ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

Hackathon!!

ハッカソンに参加した。
総勢140名もの参加者がいる相当に大規模なハッカソンであった。私は3日間くらいかかる参加型イベントの運営もよくやっているし、自ら参加もするのだけれど、考えてみるとハッカソンに参加したことはこれまで一度しかない。2日がかりとなると、全く初めてだ。

ハッカソンは実は始まる前から勝負が始まっている。これは今回学んだひとつの知見である。
会場に着いてから、さて何をつくろうかねと議論していてはとても時間が足りない。個人参加で、その場でチームを割り振るものならば、もちろんそこから0ベースで組むわけだが、今回のようにチーム参加であるなら、むしろどれだけ事前に作っておくかが鍵になってくる。
その点、今回私たちはしっかり準備ができていた。開催の3週間ほど前から、今回のハッカソンのテーマの中では、どんなことをやりたいか、課題と思うかを参加予定メンバーでappearinを駆使して詰めていけた。開催10日ほど前には、ほぼ作りたい骨子が固まり、それの実装に必要な事前作成を誰がどうする、というのがおおよそ決まり動き始めていた。
開催当日の時点では、データを取得してくるプログラムのコア部分をメンバーの1人のTさんがほぼ作り上げていた。Tさんの高い技術と集中力に拍手しかない。

ハッカソン開催してからは、画面の実装と、取得してきたデータを画面につなぐところがキモになった(私達が作ったのはWebアプリケーションの形なので)。
画面の実装は、ビジュアル表現の巧みなYさんがJavascript(今回は厳密にはTypescript)を使って、某国民的RPGの雰囲気をたっぷり醸し出すクールな画面をつくりあげた。
Webアプリのバックエンドの実装は、海外からリモート参戦のKさんが、実質1日目の夕方から翌朝までの不眠開発でつなぎ込みをした。
見事な分業で、目的を果たすアプリケーションのために必要な各機能やビジュアルが作り上げられていく過程は、正直すごくワクワクした。

こんなとき、私には自分が作る力がないことをもどかしく思うこともあるのだが、それを行ったら作る力もなしにハッカソンに出たいとか言うのはだいたい無茶なので、もはやそのもどかしさを突っ込んでもしょうがないと思うことにした。 私にできるのはすごいメンバーに感謝を伝え、あとはそれの成果を伝える部分で力を発揮することだと思って、作ろうとしているソリューションの解決したい課題とストーリーを具体化して、提出資料づくりをがんばった。

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ちなみに、これは夜通しでハックする参加者たちが休むための場。私達も、ここで少しだけ寝て、作り続けた。

そしていよいよ2日めの午後の発表の時間になった。資料の準備が整っていることを確認して、発表会場に向かう。 自分たちの発表の順番が後なこともあって、ずっと緊張が解けず、あまり他のチームの発表が頭に入らなかった。 もともと私はすごく上がりやすくて、人前に出ると緊張して何もしゃべれないような人なのだが、いつの頃からか、そんな別にビビらなくてもいいじゃないかと自己暗示を繰り返してきて、なんとか人前で話せるようになった。 自分が運営に関わるイベントに参加するときも、最近ではほとんど緊張を感じなくなっていた。 でもこの日は緊張がまったく収まらなくてアタフタしていた。 ただ、前にTEDトークで見たのだが、「人前で発表するときに緊張するのは、身体がそれに対して準備しようとしている証拠なので、むしろ当たり前。緊張しないようにするほうが良くない」という学術的知見があるそうな。それを知って以来、緊張は良いものとして捉えよう、と頭では思っている。

1分という限られた発表時間で、少し噛んでしまい頭が真っ白くなりながらもなんとか発表を終えて、ハッカソンで開発を続けていた部屋に戻る。そこから、展示の準備をして、審査員や来場者に体験してもらう準備をする。

実際に展示の時間が始まり、何人もの方が自分たちのブースを訪れてくれると、率直にうれしいなと思った。くり返しになるが、私はほとんど何も作ることには貢献できてない。でも、チームで生み出したプロダクトが見える形となって、目の前にいる人に驚きや好奇心を刺激しているという体験は、特別なものである。

