ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

女優とIT起業家の沖縄旅行の報道について、誰にも頼まれてないけど出撃してみた

今日、週刊誌が俳優の石原さとみさんと、SHOWROOM代表取締役社長・前田裕二さんが沖縄旅行に行ったことを報じたそうだ。(*1)

石原さんというと最近ではTVドラマ「アンナチュラル」にも主演していた人気女優。
前田さんがスタートアップの経営者であるところから、スタートアップ界隈でも騒然としているらしい。

私もスタートアップ界隈のはじっこにいる人間として率直な感想を述べよう。
うらやましい。
うらやましいぞ...。

っていや、別にスタートアップ界隈にいてもいなくてもあまり関係ないかこの気持ちは(笑)。

私は映画「シン・ゴジラ」 (*2) を今年に入ってから16回観たのだが、その度に石原さん演ずるカヨコ・アン・パタースンのセクシーな唇に目を奪われていた。出演者の中で圧倒的に目を引くんだ。あの日本語と英語まぜまぜの喋りがもう脳から離れない。「ガッズィーラ」。

いや、というかそもそもシン・ゴジラにメインで出ている女性って、あとは市川実日子さん演ずる尾頭ヒロミくらいしかいないじゃん。あと片桐はいりさん演ずるお茶淹れてくれるおばちゃん。前田敦子さん演ずるトンネル事故に巻き込まれた女性。ってこのへんはもう出番一瞬やないかい!余貴美子さん演じる防衛大臣内閣総辞職ビームで死んじゃうし...。

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大脱線だ。大脱線した。無人新幹線爆弾もびっくりだよ。話を戻そう。

キャリコネニュースというメディアでは今回の報道を取り上げて、

「こういうニュースが1つ出ることの方が、起業家増加に寄与する気がする」

と発言する人もいる、と書いている。 (*3)

いやいや...。

起業家であることは石原さんと付き合うための必要条件だろうか。
違う。
前に石原さんと交際していたのはジャニーズの山下さんと言われている。(*4)
起業家だから石原さんと付き合える、普通に考えてそんなわけはない。

週刊誌ソースなのでどこまで本当かはよくわからないが、石原さんの2017年のギャラは4億円超だそうだ。 (*5)
そのギャラのうちどれだけが事務所に入って、石原さんにはいくら入るのかよくわからないが、仮に半分の2億円が本人の収入で、そのうち半分が税金で持って行かれると仮定しても、手取り1億円である。
年間に1億円手取りで入ってくる人が、自分以上の年収を持つ人を確率として非常に困難だろう。
今回、ポイントとして、「IT起業家=お金持ち」という謎のラベル付が起きているようで、それにちょっと待てというのが今回のブログの主旨である。

日本ではスタートアップについての適切な知識・情報が広まっていないこともあってか、テレビや雑誌に出るような一部の経営者像が、スタートアップ(いやベンチャーと表現されるほうが多いか)経営者のテンプレだと思われているフシがある。
具体的には、堀江貴文さん、あるいは最近だと前澤友作さん(ZOZOTOWN)もそれに入ってくるかもしれない。

でも、彼らは上場させた会社のトップであって、それができているベンチャー経営者は、IT起業家のごく一部でしかない。ほとんどの起業家は、そもそも創業した会社を株式上場させていない。はるかその手前にあるとか、あるいは上場ではなくM&Aという選択をするとか、そもそも会社が潰れた、事業が頓挫したというケースが一番多いはずだ。

そもそも今回の前田さんは、DeNA100%子会社のトップなので、このまま仮に事業が軌道にのっても、自分の決定で上場に持ち込めるわけではない。したがって、一般的なイメージの「お金持ちの有名ベンチャー社長」にはなりえないと思われる。
たぶん身も蓋もないことを言うと、石原さんのほうがずっとお金を持っているだろう。

要するに、何が言いたいかというと、前田さんが石原さんと付き合うことになったのは(って沖縄旅行に行っただけだから付き合っているかは不明だが、ひとまずそういうことにして話を進めないとブログが書き終わらない)、ひとえに前田さんの魅力があってこそであって、起業家であることはほとんど関係ないのだ。

しかしながら。私の身の回りを観ていても思うが、起業家にはとてつもなく、人間的に魅力あるひとが多い。これもまた真実だとは思う。
それは、元から魅力ある人が起業したのか、元はそこまで魅力あふれるわけでもなかったけど起業して事業を成長させる経験がその人に魅力をもたらしていったのか。どっちもあるだろうし、人によってその割合も色々だろうし、いやもっと言うと魅力なんてものは定量化できないので、私が魅力と感じるところも別の人にとっては魅力でもなんでもなかったりすることも多いハズ。

なので話を戻すと、起業してもほとんどの場合はお金持ちにはならないし、社会的にも有名にはならないし、石原さとみさんと付き合えるわけでもない。
そもそも最初から「石原さとみと付き合いたい」と思っているのだとしたら、それは石原さとみさんをただステータスの伴うアイコンとみなしているわけで、それを所有して、社会から羨望の目で観られたいということになるわけで。多分に承認欲求の肥大化、それだけだろう。
いや、ほんとにファンだから付き合いたいんですと言うひともいるかもしれないが、ファンはファンであっては永久に対等なパートナーにはなりえないので付き合うことはできないだろう。

いやもちろん。今回の報道を発端にしたネタについては、ほとんど多くのひとが冗談で言っていることは分かっている。分かっているけれど。
スタートアップ業界の片隅で、私自身は起業してないでフリーランスとして、起業家の方々から仕事をいただいて生計を立てている身なんだけど、起業家の方々が大好きで尊敬しているし、本当に世の中を良くしていくような起業家が増えてほしい。そして、そんなスタートアップ起業家という生き方が誤解されたくないと思って、アクセス数のすくないブログでなぜか熱弁をふるってみた。
というか、誰も誤解していないというか、そもそも知られてないことが問題だよね、って上で私は自分で書いてるじゃん。そう、問題はそこなんですよ。なぜ日本にアントレプレナーは増えないか。これは、ここで一瞬で語れるような話ではないので、またいつかちゃんと書きたい。

ということで、私としては、まずは先日知人に勧められた石原さん主演のドラマ「リッチマン、プアウーマン」 (*6) でも見ようかと思った。ITベンチャー社長と、就職難民女子の恋愛ドラマらしい。っていうか、このドラマでのベンチャーの描かれ方が気になる。

