程度通っている。行くと、体調が良くなる気がするので、行くことは好きだ。
整体の人からも「身体のメンテナンス」のためには月1回くらい来てくださいと言われている。

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が、今日の朝、整体を予約していたのに、行くのを忘れそうになってしまった。ふと思い出して慌てて向かった。すぐ近所なので、10分の遅れで済んだ。

なぜ忘れてしまったのか?
私は予定管理をGoogleカレンダーにすべて入れるようにしているので、そこは今回もちゃんと入れていた。
ただし、そういったツールとは別の次元で「ペイン」がなかったので忘れてしまったのだ。そう考えている。

ペインとは痛み。
スタートアップが顧客の課題を発見して、それに対するソリューションをつくろうというプロセスにおいて「顧客のペイン」を探り当てることが、ひとつのやりかたとしては、とても重要になってくる。
「なんとなく、良さそうなもの」をつくっても、それは全然顧客にとってありがたみはない。顧客が求めているのは「ペイン」を取り除いてくれるもの、すなわち「ペインキラー」なのである。

私の整体通いについては(スタートアップとはなんの関係もないけれど)ペインはまさにその名の通りリアルな痛みの訳だ。
でも、ある程度整体にかよって痛みがなくなったので、そもそもペインがなくなってしまうと、行く理由そのものを忘れてしまう。
本当にはメンテナンスとして行き続けたほうが「予防」になるから、コストパフォーマンスも良ければ、自分にとっても幸福度が高まるはず。それは頭では分かっていても、ペインが消失すると行くことを忘れてしまう。

それが人間のサガなのかもしれない。
健康にかぎらず。
新しいスキルの習得や、やったことのない仕事を始めてみる、あるいは経営者であれば新規の事業の種づくり、のような将来への投資もこれに通じていると感じる。
いま必要でないもののために、コストを払って、自らの時間と意思エネルギーを使って何かを始めて続けるのは、とてもむずかしい。

逆に、未来の自分の状況を予見して、いまペインがなくても、とるべき定期的行動を設定し、それを続けることができる人は、それだけで、そうでない人に比べて未来に大きな差がつくのではないか?
私自身は、未来予見・行動継続力がとても低い自覚があるので、ここに対する解の方向性を探すべく、もがいている。

型をもつこと、型にとらわれないこと

型があると、何か新しいことを習得するとしても飲み込みが早くなるなと思う。

単純なたとえだが、数学というかロジックというか、「行と列のマトリクスの仕組みと有効な場面」を「型」で理解していればエクセルなどの表計算ソフトの使い方を学び、効果的に使うことができるのが想像できる。
逆にいうと、その型なしでエクセルをどう習得するのかが私にはもう想像がつかない。

しかし一方で型の存在が、革新的な考え方やアプローチへの素直な感動と、吸収したいという気持ち、行動を妨げてしまうケースもあるんだと思う。

たとえば水泳において、「伏し浮き」というテクニック(というか原理)がある。
これは、人間は自然な姿勢を取れれば必ず浮く、という原理をただ実行するだけのことである。
が、下手に水泳教室や我流で、「バタバタ手足を動かすから沈まずに居られる」という認識の型を身に着けてしまっている人は、この伏し浮きの習得が困難になりやすい、と私が伏し浮きを知ったWebサイト (*1) に書いてあった気がするのだが、実際そうだと思う。

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型というか自分の信じる常識が、真実への対面から目をそらす理由を自分の中に作ってしまうのだ。

かように考えてみると、新規に学びを得んとするときに、それの助けになる型と、邪魔になる型がありそうだ。
その差分はどこにあるのか?