展示が終わり、またセミナールームの方に戻り、お疲れ様の乾杯をした。ライバルとして2日間ヘロヘロになりながらも競い合った参加者どうしも、この瞬間には、もう同じ苦労のときを過ごした仲間として、グラスを(というか缶ビールのはいったプラコップを)手に、お互いの努力を称え合う。お世辞抜きに、みんな本当にすごかったと思う。そこにいた140人が、そんな感覚を持っていたような、通じるものがあった。

そしてもうしばらくの時間が流れ、結果発表になった。1チームずつ、審査結果として予選通過のチーム名が発表される。私達のチームはなかなか名前が出てこなくて、そわそわが増大していく。最後、8チーム目の名前が呼ばれた。しかし、そこに名前はなかった。このあとに、オーディエンス投票の多かった2チームも予選通過として発表されたが、そこにも名前はなかった。こうして、私達のハッカソンは、ここで幕を閉じたのだった。

正直、イケてるプロダクトだと感じていた。そりゃもちろん自分バイアスは多大にあるにしても。予選通過できるのではないかと思っていた。なので、結果を受け止めるのには少し時間がかかった。予選を通過したチームと、どんな差があったのかは、単純に私があまり他のチームのを見れていなかったこともあって、すぐ腑に落ちたものがあるわけでもなかった。 悔しかった。もう少し、私の伝え方が良かったら、違う結果になった可能性も多少あったのではないかと思うと、100%できることをやれなかった悔いもある。 こんなにすごいメンバーで、納得行くものを作れても、他者に伝わる、審査として評価されるものになるかは、また別の話。現実はこうなのだと。 そこをズシッとくる経験として、味わった。悔しいが、受け入れる。

あと、予選は通過しなかったからこそ、逆に、このプロダクトをビジネスとして形にできたら、それはそれでとてもおもしろいとも思っている。
ビジネスとして成立するか、それは顧客の課題を解決して、対価をもらっていくサイクルが回るかどうかにかかってくる。それはすべてではないが多くのケースではとても重要な点だ。

ビジネスの価値と未来を決めるのは審査員ではなく、顧客。それがリアル。
そこに踏み出すことは、前の自分であれば、怖いなと思って遠ざけるのが1stオプションだったのだけど、今は、それを楽しんでやれそうな感覚が内面にある。
感情が震えるような経験のフィードバックをどう捉えて、どう自分を変えたいかをひとと対話のなかで言葉にして、行動する。ひとつひとつは小さくても、それが重なると、実は自分のなかでの閾値を超えていることがある。

と、話はすごくそれたのだけど。

ハッカソンに出て、すごい仲間とオモシロイものを作って、それを伝える経験をできたことに、感謝をしたい。

そして運営の方々に感謝!

Personality Insightsのインパクトに驚き、励まされる

為末大さんがツイートしていた。 (*1)

「Personality Insights」というIBM Watsonを使った性格推定プログラムが面白い。 (*2)

自分のTwitterアカウントをOAuth認証して全ツイートを読み込ませることで、ツイート量にもよるが、かなり精度高く性格を判定してくれるのだという(為末さん曰く)。

私も自分のTwitterを分析してみた。

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だそうな。

当たっているなと思って驚いた。 私のTwitterには、かなり私らしさが含まれていて、そこから構築される私像は、とても私に近い。 むしろ、私がこうでありたい、そう思っていてまだなかなかできていなところまでも、この分析は言い当てている。面白いもので、そう分析されるのであれば、そういうふうに振る舞おう、という意欲も高まってくる。これはとても良いことに思える。 実際の私はそこまで自信がない。でも、自信がないという演技をしてしまっていることで、うまくいく可能性ある物事をうまくいかなくしてしまっていることに最近気づいた。ここは変えていきたいと思っている。だから、これから時間がたってTwitterがそこまで変わらなくても、私の振る舞いが変わっていく可能性はあるんだと思う。