けど、途中で挫折した場合は今年17回目のシン・ゴジラを観ると思う。どんだけシン・ゴジラ好きなんだよ。
シン・ゴジラについては書きたいことがありすぎるので、また今度。

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*1 沖縄離島リゾート旅行へ 石原さとみの新恋人は1歳下のカリスマIT社長 | 文春オンライン

*2 シン・ゴジラ Blu-ray2枚組 amazon.co.jp

*3 石原さとみとIT社長の熱愛報道で「起業する」「有名起業家になって推しメンと熱愛スクープされたい」の声多数 | キャリコネニュース

*4 石原さとみと山下智久 超厳戒態勢で自宅マンションデート│NEWSポストセブン

*5 【芸能人の長者番付2017】日本のタレント・女優の年収ランキング|最新版

*6 リッチマン、プアウーマン - フジテレビ

「メタブログの逆襲」そもそもなんでブログ書くの?

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31日間連続でブログを書くという企画に、またトライすることになった。

わたしたち1ヶ月毎日ブログ書くから読んでね!

私自身としては3回めのチャレンジ。
要するに毎日ブログを書くだけなのだが、ひとりだと辛いからみんなで一緒にやろうというのがミソ。今回は6人のメンバーが参加している。
全員対面で会ったことがある方なので、苦労して毎晩(毎朝?)PCに向かっている姿が想像がつく。

と、今ここで私はさらっとウソを混ぜた。ウソというと表現が違うかな。私の想像の産物を前提にしているというべきか。

「PCに向かっている姿」

ここ。 要するに、PCに向かって、キーボードを叩く姿を勝手にイメージしているということ。

そんなわけ、ないよね。

いまやスマホの所持率は日本全体の平均で8割に近い (*1)。
特に、毎日ブログを書こうなんていう趣味の私たちは全員持っている。
そして、ここが重要なのだが、スマホのユーザエクスペリエンスが劇的に高まっている昨今、ブログに代表されるような長文の入力も全然苦労しないのだ。

いくつか、これが可能になっている理由はあると思う。
1. スマホの大画面化、高解像度が進み、画面に表示できるテキスト量が増え、推敲しながらの入力がPCに近いレベルで可能になった
2. スマホのCPUが高性能化し、OSや個々のソフトウェアの機能が向上したことで、安定してさくさく文章入力できるようになった
3. ユーザがスマホ体験に慣れたことでユーザのスキル自体がアップし、何より意識としても当たり前になった
こういったあたりが主だろうか。

数年前には、「スマホで大学の授業のレポートを書く学生」なんていう旧世代からの批判めいた言説も見た記憶があるが、いまや学生にかぎらずスマホで書くほうが楽だし早い、という人は相当な割合に上るだろう。なにより、場所を選ばず、通勤通学の電車内やちょっとした待ち時間にでも執筆できるメリットは強力だ。
今回私がやっているような「毎日ブログ書く」などという時間的縛りがかかる企画においては、なお相性が良いかもしれない。

さらにスマホを使うことでもっと効率良い執筆方法も存在する。

それは音声入力だ。

なぜ音声入力がすごいのか、についてはNaoki Shibataさんのnoteが詳しいので、こちらから引用する。(*2)

情報を出力する場合「話す」方が「書く(タイプする)」よりも4倍以上速いのです。

ここに尽きるだろう。
これも数年前の音声入力(をテキストに変換する)ソフトウェアの精度が低い時代には夢だった。いまやスマホの高性能化、言語認識ソフトウェアの精度向上によって、もはや夢でもなんでもなく、通常の実用技術となった。

であれば、使うしかない。
と思って、私も今回、ブログを書くために使ってみた。

結果。
ダメだった。
ダメだったので、今この文章はやむなく、ノートPCに向かってキーボードを叩いて書いている。

何故ダメだったのか?

音声入力の精度にはほとんど問題はなかった。
私の持つAndroidスマホGoogle音声入力をインストールして、メモ帳アプリにしゃべれば、かなりの精度でテキストが書き出されていく。最後、それの句読点と誤変換を修正してレイアウトを調整すれば文章にはなった。

文章にはなったのだが、それは自分の評価基準からすると「他人に公開できる水準にはなかった」。
これが、ダメだった唯一にして最大の理由である。

Shibataさんも言及しているように、音声入力の強みは「どんどん入力する」ケースで発揮される。メモをとる、とか。しかし私にとってブログは、なんらかの意思と意図をこめた文章であり、「推敲&編集」を欠くことができない。

したがって、時間軸を戻ることなく音声入力によって生成されたテキストには、文体を通した自己認識が欠落しており、背筋がぞっとするような違和感が生じてしまうのだ。

たしかに音声入力は早い。たとえば字数を増やすことが第一目的なら、間違いなく音声入力を選ぶべきだ。 しかし、そこに推敲と編集を入れたいという気持ちがある限り、生成された文章の体裁、一貫性を整えようとする労を考えると、どうにも音声入力を使う気が湧いてこないのだった。

ただし。私が旧時代的な常識思考に鹵獲されているところもあるとは思う。
たとえば、すべて音声入力にするのではなくて、部分的には音声入力を使い、残りはタイピング(またはスマホのテキスト入力)を使うということも可能なはずだ。

少し話を飛躍させる。

これからAI(というとバズワードを使っているだけ感がするのだが、ソフトウェア全般という意味でここではご理解いただきたい)が発達することで、文章の生成それ自体もAIで行うことは増えるはずだ。
今だとまだ、ニュースなどで一部で使われるにとどまっている。 (*3)
だが研究開発が進むことで、違和感のない文章生成が可能になるケースもだんだんと増えていくだろう。
そうなったときには、AIが生成した文章を多少アレンジする程度で自分の書いた文章として発表しても、誰も見分けがつかないうことは起きうるはずだ。別にそれで問題がないことも多いのだろうと想像する。
さてそうなったとして、それはそのひとの書いたブログといえるのか? 考えてみるとなかなか難しい。

そもそも私はいまブログを書いているけれど、このブログなるものも、2000年代前半から流行り始めて、いまは既にトレンドのピークを過ぎたと感じる人も少なくはないだろう。それまでブログに書かれていた文章は、SNSに書かれるようになったのかもしれないし、noteのようなプラットフォームに書かれるようになったのかもしれない。あるいはYouTubeのような動画、Instagramのような写真での発信に置き換えられている部分もあるだろう。またはLINEやメッセンジャーでスタンプを送ることで解決されていることもあるのだろう。
文章を書きたいから書く、というよりも自分の思いを残したい、誰かに見てもらいたい、そういった動機が根底にあるのだとするなら、自分の思いをより反映させられると感じる媒体を選択するのはごく自然なことだ。
その選択の傾斜が加速するとき、書くこと自体は残るのか?

