ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

夕張の1950年代の教師の行動、現代にそれは活きるのか。

夕張市にあるローカルの喫茶店で、そこの経営者の方や、お客さんに話を聞いてきた。年齢でいうと60代後半。かつて夕張が炭鉱の街として栄え、絶頂だったころに若年期を過ごした方々だ。
いろいろな話を聞いたのだけれど、一番印象的だったのは夕張の街の話というよりも、その時代の学校の話だ。もっというと、教師の話である。

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話をきかせてくれた方々の小学校の同級生で、極めて秀才がいたのだという。ただし彼の家は貧しく、まともな靴ももっておらず、雨が降ると何キロもの道を歩いて通うのが難しくて学校を休む、そういう有様だったという。彼の両親も教育熱心とはいえず、子供は中学校を出たら地元で働けばいいと思っていたようだ。

しかし、彼の才を、そのように生きるにはあまりにもったいないと思った担任教師は、彼の家に行き、両親を説得し、なんとか進学させるように働きかけたそうだ。最終的に彼は高校卒業後、京大に進学したという。

この話のどこが印象に残ったかというと、こんな教師はきっと現代には割合として少ないだろうと思ったからだ。
親の方針を覆させてまで、進学させようと思って、自分には何の得もなくても家まで行って交渉する。

その教師や、その時代がすばらしくて、今がそうではない、と思っているとかそんなことではない。
そもそもこの高度知識労働社会、そしてそこから先の機械による自動化も含めて産業社会そのもののあり方が揺れている中で、工場労働者の効率的輩出のためにつくられた学校モデルなどというものは、1mmも社会に適合していない。1950年台に良かったモデルが、2010年台に良いということはない。

だけど、子供の持っている才能を正しく評価して、それが活きるようなキャリアをつくる(当時はキャリアという思想はなかったと思うけど)ということを強力に提案できる立場と、それを無私にできる存在の価値というものは、今でも、いや今だからこそ、ますます重要になっているような気がする。

親がそれが難しく、教師に要求するものでないとしたら、それができる誰か、を作らなくはいけないのではないか。

夕張市、人口減少の先陣を切り続ける先に

かつて夕張市には、最盛期には12万人の人口がいた。
炭鉱の街として活気にあふれ、企業があり、労働者が集い、その家族や、そこに対して物を売る人々がたくさんいた。
いまや、人口は9,000人を割っている。最盛期の93%の人口がいなくなってしまったのだ。(*1)

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人口動態には、社会動態と、自然動態がある。
ある地域の人口動態を見たときに、生まれて増える、死んで減る、ということがあれば自然動態であり、自治体に入ってくる、出て行く、ということがあれば社会動態になる。

夕張の場合は、炭鉱の閉鎖、石炭産業の衰退とともに、多くの企業が撤退し、労働者と家族が街を去り、そこに商売をする人々もいなくなった、という社会減の占めるところが大きいはずだ。

具体的には、最盛期には小学校が22校あって、児童数だけで20,000人を越えていたという(1959年)。それがいまや、1校のみになり、児童数は216人である。 (2) (3)
60年弱のあいだに、児童数が100分の1になる街。これを小説で読んだとしても、荒唐無稽な設定を笑ってしまうが、事実なのだ。

もちろん日本全体が、終戦後のベビーブームで人が増え、出生率の低下に伴い児童が減った、というトレンドはある。しかしここまで如実な「人口減少」を起こした街は、世界を見回してもレアではないだろうか。
そして、高齢化率は50%を越えている。
市場経済の観点からすると、世界で最も絶望的な街といってもあながち外れていない気もする。
ただし、絶望的に見えるが、絶望だとは思わなかった。

というのは、私が会った街の人たちは、決して鬱々としているわけではなかったからである。いわゆる高齢者という範疇にはいる、65歳以上の方は、高齢化率50%というのは認識しつつも、老人だからもっとサービスを自治体に提供してほしい、というような雰囲気はまるで見られなかった。ただ、夕張が好きだから、何かこの街に活気が生まれるようなことが起きたらいいと思っているのだけど、自分が当事者としてそれを起こすのはなかなか大変と感じているそうだ。
ということは、当事者になりえる人のプラットフォームというべきものが生まれて、高齢者という枠に入っているが元気で未来への意志をもっている人々をエナジャイズして巻き込むことができれば、何かが起こる可能性はあるだろう、と私は思う。