ちょっと分析が外れていることもあるけれど。もちろん。 衣服を買うときには品質よりも価格を優先しているし(笑)、ドラマ映画というのがヒューマンストーリーを指すならば、けっこうそういうのは好きだ(面白ければ好きなのである)。

ビッグファイブと呼ばれるパーソナリティ特性、欲求志向、価値についてはこうなっている。

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それぞれ、知的好奇心、好奇心、変化許容性が集団の中で相対的に高い(相当に)ということが分析結果として出てきている。これについて、納得。

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そもそもWatsonとは? ソフトバンクが紹介しているサイトより引用。

BM Watsonは、米IBM社が開発した認識、学習、そして経験によって人が世界を理解するような方法を手がかりにした、コグニティブ(認知)・コンピューティング能力を世界で初めて商用化したサービスです。

(*4)

IBM Watsonについては、正直いままで果たしてどんなものかよくわからんなと思っていた。だが、今日こんな手軽に自分のテキストからの性格分析ができてしまい、基本的によく当たっている、私自身で自分を分析するよりも的確だということを目の当たりにして、だいぶ考えが改められた。IBMさん、すいませんでした。

ソフトウェアを活用して、人が自分の認知を適切なものに寄せていったり、それを活かした仕事に就く、というのは、どんどん当たり前になるだろうし、そうあるべきだと思う。


*1

*2

Personality Insights

*3

*4

www.softbank.jp

「パフォーマンス・ブレークスルー」メソッドで違う自分を演じる

「壁を破る力: パフォーマンス・ブレークスルー 今そこにある限界がみるみる消える!驚異のメソッド」

何気なく手にとって読み始めた本だったが、衝撃を受けた。ここには、人の行動、そして人と人との関係を劇的に改善し、バリューを生み出すことを可能とする秘密が詰まっている。素直に沿う感じる。

著者キャリー・サットはPOAL、パフォーマンスオブアライフタイムの創立者。講演者、エグゼクティブコーチなども務める。本書では彼女の会社が実際に組織やそこで働く人々の「ふるまい」を変えて、困難に満ちた関係や状況を生産性が高い状況に至ることに繋がったケースが多々紹介されている。また、それを自分たちで取り組むときに重要になるポイントやTIPSも書いてある。

詳しくはぜひ本書を読んで欲しいのだが、ひとつ本書のタイトルにもなっている「パフォーマンス」ということばの二義的な意味にようやく今、気づいた。

私はてっきりパフォーマンスということばを、仕事の成果、という意味でのみとらえていた。でも、この本で言っているのは「演じることで自分を変える」こととしてのパフォーマンスであり、その絶大な威力のブレークスルーを伝えているわけだ。目次を読み返して今、理解した(笑)。

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P28-29の一節を引用して、本書の紹介は終わりたい。

人はおとなになっても成長し、能力を伸ばすことが可能である。つまり、子供のころにやっていた創造的な学習を再開し、発達過程の経験と能力を取り戻せばいい。そうすれば、新しいやり方で演技をし、新しいことを試せるようになり、人々や組織の足を引っ張っている使い古した台本から抜け出すことができる。自分で書いた台本を演技し、さらに他人の劇の舞台にも入り込む。仕事の場でも日常生活でも、演技者としてバラエティ豊かな手法でさまざまな舞台に変化をもたらすだろう。訓練すれば、人は自分の演技を変えられる能力を持っているのだ。
このアプローチを私たちはパフォーマンス・ブレークスルー『壁を破る能力』と呼んでいる。演劇と即興をミックスし、そこに人間開発を扱う科学の知見を組み込んだもので、これを活用すれば個人やチーム、企業が成長し、発達し、どうすればいいかわからなかったことも実行できるようになる。自分がなりたい人間になることもあれば、一生ありえなかったかもしれない生き方を発見することもあるだろう。

私が心の底で出会いたいと思っていたのは、こういった考え方と、その実践手法だったように思う。
たしかに幼少の頃におかれた環境や、20歳ごろまでにどれほど成長を積もうとしたかで、相当に人生は決まってくるだろう。そこは疑わない。しかし、25歳、30歳、40歳、60歳になっても、人は人に関わる方法を変えて、自らをそれまで見ることのなかった成長の楽しさの世界に連れて行くことはできるはずだ、できてほしいと思っていた。