などなどと考えてみると、
なんのためにブログを書くのか?なんのために読むのか?
これは、当たり前のようでいて、意外と向き合ってみるとひとりひとりに違いが見える、面白い問いかもしれない。

って、考え始めるとキリがないので、今日はここで終わり。
20分で書くはずが、1時間半もかけてしまった。明日からは20分で書きたい。

ちなみに、この記事のタイトルは、「ブログをメタってる謎のメタブログ。うわ、響きがメタナイトっぽい。そうだ、逆襲だ!」という思いつきで極めて安直につけられている。
一昨日、東京駅のキャラクターストリート内に特設オープンされていたカービィのショップ(*4) の影響が大だと言わざるを得ない。

カービィについては日を改めて書きたい。

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*1

【最新版】2017年のスマホ普及率を男女・地域・年代別に大公開!まさにスマホオンリー時代!マーケティングがこれからどう変わるべきか予想してみた。 | マーケティングリサーチキャンプ|市場の旬を調査で切る!

*2

https://irnote.com/n/nad1771b74997

*3

www.bengo4.com

*4

www.tokyoeki-1bangai.co.jp

神が賽振る世を進む、起業家たちの手に地図を

2008年。いまから9年前のこと。大学4年生のぼくは友人3人とヨーロッパに、卒業旅行に出かけた。
旅の目的は、ドイツからフランスまでを、途中いくつかの国を通りながら、自転車で旅することだった。

誰一人ヨーロッパに行ったこともないメンバーだったが、一見するとその無茶な計画がなぜ、成り立ったのか?
答えは、地図の存在だ。

まだいまほどGoogle Mapsは万能ではなかったものの、ぼくらが通りたい国をつなぐ主要道路と、都市の存在を、日本にいながらにして、十分な実感がもてる情報として教えてくれた。
そしてまた当時スマートフォンはなかったので、ドイツについた僕らは、書店で道路地図の本を購入した。ドイツ、フランス、ベルギー、オランダといった西ヨーロッパ諸国が収録されたもの。
その本が、唯一のガイドだった。

地図の力がぼくらの旅行のはじまりと道中を常に支えていた。
現実にたどるべき道を予め旅人の頭に教えてくれる。だからこそ、リスクが低減し、自分たちの生命を危険にさらすことを抑えることができる。
数千年をかけて人類が蓄積してきた知見とデータの恩恵をひしと感じる。

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さて、この「地図の重要性」。じつは会社経営もまったく同じことなのではないかと痛感したのが、本書「0 to 100 会社を育てる戦略地図」 を読んでの一番の感想である。

とりわけ不確実性のリスクを取るのが前提となるスタートアップにおいては、著者のいう「ゼロマエ」から「100」に至るまでのあいだに、手を替え品を替え、様々なトラブルや困り事を、マーケットで神はサイコロを振って、繰り出し続ける。
その困難に対して、予期して対策を持つための地図があるかないかによって、スタートアップの生存率、成功率がどれほど変わってくるか。
それは、本書を一読することで、学習能力の高い、危機に気付ける起業家であれば、即座に感じ取ることと思う。
本書それ自体が文字通り、地図なのだ、と。

あなたがもし起業家、または起業を志す者であるならば、本書を一回読むだけで、これからの旅に起こる危機を知ることができる。起こり得ることのなかで、対策不能な不確実性と、予見可能な不確実性を切り分けて、対応にかけるコストとリソースを節約し、「致命傷をくらって退場する確率」を下げることにも繋がるかもしれない。

これはぼくだけの感想ではなく、本書に目を通した何人かの間で上がってきた感想でもある。

あなたがもし起業家ではなく、スタートアップへの転職や就職を試みる、あるいはすでにその中で働くひとであったとしても、別の角度で非常に有意義だ。というのは、あなたの勤める会社の社長が、リスクを正しく認識して成功確率を上げるために行動を変更できる人かどうかが、0から100のフェーズの全体感を通してチェックすることができるのだから。

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仮に、地図の用意や事前調査なしに、ヨーロッパ横断の自転車旅行に私が出たいと言ったなら、それは止められるべきだろう。また、だれにも止められずに事故を起こして負傷して旅を途中で終えたなら「なぜそんな準備不足で無茶な旅に出たのか」と厳しく指摘されても文句はいえないだろう。

しかし、スタートアップを起業家が始める時に、なんとなく始めて、続けることがあり、結果的にそれが全体のフェーズ感を理解した打ち手を欠くことで、致命的に痛手を受けて退場することになったとして、「なぜそんな準備不足で起業したのか?」と責められることはあるだろうか?
おそらく、その確率は自転車旅のケースよりずっと低いだろう。なぜなら、自転車とちがってそこに地図があるとは思われていないから。

でも、その認識を改める良い機会ができた。起業家には、戦略のための地図があるのだ。たった2,000円足らずで買える地図が。
これから起業家が、地図を持ち、旅に出て、必要に応じて道を修正していくことが当然の世界になってくれたらと思う。
それは、起業の成功率を高め、ひいてはそこに関わるひとの生き方を支えることに繋がるはずだ。

最後、一応書いておくと。本書の著者、山口豪志氏は私の知人ではあるけれど、本書を評価する上で、知人だからといって持ち上げたつもりは毛頭ない。
ただし著者の行動の裏側にある情熱や、それを選び取る基準については少しだけ知っている身ではある。ので、本書を読み、その理念と志が、ユニークな書籍としての結実したことを率直に祝いたいと思っていることを添えておきたい。 (*1)
(注: 献本を受けたわけではなくちゃんと自費で買ってます・笑)

0 to 100 会社を育てる戦略地図 (Amazon)