もしかしたら合理性の観点からはコンパクトシティ化して、分散している人たちは今の拠点を放棄することに同意した方がいいかもしれないし、私はそれも全然アリだと正直思っている。しかし、最初からそこだけを見ているのも、理を見て、人を見ていない気がするので、ちょっと違う気もしている。

あと直接関係ないけど、人口動態と都市の発展という観点で、夕張市と好対照をなす街があるのだが、それについても日を改めてどこかで。


*1

http://soundscape-of-yubari.com/blog-old-201308.html

*2

www.unipro-note.net

*3

www.gaccom.jp

夕張メロンの秘密

北海道夕張市に来た。

地元の方に、名産品の夕張メロンについての興味深い話を聞いた。
夕張メロン」という植物の品種は存在せず、2種類の植物の1代かぎりの掛け合わせ種、つまりF1が、夕張メロンなのだそうだ。(*1)

そして、夕張メロンの大規模栽培農家というものは存在しないのだ、とも聞いた。
極めて細かい温度、湿度の管理を必要とするので、家庭経営の農家が、家族総出で、1月頃から畑をつくり、夏の収穫期まで、細かい調整と管理をしながら育てるのだという。

ということで、残念ながら夕張メロンの種をいくら集めて植えても、あの甘い夕張メロンは育てられないのだ。そして、そのF1種をつくるための種は、厳密に、門外不出に管理されているのだという。

確かに、種が出回って、誰でも作れるようになってしまったら、夕張メロンの市場価格のコントロール、というか需要に対しての供給をコントロールすることは難しいだろう。そう考えれば、種を囲い込み、大規模化をさせることもなく、毎年メロンを生産するというのもわからないでもない。

しかし考え方を変えてみると、一度確立した夕張メロンの作り方をはみ出ることなく、ずっとそれを作り続けるしか、夕張メロンの生産には道はない、ということになるようにも思う。それは果たして、楽しい仕事なのだろうか。ずっと決まったものを繰り返す、それ自体は確かに市場で高く売れるものをつくる「付加価値の高い一次産業」なのかもしれないが、それを営む人はどう思っているのだろう。純粋に、そこが知りたい。
だが残念ながら今回の夕張の訪問ではその声を訊くことができなかった。次回への課題だ。

いずれにせよメロンは美味かった。それだけは間違いない。メロンを出してくださった方々に感謝である。

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*1 www.tabetayo.com

価値の流れを、見られるようになりたくて

今日は仕事にひとつの区切りがついた日になった。
全国47都道府県を回って起業家や事業に取り組んでいる人に登壇してもらい、そして自分らしく事業をつくりたいという人たちが集う場をつくる、というイベントが50箇所目の開催を終えて、終わった。
始まりから考えると、半年間以上にわたり続けてきたプロジェクトの終わりになった。

いま何を思っているかというと。

仕事を通じた「価値の流れ」とは、いかに複雑で面白いものなのか、ということへの驚きと、その自分ごと化ができた少しの達成感。

たとえばこのプロジェクトについて言うと、各地を回るための原資になるお金はスポンサーのいくつかの会社さんに出していただいている。
とすると、我々のプロジェクト・チームの顧客は、このスポンサーさん方ということになる。
一方で会場に足を運んでくれる参加者の方々は、ユーザと捉えるのが、ビジネスの仕組みの説明としては適切だと思う。
会場の方には施設利用料を払っているので、我々のほうが、顧客となるだろうか。
登壇者の方々にはわずかばかりの謝礼はお渡ししているが、本当になんというかわずかなので、我々が彼らに対する顧客などとはとても言えない気がする。この関係性は、なんだろうか。