私の意見では科学的に反証、検証のプロセスを充分に受けた科学的真理にもとづく型は、基本的に助けになる。
一方で、思い込み始まりで確かめられていない型、科学的審議のプロセスに充分さらされていない知見ベースの型は、新規なことの学びにおいてむしろ害になっていそうだ。

たとえば、今日の例示絡みでいうと、エクセルの件ではX,Yの二軸の情報パラメータを用意したら、それらがそれぞれどう関わるかをマトリクスに表現できる、というのは明らかに充分反証可能性を踏まえて真理になっているので、信じてよいと思う。

一方で、「手足をばたつかせて浮力を得る」という思い込みは科学的に反証されていないので、あまり信じない方が良い型でありそうだ。

ではどうすればそもそもその型が信じられるかどうかを判定すればいいのか?
自分で試行錯誤と検証を繰り返して、場馴れと、先を見据えた学びを持っておくとよいかもしれない。


(*1)

大和部屋(やまとべや)

パソコン・エイジがスマホで文章を書くときに起こりがちなこと

スマホを使って文章を書くことに抵抗があるのは、やはり自分がパソコンからデジタルに入った人間だからだろうかと思う。
どうやってもパソコンを使ったほうが効率が良いではないか、という先入観がある。

文章(レギュレーションが特になく、思うままに書けるものをここでは意図する)を書くというのは、順番に分解してみると以下になる。

思考する→タイプする→書いた文を見て、修正か、書き続けるかを判断する→思考する

このループ。
このループこそが自然だ、とパソコンを使ってタイピングするときは思う。

だがスマホを使って文章を書くときは、どうもこのループとは少し違う感じがする。

具体的には、

思考と同時にフリックで打ち込む→打ち込んだものを振り返ることなく、また思考して同時に打ち込む

という、戻りのない進み方をしている気がしてならない。
もちろん、少し戻して書き直すこともあるのだが、パソコンを使うときよりも遥かに戻る割合が低い気がする。

なぜこうなるかはインターフェイスの観点からだいたい説明がつくような気がする。

1.同じ小さな液晶パネルの中に、指とソフトウェアキーボードと打ち込まれる文章が、三位一体で現れてくるので、視界が邪魔だと感じないよう、没入するように脳が意識を集中させる
2.言葉の推測変換が迅速に出てきて、タッチで選べることにより、自分のよく使う語彙を、その言葉を思考し切るよりも早く入力できる
3.カーソルの移動領域がパソコンに比べて限られるので目の動く範囲が絞られ、結果的に遡って目の端に書いたものが入ることが少ないため、見返しがあまり起こらない

こういった点が主と考えている。
結果何が起こるかというと、推敲が少なく、文章を書き終えた時点では全体のバランスがあまりとれていない文章である確率が高まるのではないか、と。

このように書くとやはり旧世代のパソコン愛好家ですね、なんて感じがするが、自己弁護がてら意見を表明すると、むしろ高速に、ある程度の文章量を紡がないといけない場面ではスマホのほうが有効なのではないかと思うのである。
無意識的に推敲したくなるモードを抑制することができるのではないか。
ゆるいブログを毎日書くのが目的なら、ひょっとするとそのほうがいいのかなと思う。

実際いまこの文章はスマホで書いているが分量の割に、パソコンで書くときよりも早い感じがしている。正味20分もかかっていない。

私含め、パソコン世代は「文章書くならパソコンでしょ」という先入観を抑制し、スマホで書くことの強みを理解して、ニーズに応じて使い分けることができたら、文章のアウトプットが質量ともに向上させられる可能性があると強く感じている。

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ブログの場合、スマホだとどこまでいってもやりづらいこともある。
それは、画像探しと、挿入の操作。
すなわち、情報を検索する、ビジュアルに量で判断する、アプリケーションを細かくポイント操作する、というプロセスは、どうやっても厳しい。
文章を書くという、流れがリズムに乗るケースについてはスマホは優れているが、逆に言うと、バランスについての思考と判断を繰り返し要求するケースでは、使いやすい道具ではないと私は思う。まだ。

というわけでいまから画像を探すお仕事。
が終わったので公開する。夜中3時。