*1

昆虫博士になるやつを応援するのが僕の夢。虫採り少年と、父の死と、ベンチャーと。

エスカレーター歩行問題に現実的決着をつける 【前編: 歩くと速いのか?】

駅や商業ビルなど、大都市部での垂直移動において欠かせないインフラ、それがエスカレーター。

ただ「エスカレーターは歩行していいものなのか?」という謎がつきまとっている。
と、少なくとも私は感じていた。

そもそも歩く人と、止まって乗る人があんな狭いところで交錯しうるのって、危なくないか?
でも、片側を開けて、歩くことは、僕が物心ついたころ(1990年代)には既に不動の常識だった気もする。記憶は曖昧だが。

調べてみると、日本では1970年代くらいから推奨され始めたとこのこと。 (*1)

すごいな、50年も歴史あったんだこの慣習。

実際、どんな考えを持っている人がいるのか。
ゼゼヒヒという投票サイトを眺めてみる。 (*2)

「片側歩行していい」
「歩行なんてダメに決まってる。でも都市部では習慣的に片側開けるような『悪習』が生まれているので、本来早くこれをやめさせるべき」
「場合によって分ければいいのでは?駅なら歩行OK、商業施設ならNGとか。時間帯で分けるとか。」
などなど色々な意見がある。

業界団体としてはどう考えているのか?

一般社団法人 日本エレベーター協会は、歩行禁止を呼びかけている。(*3)
同協会は鉄道会社と組んで2009年頃から「みんなで手すりにつかまろう」という呼びかけを続けている。

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このポスター、見たことある方も多いと思う。

しかしながら、実効性を発揮しているだろうか...?
私は正直なところ、東京都内の駅で、両側にしっかり手すりにつかまって歩かず乗っている光景を見たことはない。

この「問題」の研究者の意見も拾ってみよう。

江戸川大学の斗鬼 正一教授は、歩行容認は、強者の論理が最優先された時期の産物にすぎないとして、多様性を重視すべき現代において、歩行に否定的な意見を述べている。しかし、実際問題、歩行前提になっている今の状況を「すべて禁止にせよ」というのもまた、一方的であるという意見も示しており、一律の「廃止/存続」の二元論ではない解決法探しを提案している。(*4)


さて。
私自身は、今回いろいろと調べてみるまでは
「歩行禁止らしいんだけど、みんなやってるし、自分も急いでるとしてるから、なんともいえないな〜」
という曖昧さの固まりのような意見であった。

せっかくなので、この問題に対して何か創造的なアプローチを取ってみたい、と思う。

そこでまず、自分でデータをとって調べてみることにした。

調べたいこと。それは。

本当に、エスカレーターを歩くのは「速さの面で合理的なのか?」 である。

私が思っている仮説。
それは
「実はエスカレーターを歩いても大して時間節約になっていないのに、習慣で歩いてしまっているだけ」 ではないか
ということだ。

今回、実験により、歩くのは大して効果がないと分かれば、世の中に「歩くのはやめましょう」という材料ができるかもしれないと考えた。

ということで。
勤め先の近くにある大型商業施設兼オフィスビルにやってきた。

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ここの1Fと2Fの吹き抜けゾーンをつなぐエスカレーターで、実測してみることにした。
なお、このエスカレーターは幅がせまく、一人用の幅になっているが、むしろ実験を安全に行う上では好都合なので、採用した。
見たところ、エスカレーターの上昇、下降速度が著しく速い、遅いということもないようだ。
サンプルとしては問題ないだろう。

というわけで実験開始。

なお、今回の実験では、エスカレーターの手すりが始まるところで(= 弧を描いて下から出てくるところ)ストップウォッチのスタートを押し、到着して手すりがまた弧を描くところをゴールとして、そこに到達したらストップを押している。

まず、静止して、エスカレーターに乗ってみた時のタイムを測定した。

▲上り
28秒74

▼下り
29秒20

次、歩いて乗ってみた。なお、歩く速度は一般に駅のエスカレーターを歩行する際のくらいになるよう心がけた。

▲上り
15秒04

▼下り
15秒42

結論

エスカレーターは、歩行するとすげー速い

なんと、止まって乗っているときの半分の時間で着いてしまう。
いや、これはね、急いでたら歩きますわ。

てかさ、まあ、そりゃそうだよね…。
ひょっとしてこんなん調べたの、ぼくだけなのでは…。

ということで、移動速度の合理性の観点から、歩行の有用性を否定する見解を組み立てるのは不可能でした。
終了。

ってこれで終了したらオチがなさすぎる。
試しに階段だとどれくらいのタイムになるのか計測してみた。

残念ながら、エスカレーターの横にまったく同じ長さでの階段がある建物ではなかったので、同じビルの吹き抜けを繋いでる、踊り場がある階段にやってきた。

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ここでタイム測定すると踊り場で折り返すために、1-2秒程度タイムが伸びてしまうことが想定されるが、それを承知で計測してみた。
なお、歩行速度は、エスカレーター歩行したときと同程度になるように意識した。

▲上り
23秒52

▼下り
25秒01

エスカレーターに静止して乗っているよりも、少し速かった。 とはいえ、エスカレーター+歩行というコンボに比べると、とても速度では勝てなかった。当たり前か...。

だが、一個可能性に思い当たった。 階段を1段ずつ上っているから、この時間がかかるのではないだろうか。

人類の足には、1段飛ばしくらいで上るだけの可能性はある。

これをやって、エスカレーター上で歩行するより、階段を使ったほうが速いというケースを証明できれば、そちらを選ぶようになるひとも増えるのではないか?

それは、速度合理性でも、安全性への配慮でも、エスカレーター歩行を上回る結果だ。
そして、「健康へのプラス」も得られることが大きい。

先日亡くなった聖路加国際病院日野原重明先生のことを思い出した。
100歳を超えてなお現役医師であった。
そして、階段上りで健康維持を実践していたことは有名だ。 (*5)

そのためには、実験だ!
階段上りの速さを証明して、エスカレーター歩行を減らせば、みんなハッピーになる(かもしれない)!!