そして、ぼくはプロジェクトを仕事として請け負ったので、このプロジェクトのオーナーから、給料をもらっている(いた)。でも雇用者と被雇用者という関係をあまり感じていない。
どっちかというとぼくというパーソナル・コンテンツならびアビリティをオーナーに対して提供して、それへの対価をもらっている感じ。ぼくにとっての顧客がプロジェクトオーナーになるだろうか。

この、一言でとても説明のつかない不思議でパワフルなプロジェクトを、ビジネスとして見てみたときにも、これだけ多様な「お金の流れ」と「繋がりの流れ」、つまるところ「価値の流れ」が存在している。

そして、登壇者や参加者、スポンサーさんなど、今回のステークホルダーの方々が営むビジネスが、「流れ」としてあるときには繋がったり、合流したりしながら、また他の数多くのビジネスの流れと相互に影響しあっている。
こうして、広いことをいえば、世界中のビジネスの「お金の流れ」と「繋がりの流れ」が行き来して、そこに価値が生まれ、流れることで、ぼくたちの生きる今と、そして未来がつくられていく。

どこの空も、世界の空と繋がっている。どこの海も、世界の海と繋がっている。
6次の隔たり」という言葉に示されるように、人と人のネットワークも、我々の想像する感覚よりもずっと短い経由数で、世界の人が繋がっている。(*1)

ぼくらの日常を成り立たせる「価値の流れ」は、空や海、人の繋がりよりももっと可視化することが難しいけれど、もっとも生きていることをダイレクトに支えている。

かように考えると。
ぼくたちはただ生きているだけでも経済の一部であることに違いはないけれど、それだけではあまりおもしろくない。

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「価値の流れ」を自ら起こすもよし。その勢いを掴み取って、波に乗るも良し。流れの及んでいない人たちに、流れの経路を作ってつなぐもよし、あるいはその人たちを流れに引き込むもよし。

見えない流れを感じ、そこで動けるようになるには、時間がかかるし、意思をもって挑戦し続けることが必要なんだと思う。転んで溺れて、立ち上がって身につける。

ぼくはそれの大事さに気づいて動き始めるのに、本当に多くの時間を費やした。そして、まだ流れでの動き方も分かっていない、よちよち歩きではある。

でも、価値を生む仕事をするために伴う「おもつらさ」。(*2)
それを、ようやくすこし、感じるようになったかもしれない。


*1

*2

「血液型性格診断」というフレームワークを使うことも心理の真理

私は、血液型性格診断の妥当性を1mmも信じていない。
理由は、反証可能な科学的手法で検証した結果として、有意に血液型の違いが性格の違いを生むということが、示されていないからである。 (*1)

なので、そこが科学的手法で「有意に差が出る」と証明される日までは一切、血液型性格診断に耳を貸すつもりはないのだけど、今日いいたいのは、「血液型性格診断を好む人」に対する私自身の受け止め方がだいぶ変化したなということだ。

前は、「〜〜さんはA型だから、◎◎な性格だよね」という話を誰かがしようものなら、それこそ誰であっても「うわー、この人とは深く話すことは無理そうだ」と思ってしまい、なんとかその話題が早く終わってくれないかなと感じていた。

しかし今日、あるところでたまたま血液型性格診断の話になって、同様な場面か出てきたときに、私が真っ先に思ったことは、過去自らによく起こった感情とは違っていた。
「なるほど、この人の中では、ある人間の行動特性を説明するのに血液型性格診断のフレームワークを使う確率が高いのだな」
という認識を持つに至った。
もはや感情の波がほとんど起こることもなく、状況に対する観察と、自分の発見の心の中のノートへのメモ取りである。

この認識の発生を自分で確認したとき、ああ、自分自身と付き合うのがだいぶ楽になってきたな、と自覚できた。

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もちろん、血液型性格診断は非科学的だという、認識する事実には何も違いはない。
しかし、その話をする相手の言うことを傾聴する、否定することなく対話を深めて、おもしろい刺激のしあい、知見にたどり着こうということを重要なマイ・トピックとして、瞬時に引き出して、それを「演じる」ことができた。
これは、大きな成長が起きたと感じている。