私は、たいした「パフォーマンス」(成果のほう)を出せないまま、なんとなく年を重ねて、自らの可能性を縮めていくような、みじめさを感じはじめていた。でも、それは「パフォーマンス」(台本を新しく書き、劇を演じることに取り組む)の力で変えていける可能性がある。というか、できる。

ワクワクする。
これに課題感を持っている人と、価値を作りたい。


*1

壁を破る力: パフォーマンス・ブレークスルー 今そこにある限界がみるみる消える!驚異のメソッド(Amazon)

「発音」を真剣に学ぶと、飛躍的に英語を実用する力が上がる、かも

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英語の上達には何の能力を伸ばすのがよいのかというのはよくある議論。
4技能、すなわちReading、Writing、Speaking、Listeningに分解して考えるケースも多いと思われる。私もそういうふうに考えていた1人。
話すのが苦手なので、Speakingが弱いのかなと思っていた。

が、ぜんぜん違う方角から、苦手を克服する方法があることを知った。
それは、発音である。

かつて私もそうだったが、発音に関しては、このような思考段階を持っていた。

第一段階 > 発音がうまくできない。だからしゃべることに自信がない。
第二段階> 発音を気にしてしゃべるのに自信がないことが問題。そんなこと気にせずしゃべればいい。

問題は、この第二段階にくれば解決かというと、それが解決ではないことだ。実際問題、いくら気にしないつもりでしゃべろうにも、やはり通じないことがあると疲れてくるのだ。

というときに、竹村さん (*1) という英語の発音を専門的にトレーニングする方に出会って、レクチャーに参加してみて、ひとつわかったことがある。それは、そもそも英語と日本語は発音の方法が物理的に違うので、根性で「通じなくても喋り続けろ」というのも科学的に無理があった、ということだ。
かくして思考段階はここに至った。

第三段階> 英語と日本語の発音が違う以上、英語の発音の出し方を習得することで、4技能含めてベースの英語理解と運用力が高まる。

と。1年ほど前に、ここに来た。それは良かったのだが、なかなか発音を鍛える機会もないままであった。
この日はたまたま、竹村さんのセミナーを2年ぶりくらいにきくことができた。改めて、発音の科学的方法での習得のトレーニングは、必要だなと思った。
楽しんで続けるには、さて、どうするか?


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bizacademy.nikkei.co.jp

写真に人格がつくられる時代?

Instagramをようやく少し触ってみた。はじめてInstagramが出てから何年経つのだろう。もはやその間にFacebookに買収されて、完全にシナジーを発揮しているというのに。

Instagramの特長について、大して知らない。なぜ流行っているのかはよくわからない。
だが、Instagramが何を引き起こしたのかはなんとなく想像がつく。それは、写真と人格の統合だ。

かつてここまでスマートフォンが流行る前、多くの人がガラケーと呼ばれるものをつかっていたころ。写メールの普及によって、端末で撮った写真をそのまま人に送るということが増えた。ひとは、自分の活動を写真に撮って伝えることが当たり前になった。

その後、SNSが生まれ、並行してスマートフォンが普及していくことで、撮った写真をSNSに掲載することが、次の「当たり前」になった。

もはや今の当たり前は「写真を発信して、そこに作られるイメージこそが自分の人格」というレベルまで来ている、ような気がする。もちろんすべての人が、ではない。けど、少数でもそういう人がいるといっても、嘘ではなさそうに感じるのも私のなかでは真実。

それが健全か、不健全か、そんなことは分からない。だいたい健全とか不健全とかは、時代に応じて変わるだけの旧世代の常識も多い基準なんだろうし。といいつつも、写真に作り出した自分の占める割合が大きくなりすぎると、生き疲れしそうだとは、なんとなく思っている。

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情報のストックとフローはいつだって水と油かもしれないが。

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情報の即時共有と、蓄積からの活用にはいつだって矛盾がある。