*1

news.nifty.com

*2

エスカレーターの歩行禁止、どう思う? | ゼゼヒヒ - インターネット国民投票

*3

www.n-elekyo.or.jp

*4

business.nikkeibp.co.jp

*5

news.ameba.jp

オプションB:喪失が物語となり、私達が立ち直るとき

Facebook社COO(最高執行責任者) シェリル・サンドバーグと、組織心理学者アダム・グラントの共著 「OPTION B(オプションB)」 が、静かな話題となっている(2017年7月刊行)。

2015年5月1日、休暇旅行先のメキシコで、シェリル・サンドバーグは夫デイブ・ゴールドバーグを失った。享年47歳。エクササイズ中に倒れての急死だった。
その瞬間から彼女は、深い喪失の旅に引きずり込まれた。

押し寄せる悲しみは、時間と場所を選ばず彼女を責め立てる。世界一利用者の多いSNS企業のCOOであり、各界から尊敬を集めているリーダーは、集中して仕事もできないほどに不安定で、辛さを抱えこんだ精神状態になっていた。

その彼女が、いかにして喪失に向き合い、それを受け容れ、回復していったか。その経緯に起きた出来事、そこで感じた思いを余すことなく綴った、極めて個人的な物語。それが本書の概要である。

この物語の大事なところは、一言で要約できるようなものではないので、関心ある方は一読、と言わず、三読くらいをオススメしたい。既に読まれた方も、読み返すたびに発見があるのではと思う。

私自身は、彼女の前著 「LEAN IN」 (2013年刊行)も読んだことがあり、本書が周りで話題なので、さらっと読んでみようと思い、パラパラと気楽に読み始めた。
だが、読み進めるうちにテクストの重力に引き寄せられ、心がページに張り付いたようになってしまい、とても気楽には、読み切ることができなかった。何日かに分けて、深海から水面に上がって息継ぎをするようにして、ようやく読み終えることができた。

紙の単行本については、見た目は全然分厚くない。それに、文章に専門用語を使っているわけでもない。なのに、読み進めるのに使うエネルギーが非常にたくさん必要な本だった。
でも、それだけの深み、そして温かみのあるインサイトを、受け取ることができた。
濃い、読書体験だった。

本書のタイトル「オプションB」とは、最善ではなく次善の選択肢を意味する。もう最善が選べないなら、次善を「使い倒そう」。これが、本書のコア・メッセージの1つである。
読み終えた今、このタイトルにも、そのメッセージにも、大いに頷いている。

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ただし「悪いことが起こるのを予期して、選択肢を備えておきましょう」という読解をしてしまうと、それは多分、著者の意図とは違うかな、とは感じる。

夫を失う前の彼女に、たとえ彼女から信頼され尊敬される人であろうとも「夫を失ったときにはどうしますか?」という問いを彼女に投げかけたところで、彼女は変わるだろうか? おそらく何も変わらなかっただろうし、場合によっては「なぜそんな質問をするのか」という不快感さえ持ってしまったかもしれない。
行動経済学の観点からは、これは「保有効果」で説明がつく部分もあるだろう。最高の夫を持っていて、それが失われる状態というのは極めて精神的なショックが大きい。それを想像せよといわれたら、聡明で楽観的な人であっても、いやそうだからこそ、難しいものではないだろうか。楽観的だからこそ、今を大切にして、普段の「最高」を相手との関係の中で、たくさん感じられる、とも言えるわけで。

というわけで、大事なのは、喪失が起こった後である。

本書で印象に残ったポイントは、彼女が夫を失ってまだ悲嘆の中にいたときに知ったという、以下の考え方である。

苦難からの回復を妨げる3つのPを知ること。それは自責化(Personalization:自分が悪いのだと思うこと)、普遍化(Pervasiveness:あるできごとが人生のすべての側面に影響すると思うこと)、そして永続化(Permanence:あるできごとの余波がいつまでも続くと思うこと)である。

この知見は、心理学者マーティン・セリグマンの研究結果から来ているそうだ。

自分が3つのPに囚われていないか、というメタ的な視点を持つことで、確かにそうなっている自分を見つけ出し、そこから出ていく方法にトライすることが選択肢に上った。彼女はそれを選択して、成功した。その先に、回復の道は開かれていたのだった。
この視点こそが、オプションBのカギだ、と私は思う。

「最悪」とは字義としては「一番悪い」ということを指す。だが、この「一番」はどうやって決まるのか? 実はこれは、客観の目は何もなく、溢れる情動の結果、瞬間に生じる極めて主観の解釈なのではないだろうか?
悲しみに包まれたら、どんなに理知的な人であっても、理性と客観はどこかに消え去ってしまう。私達が祖先から受け継いだ、原初的な情動のパワーはそれほどに強い。
ここに関して、心理学者ジョナサン・ハイトは著書 『社会はなぜ左と右にわかれるのか』 の中で、象(感情)と乗り手(理性)という巧みな比喩を用いて説明した。つまり、感情という象が暴れてしまったら、理性たる乗り手がどうにかするのは、極めて難しいのだ。

しかしながら、悲劇に見舞われても、それですなわち、私達が24時間365日、暴れる象(コントロールできない情動)に飲まれてしまうわけではない。もし、そのような性質を人間が持っていたら、理で動く文明社会を築くことはできず、とっくの昔に絶滅していたであろう。
社会、コミュニティを作り、その中で言語による対話や、非言語的なぐさめ(抱擁や寄り添い)という方法を使うことで、情動を攻撃的なものや拒絶的なものから、時間をかけて他者志向に発揮させる方向にシフトできるようになってきた。そこに理性を上乗せして、モチベーションを「つくること」のために加速前進させた。
だからこそ、人間は文明を持ち、発展させることができた。と、私は思うのである。

彼女は、この物語を通して、人間に内在している、しかしながら事態が起こるまでは存在が見えてこない「最悪から立ち直る装置」を起動し、効果を発揮させていく経過を隠すことなく語った。
「最悪」を「最悪」でなくすことができることを示し、「最善」がなくなったとしても「次善」を心から受け容れることができるようになることを示した。
それに関する一連の「科学」が充分に存在し、プロセスにおいて最大限に役に立てられることを、身をもって伝えてくれた。

人は誰でも、立ち直る装置を使うことができる。大切な人を失うことを過度に怖がらなくてもいい。そして、悲劇が起きた時にも、世界が終焉したと決めつけなくてもいい。
失った時から始まる世界。たとえその時点では闇にしか見えなくても、必ず光の差す日はやってくる。

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ただし、辛いようではあるが、ただ喪失の発生点にずっとうずくまっていても、闇夜から抜け出すことは難しい。喪失から少し時間が立てば、人間が本来持つ回復力、すなわち「レジリエンス」のエンジンが再始動し、顔を上げることはできるようになる。
そのタイミングで一番大事なことは何か?
それは、自分の過去からのよき友人と、自分の痛みに共感を持つ新たな知人、これが手を差し伸べてくれること。それもまた本書に通底するメッセージだ。