所詮、わたしの血液型が何であろうが、相手のそれが何であろうが、当然ながらそんな情報だけでは関係性は何も決まらない。
むしろ、相手がどういう感情状態にあって、思考のフレームワークを使うかを学び取って、それに応じたコミュニケーションを組み立てるべき、ただそれだけだ。
それによって、その相手との貴重な時間を不毛な感覚で過ごすのではなく、豊かな刺激に満ちた対話の場作りに活かせるのだ。

私自身の場合、行動特性の説明として、セロトニントランスポーター遺伝子のセットを主たる材料とすることが多い。(*2)
血液型性格診断が好きな人の中にも、私と同じような感覚で、性格特性を説明できると、科学的に解釈しているケースもあるだろう。そこを別に否定しに掛かることに意味はない。

非科学的である認識については、「空気を読んで合わせる」ことをしなくて良いと引き続き思っている。
ただ、人が自分や他人の行動に説明をつけたいと願うその心理それ自体が、人間に埋め込まれた「心の理論」の発現であるわけなので、そこは否定せず、受け入れていくほうが楽しいなといまは感じている。

皮肉でもなんでもなく「どうしてそう考えるのですか?」と知的好奇心で聞いてみたらいいのかなと思う。それが一番、不必要に誰かを傷つけることもなく、なにより自分の学びを深めることになるから。


*1

第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

*2

セロトニントランスポーター遺伝子は日本人気質を決めているか? - 神経科学者もやっている精神科医のblog

結婚について、考えが変わった。

数日前に出会ったある人が、結婚についてこのように表現していた。

「結婚とは、その相手が好きであるという自分を演じ続けることである」

生涯に聞いた「好きな人どうしが結婚する」ことの数々の描写の中で、突き抜けて納得感があるものだった。

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私自身は、進化心理学が大好きだ。人間の行動原理、思考の進み方を説明するロジックとして、進化心理学の観点で筋が通った考え方に一番納得する。

そういう私にとって、たとえば「恋愛結婚」は信じがたいものというか、それを絶対視する思想は良くわからないもののひとつであった。
なぜなら、どんなに好きあった二人でも、強い恋愛感情というのは、長くても18ヶ月程度で消え去ってしまうことが研究によって明らかになっている。 (*1)
そこから先は、「愛着」と呼ばれる感情をうまく成立させていかないと、関係は長続きしないと言われている。

かように前提を置いたときに、「恋愛 から 結婚」を一直線に乗せることを神聖視するのは、おかしいだろうと思っていたのだ。だって、それだと幸せになれないじゃないかと。
せめて科学的に、「恋愛 から 愛着形成 を経て 長期的な関係」を構築して、それの成功のひとつを結婚とでも言ってみたらどうなのよ、くらいに思っていた。

という私が冒頭の考え方を聞いたときに、衝撃があった。
私がこれまで形成してきた見方もまた、一面的だったと気付かされたからだ。

つまり私が今回見つけた気づきというのは「相手を好きである自分を演じる」状態を継続することができれば、「恋愛 から 結婚」という私が、科学的に困難があるだろうと思った図式も成立しうることだ。

もう少しちゃんと説明すると
「強い恋愛で惹かれあう状態を、そのままその相手を好きで居続ける自分を演ずる、というあくまで自分ごとのテーマに、二人が落とし込むことができて、その演じる状態を続ける技法を体得して駆使し続ける」
これができることで、双方にとって「恋愛の強い状態で結婚して、お互いにそれが変わらない、もっと好きだ」ということを科学的にも筋が通るように、実現できるだろうということだ。

人間の「演じる」力はとてつもなく大きい。それが、きっと他の生き物と違って、人類に「変化の蓄積」を遺伝子以外にもたらしてきた大きな要因のひとつだろうと考えている。


さて冒頭の「結婚とは、その相手が好きであるという自分を演じ続けることである」という言葉に戻ると、恋愛結婚だろうがお見合い結婚だろうが、年の差婚でも同性婚でも、この定義というか行動原則は、当てはまると思う。

詳しくはまた日を改めて。
なにせ次の日の分も書かなくてはいけない。


*1

失恋|恋の賞味期限・恋心が冷める瞬間・失恋克服法・浮気につけるクスリ|恋愛は科学だ!