何がしかのICTツールを使って、迅速な情報共有をすることの価値は今日ビジネスに関わっていれば誰でも感じることかもしれない。だが、迅速に共有できるものであればあるほど、情報がまた迅速に流れて埋もれていき、あとで掘り返すときの困難さを抱えることも、頻発している事象であり悩みなのではないか。
すなわち「情報のフローとしての利便性」と「情報の効果的ストックづくり」の並立を1ツールでやることは難しいのだ。

具体的には、チャットツール、Slack、HipChat、ChatWorkなどを活用すれば、かつてメールで「〜さん 〜です」と社内、おなじ組織内なのにいちいちヘッダーをでっかくつけていて、細かい文法調整までしていたオーバーヘッドがなくなり、はるかに気楽に、またリアルタイムにも情報共有と議論ができる。実際に会ったりしなくても、チャットだけで仕事が済んでしまうことが増える実感を持つひとは多くなっているのではないか。
とにかく便利なのだが、これをストックとして活用しようとすると、そこで急に困難さがでてくる。「あれ、あの話どこだっけ」みたいなことが頻発するのだ。

かといって、チャットに慣れて、1stオプションがチャットになっているときに、わざわざメールを社内で送るインセンティブがないままでは、誰も乗り換えてくれないだろう。

情報のフローとストックの問題は古くて新しい問題であり、たぶんどこまでいっても完璧な解決はないかなと思う。 ひとつありうるのは、ふだんはチャットのようにフローで処理し続けるだけで、AIが学習して、重要なストックにあたると判断するものをストックとして貯めて掲示してくれる、使うことをサジェストしてくれる。そういったツールが開発され、うまく機能するようになれば、大きなブレークスルーが起こるかもしれない。

そんな日を待ちつつも、基本的には、自分の関わっているチームのなかでのツール運用の最適化と調整をはかりつづけるしかないのだろうとは思う。

「立ちすくむ国家」からのディスカッション

「満員御礼!”経済産業省若手職員とともに考える未来のかたち” Repaint vol.4「立ちすくむ国家」から考える次の時代の社会のあり方」というイベントに参加した。過ぎたる、7月23日。

140万ダウンロードを記録した経産省の「不安な個人、立ちすくむ国家」(*1) という資料を題材に、それを作成した経産省メンバーのIさんという官僚の方と、Fさんという地方の活性化に取り組む企業の方が中心となって企画されたイベント。

前半は情報共有ということで、Iさんがその資料のポイントを解説。そのあとで感想と質疑応答タイムを挟み、後半はテーマごとに分かれて座談会形式で話した。

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このイベント、一言でいうと、熱い人が多かった。19歳から50代くらいまで、年齢幅も性別もいろいろな人がきた。ファシリテーションも見事だなと思ったのは「政治批判のような他人事ではなくて、自分事、自分の行動としてどうしていきますか?」という参加者のアクションにフォーカスされていたことだ。
政治、国家をテーマにするとイベントとして、とかく一番いけないのは「朝まで生テレビ」方式である。つまり、みんなが他人事として他者批判をあげつらい、何も生産的で行動につながる建設議論はない。ただ尺を稼いで無責任に面白くしようという(実際それがまるで面白くないのは置いておくとして)発想。そうなっては台無しだ。その点、今回の企画者の方々は、実にうまくやっていたと思う。

イベントの半分は設計とファシリテーションだが、半分は参加者のリアクションとそれからのアクションの先に、未来から評価されるものだ。

私のいた卓では教育問題が議論となった。6人で参加していたが、すごいとおもったのは皆、傾聴ができ、耳を傾けて対話する、という基本が年齢に関わらず当たり前にできる人たちだったことだ。
あとは教育問題というのが、広すぎる問題だということを議論はじめてすぐにみんな悟った上で、しぼりをつけて、個人のアクションを考える時間にしていこう、とできたこと。
イベント運営者も見事だが参加者も質を保てる人たちであり、そこも含めて、熱さが保たれた良いイベントだったと思う。

ふだん自分のコミュニティでイベントを開催することが多いのだが、ほかのイベントにいき、コミュニティの作り方を見るととても学びが多い。


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不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