どうしたら、そのような友人、知人を持つことができるのか?
これこそまさに、共著者アダム・グラントが自著 『GIVE & TAKE』 (2014年刊行)で示してきたことにほかならない。「与える人」(=Giver)であること。与える人は、窮地に陥った時、それまでに作ってきた「与え合い」の相手から助けがもらえるものだ。というよりも、与える人どうしの関係であれば、心底から苦しむGiverとしてよく知る友人を助けずにはいられないだろう。

彼女の場合、少女の頃からの深い繋がりを持つ仲間、また社会的な活動を通じて作ってきた知人や、また初めて出会う人との関係のなかで、レジリエンスを発揮し、自らの回復を成し遂げた。また、それとともに、その過程で出会った、喪失に苦しむひとに対しても、最初は接し方に迷いながらも徐々に「Give」していった。

それは彼女がFacebook COOという地位に居たからできたことなのだろうか?
彼女も認める通りで、それも関係はゼロではないかもしれない。だが、彼女がGiverであることは彼女がFacebook COOであることの前提であって、結果ではない。

夫のデイブ以外でだれよりも、彼女がGiveし続け、そして喪失のあとでの立ち直りを支え、Giveしてくれたのは誰か?
ふたりの子どもたちである。
父を急に亡くすという切実なる悲しみ。それに子どもたちが向き合いながら、母とともに「オプションB」を選び、受け容れ、前に進もうとする過程が本書では丹念に描かれている。

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本書で私が「いちばん」好きなエピソード。それは、喪失の後、彼女が子どもを励まそうとしたときの出来事だ。
伝えようとしたメッセージを、子どもの言葉と行動を通して、すっかりそのまま、子どもから自分が受け取るということが起きたのだ。
彼女とデイブが子どもたちに注ぎ続けた愛。驚くべきことに「子どもからの慈愛」として、それは形を変えて、時を超えて、彼女に贈られた。

親は子に一方的に与えているようで、実は子から大いに与えられ、救われている。
これもまた、本書の素晴らしいメッセージのひとつだ。

生き抜くこと、そして、ひとを愛することを大切にしたいと願う、すべての方に。おすすめの一冊。


以下、本記事で紹介した各書籍の紹介(Amazonへのリンク)

OPTION B(オプションB) 逆境、レジリエンス、そして喜び (単行本)

OPTION B(オプションB) 逆境、レジリエンス、そして喜び (Kindle版)

LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲 (ハードカバー)

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学 (単行本)

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)


5年遅いんだ、婚活が。

前回、婚活界に横たわる矛盾について述べた。

そこから思いついたこと。

「大都市で生活する大卒者の婚活は5年遅い(ケースが多そう)」

こう思った背景だが。
まず、統計的に示されている、婚姻に関するファクトを2つ挙げる。

・ 婚姻率(人口あたりの年間婚姻者数)は1971年から低下傾向をつづけている。
・ 初婚年齢は男女ともに、1950年代と比べて、2015年では5年ほど上がっている。
(*1)

次に、人口移動についてのファクト。

・ 大都市圏への人口移動が顕著。特に関東圏への集中が著しい。
(*2)

最後に、学歴と、世代の人数についてのファクト。

・ 90年代から大学進学率は伸長して今は50%を超す。
・ 若年層の数は第二次ベビーブーム生まれ(例 1974年、209万人)以降減っているのに、大学進学者数は増えている。
(*3)

これらのファクトを重ねて見えてくるのは、「大都市に移動して、大学進学する」生き方をする人の割合が増えているということだ。
その結果何が起きるか?
労働市場への参入年齢がかつてに比べて遅い人が増え、それに引っ張られて、結婚のようなライフイベントの設定時期が遅くなる。

また、これは推測ではあるが、大都市部での生活においては、地方の因習や早期結婚のプレッシャーを受けることなく、自分の仕事ややりたいことの追求に時間を投じる(あるいはなんとなく生きている)中で、婚姻の必要性に迫られることなく、年を重ねていく、ということが当たり前になっていく。

これは良いか、悪いか?
単純に善悪の問題ではない。それこそ人の生き方の尊重の問題でもある。
ちょっと話が逸れるが、生き方の尊重という点では、LGBTなどの性の多様性も重要だ。あるいは、外国人。日本に来て、定住して働いて生きていく人たちが感じる課題、社会の生き辛さも認識していくことも欠かせない。
「日本に生まれたら、結婚して子どもを持つのが社会の常識です」ということが、いまや特に大都市部では非常識になりつつある。マジョリティの解体だ。

確かに、「日本人の出生率」が上がらないと国家運営では未来に課題山積かもしれない。だが、そもそも出生率の上がりにくく、未来へのツケを生む環境を作ってきた責任は、国家だけでなく、今までの社会に関与していたすべてのひとにある、と思う。
それを、これから生きる人たち、とりわけ辛い目を見ているマイノリティに転嫁して負わせるような思想は、決して認められない。

と、脱線したけど、何が言いたいのかというと

「大都市に住んで、大学進学を選んだ時点で、日本社会が作ってきた『結婚というライフイベントを先送りするほうが得に見える/そもそもしなくてもよい』という環境に身を投じているのだということを、自覚する必要があるのではないか」

…ぼくが、単に状況を認識したかったから、言うんだけど(笑)。

そこに至り、
「5年遅い」
という冒頭の言葉が出てくる。

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5年というのは感覚値で言ってるわけではない。1950年代の初婚年齢の平均値と、今のギャップが5年だから、分かりやすい基準として、そう言っている。
個々の事例の差異を汲みとれていない言葉のは確かだが、1ワードに集約しようとした結果なので、ご理解いただきたい。

何が一番の苦しみかというと、この「5年遅い」に気づくのは、自分が5年遅い当事者になってからということだ。

どうしてもっと早くに行動しておかなかったのだろう?
あのときに付き合っていたひとを大切にしなかったのだろう?