「非エンジニア」だから「つくらない」にはオサラバ。

毎日ブログを書く企画をやっているのだが、総勢9人という大所帯になった。
さてこうなると、ほかの人の書いた記事をなかなか読むことが大変になってくる。
しかし、一緒にやっているメンバーどうしでの相互の影響、化学反応が起こる面白さを想定すると、できるかぎり他のメンバーの記事を読みたい。

どうしたら読みやすく読めるのか?
そうだ、ブログのRSSを拾って、自動で記事タイトルを時系列で並べてくれるサイトを作ればいいじゃないか?

と思って作ったのがこちらのサイトだ。

Blog Game ブログを書き続ける企画 まとめ読みサイト

構成は単純だ。
WordPressに"RSS Antenna"というRSSを拾ってくるプラグインがある。 (*1)
これを自分で設置したWordPressに設定しておき、今回の参加者のブログのRSSを読み込ませ、ヘッドライン上に表示されるページを作っている。
それだけだとあまりに味気ないので、各人のブログごとにもページをつくり、そこには"RSSImport"というプラグインを使って、記事タイトルが時系列に並ぶようにしてある。
これで、みんなのブログを読むには充分だ。


ぼくは何か作ろうとするときの「エンジニア、非エンジニア」という区分けでの思考停止が好きではない。
特に、自分が「つくれない」という弱みを感じている人に「非エンジニア」だというアイデンティティのラベルを付与することで、そこから脱出していくことそれ自体を阻んでいるような気がする。

ぼく自身は、世の文脈でいえば「非エンジニア」だ。

いくつか要素分解して考えてみると、

まず、それ(ソフトウェアエンジニアリング)で生計を立てていない。
また、プログラミングを始めとしていくつかのスキルを、スクールで学んでみたこともあるが、それを突き詰めたいという感覚が湧いてこないままだった。
それを踏まえて、自分の適性、強みの発揮はエンジニアリングにはない、と判断している。だから「非エンジニア」だと思われる。

しかし、それは「作らない」ことを意味しない。

エンジニアリングそれ自体の特性、スキルは高くないとしても、たとえばWordPressのカスタマイズでWebをつくる、Google Apps Scriptの応用で便利な自動化装置をつくる、UnityをGUIで操作してゲームをつくる。などなどつくれるものはいくらでもあるし、そのためのツールもたくさん存在している。
ほとんどコードは書けなくても、自分がほしいもの、必要なものを、組み合わせと工夫で、そこまで時間と気合を入れずに作ることができる。
むしろ、スクラッチ(0から)でつくるわけでないからこそ、早く、手軽にほしいものを組み合わせでつくれるというのは、プラスでもあろう。

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もちろん、世界初のものをつくるためには、深いエンジニアリングへの興味関心、実践知が高いレベルで伴っている必要があるかもしれない。
しかし、そこまで意気込まなくても、つくる楽しさ、つくったものを実用する楽しさは、だれにでも開かれている。

繰り返しになるが、"非エンジニア"と自認する事自体は良い。
加えて、"エンジニアの強み、仕事ぶり、その作法へリスペクトを払うこと" はとても大切である。
特にプロのチームの仕事では、立場、機能の違う人同士が相互に敬意をもってコミュニケーションすることは必須といってもいい。

ただし、個人であるとかスモールプロジェクトとかの取り組みでは、"非エンジニア"のアイデンティティ・ラベルを自分に貼り付けてしまうこと、そして何かする前に諦めることは、とてももったいない。
ちょっと調べて、ちょっと手を動かせば、できることはたくさんあるし、欲しいもの、作りたかったものをつくることもできる。

そういう文脈では「エンジニア、非エンジニア」という切り分け方を使わなければいい。
もっとピッタリなことばがある。

ハッカー (Hacker)」

ハッカーのマインドは誰でも持てるし、実践できる。
もちろん、ハッカーを名乗るほど自信がないというのであれば別にそれを使わなくてもいいのだけど。

でも
「非エンジニアだから動くものを作りません/作れません」
この発想だけはもう、オサラバで。


*1

wordpress.org

*2

ja.wordpress.org