とかとか。基本的にまず後悔から入る羽目になる。

そう。婚活の苦悩には、それが、当事者にならない限り共感されづらいものであることも、ひとつにはあるだろう。

ちょっと話が逸れる。
私は先日、福岡県のとある地方都市の大型商業施設で、休日、家族連れなど対象に、とある遊び体験してもらうスタッフの仕事をしていた。
そこで来る親子連れを見て感じたのは、「東京の親子連れに比べて、親子の年齢が近いケースが圧倒的に多い」ということだった。

たとえば、3歳のお子さんのいるご両親が、どう見ても、20代前半とか。
15歳くらいのお子さんのいるお父さんが、40歳未満にしか見えないとか。
そういうケースが多いことにびっくりした。

たとえばその方々に「東京では結婚したいのに結婚できないなど、色々な婚活にまつわる問題があります」と言って、共感されるだろうか?
「忙しいんですね」という理解はされるかもしれないが、「結婚したいなら、高校卒業してまもなく、20歳くらいで、そのとき付き合っている人と結婚すればいいのでは?ぼく/わたしみたいに」という返答が出てきそうだと思うのだ(予測だけど)。

同じ日本という尺で語ろうとしても、都市と地方など、バックグラウンドによる環境の差異が大きいので、単純化した全体論は成り立たないだろう。

さらに、同じ大都市の中でも、当然ながら個々の差異は大きい。
たとえば、大学から同年齢で付き合って、22歳で卒業して就職と同時に結婚、というタイミングでライフイベントを置くことに成功しているひとたちも大勢いれば、付き合っても結婚に至らず別れをくりかえすとか、気づいたら40歳を過ぎてしまったというひともたくさんいる。

1950年と、今の一番の差。それは、生き方の多様性が増え、かつ、それぞれが小さいクラスタに分割されることで、体験と共感が、断絶されていることなのかもしれない。

でも、これを「古き良き時代、シンプルなモデルだけに戻せ!」というのは狂気の沙汰。
そんなことはありえない。
そもそも、「古きが良き」であるというのは、ただの回顧主義。因習を当然とする環境の中で、ひどい目に遭った、人生を返してくれ、と思っているひとも大勢いることだろう。

現実の変化に向き合って、そして少し先を見つめながら、なしたいこと、を考え続けることが必要だと思う。ひとりひとりも、社会としても。
が、一方で、その行為の際に要求されるアタマと心の負荷は、変わらない現在と未来の連続を求めようとするマインドセットには、なかなかヘビーなものでもあるだろう。
ぼくも正直、想像するたびに、ウッとなる部分がある。変化を当然のものとして扱うのは、結構エネルギーが必要だ。

かように考えると、せめてできることとしては、結婚したいと思って行動しているひとたちは、守旧思想の方々の意見を取り入れないほうがいいと思う。たとえ同じ「結婚」だとしても、過去と今でそれが意味するものも違うし、個々の事情でも意味は大きく違う。余計な重荷でしかない「アドバイス」は頂戴しなくていい。

じぶんの現実に向き合うことへの助言や支援をしてくれる、未来志向のメンターや知己のいうことに耳を傾けつつ、彼らに自分の体験を率直に開示してフィードバックをもらいながら、じぶんの「受け容れて、前に進む力」を徐々に高めていく、変化を受け容れる、「変容のプロセス」を歩むのが、良いのではないだろうかと。

※傾聴なく、相手が悪いとか、キミが悪いとか言う人は、未来志向の対話相手ではないので、こういう人に相談するのも辞めた方がいいと思われる。そういう人は概して自分の価値観を押し付けたいだけなので、変容するプロセスの中では有害でしかない。うまく距離をとること。本当に自分のことを気にかけてくれる人は、まず傾聴から入って、対話をしてくれるはずだ。

そしてこれまで色々文句を言ってきた(笑)婚活サービスなども、その変容のプロセスの中で、目的と対象を適切に見極めて使うなら。うまく出会いの場として活用して、良い関係をつくるキッカケとなり、場合によってはその先に結婚することもできるのではないかと思う。ただぼくが気づいたのは、「見極め」と「使い所」が難しいので、ただそれに振り回されると疲弊しちゃうよっ、てことで。
あとは、結婚相談所を使うと、そこの人がプロの対話相手として、うまく噛み合うことで、変容プロセスを期間を圧縮して自分に起こすことも可能だと思うので、結果的に行動開始から短い期間で結婚できることもあると思う。興味がある人は検討してよいかと(誰にでも上手くいくとは言わない)。

もしそういった取り組みの検証サイクルをまわしても、結婚できなかったとしても。
もちろん、それをいつの時点で判断するかにはよるが。初婚のあと、離婚に至り、その後再婚することなく、という人もあるだろうし。

自らを責めることも、実らなかった相手を責めることも、親や家庭を責めることも、社会や企業を責めることも。
いずれも自分への辛さに帰ってくるので、一時的にはやむを得ないにせよ、長く何かを責め続けるのはよくないと思う。
結婚したから勝ちでもなければ、しなかったから負けでもない。

時間は巻き戻せない。が、人生の正解は、ない。
営みの価値を決めるのは、自分の内なるもの。
人生を決定論的に扱ってサジを投げるよりも、自分の認識を変えることで世界自体が変わっていくと思うほうが、自分を受け容れて、楽しく生きていけそう。

ということで、自分で送る、自分への言葉。

「5年遅い。でも、それを認めて、今から変容のプロセスを。人生で今が一番、若いのだから。」

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ということで、婚活ネタは、今日でいったん終わりにします。色々なフィードバックいただきありがとうございました。


*1

www.garbagenews.net

*2

http://www.soumu.go.jp/main_content/000452793.pdf

*3

1.出生数、出生率の推移|平成27年版 少子化社会対策白書(概要<HTML形式>) - 内閣府

www.nikkei.com

婚活パーティの衝撃【後編: 比翼連理なる矛盾の発見】

前回の記事 「婚活パーティの衝撃【前編: 部屋の構造的な意味で】」の続き。

婚活パーティに行ってみたら、そこが2ラウンドかけて参加した異性全員と話せるしくみで運営されていた。ぼくは1ラウンド目終わって7人中2人と「双方興味あり」のような状態になったところまで、前回に書いた。

2人の女性のプロフィールを簡単に書いておく。
Aさん、32歳。仕事は会社員。
Bさん、30歳。仕事は医療系国家資格。

2ラウンド目は、この2人とどう話そうかな〜、というのがメインな心理になることに気づいた。

逆に、ほかに最初の5分で興味を持ってもらえなかった人に、自分に関心を持ってもらおうというのは、結構難しい。
特に、1ラウンド目でまったく話の弾まなかった人(Gさん、28歳、会社員)との2ラウンド目などは、完全に罰ゲームといえよう。
という不毛さを、再度同席した瞬間、ぼくだけでなくGさんも、はっきりと感じていたような気がする。

「一応話します?」
「…あっ、はい」
「中野住まいなんでしたっけ?」
「…そう書いてますしね」
「そうですよね。…中野ってどんな感じですか?」
「街ですね、ふつうの」
「…そうですよね」

みたいな。
だが、不毛とはいえ、2ラウンドめの1回ごとのセッションは1ラウンド目より短いこともあり、実質3-4分だけ。なんともいえない居心地の悪さ、これはこれで面白い経験だとも思う。

お互いに興味ありだったAさんとの会話の2ラウンド目を思い出そうしているのだが、会話の中身が思い出せない。
好きな旅行先の話をしたような気もするのだが。びっくりするほどよく覚えていない。

そのあとのBさんとの会話についても、そんな感じ。
1ラウンド目で、仕事の話や趣味の話もある程度は触れた上で、「消去法の◯つけ」プロセスをしたことが、間違いなかったよね、という確認の感覚を抱いた。

この2ラウンド目で働く力学は「確認」と「選択」なのだと思われる。
ぼくの場合は、もう2ラウンド目始まった時点で、この日、この後カップリングが成立するならAさんかBさんかしか、ほぼありえないので、「どっちにしようかな」を決めることが必要になる。
文章で読むとイヤな感じかもしれないが(笑)男女ともに参加者全員がそうするわけであり、それが求められている場なので、当事者たちにとってはごく自然にできることだったりする。
いわば、環境とルールのパワーなのである。

これが、合コンみたいに、目的設定がブレやすく、ちょっとした行動のゆらぎで関係性自体がすぐ放散してしまうイベントでは、これは成り立たないと思った。
成し遂げたい目的があるならば、自分の意志やガッツに頼るよりも、環境とルールを味方につけたほうが、理にかなっていることも多い気がする。これは婚活にかぎらず。

環境やルールに頼らない!己のチカラで解決する!
という人は、素敵な異性を見つけて、熱心なアプローチをして、ゲットすべきだ。
皮肉でもなんでもなく、それができたら、どれだけいいだろうか。
ぼくには、今回みたいな方がしっくり来る。というか、できぬものは、できぬのです。

話がそれた。そんなこんなで2ラウンド目は流れるように終わった。

この段階で、男性の半数と女性の半数が席を立って移動して、同性どうしが隣になるように席を組み替えるプロセスが入る。
要するに、ピンク色のリクエストカードを書くときなので、それを異性に見られないようにする手順だ。いや、このあたりも、巧みなオペレーションに落とし込まれているなと、感心した。

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(これがリクエストカード)

ぼくは第1希望に、Bさんの番号を書き、第2希望にAさんの番号を書いた。
Bさんを第1希望に選んだ理由?
その場の直感。
なんとなく、Bさんのほうが無理なく話が続けられそうな気がした。けど、これは後付の理由づくりかもしれないので、やっぱり直感でしかないと思う。
相手の年齢は考えなかったかって? 考えないといったら、嘘になるかもしれない。

カードを司会が回収し、裏で集計する。その時間つぶしと、アップセル狙いで、「ライトな結婚相談所チックなサービス」の利用に興味あるかを尋ねるアンケートが配られた。
このサービスは登録料30,000円、月額10,000円程度から、幅広くリコメンデーションやマッチングを行ってくれるものだった。
ビジネスとしてはアリなのだと思うけれど、このタイミングというのはどうなのかなと思った。だって、今回収されたリクエストカードのマッチングが分かる前のドキドキしている段階で、次のことを考えるって、人間けっこう難しくない?(笑)

いよいよ最後にマッチングの発表。
司会のキマっている女性が、ここぞとばかりに、声を張り上げる。

「おめでとうございます!
 本日、2組のカップルが誕生いたしました!
 1組目は、男性●番、女性▲番。2組目は、男性■番、女性▼番です!
 皆様、盛大な拍手をお願い致します!」

何がおめでたいのか良く分からないし。コレ拍手したい人っているのかな。

あれ。
2組目ってぼくの番号じゃないすっか。で、相手の女性は、第1希望で選んだBさん。

うわあ。
いざそうなると、困る。
テンプレートどおりの司会の言葉になんの共感も湧いてこない一方、これ選ばれるとどうしたらいいんだろうか、という焦りが湧いた。

で、思わず立ち上がってしまった。

「まだ、立たないでください!お座りください」

即座に司会に怒られた。座った。

その後、カップルになれなかった男性たち、女性たちはそれぞれ性別ごとでまとめてタイミングを分けて、退出させられた。
タイミングを分けるのは、その後でありえる「男性が女性を追いかけて声をかける」ことの防止であろう。確かに、それをされてしまうと、女性の不快度が上がり、クレームの元になり、次に来なくなってしまう。

とにかく徹底的に女性のリピーターを大事にするのが、婚活パーティ・ビジネスの要諦なのだ。女性さえ確保できれば、単価の高い客である、男性を引き込めるのだから。

そして会場には、司会女性と、男女2人ずつだけが残された。
ようやく席を立つことを許され、ぼくはBさんの隣に座った。

Bさんと、会話する。といっても
「あ、どうもありがとうございます」
「こちらこそ」
くらいの朴訥たるものでしかない。

だって、そこで
「選んでくれてありがとうございます!」
「私もとっても嬉しいです!」
なんてテンションも出ないし。実質会話時間、まだ10分以下なので。

司会から、ここでようやく連絡先の交換を許された。
これもまた、婚活パーティ・ビジネスの要なんだと気づく。
容易に連絡先を交換させると、「ストーカー的な男」によって、女性参加者の満足度が低下するリスクがある。
双方選びあうプロセスを経て初めて、連絡先が交換できるのだ。
最初からメッセージ送信によって関係構築を図ろうとするネット出会いサービスとは全く対照的な順番になる。考えてみると面白い。

しかし、思う。

「リピーターが多い」のは安定するビジネスの肝だと思うけど。
婚活というテーマにおいて、リピーター率が高いという状況は、顧客の目的に合致しているのだろうか?
むしろ、リピート率を低く、目的達成できるのが最大の顧客満足ではないのだろうか?

だがそれを責めることもできまい。企業の力学とは、自然には、現状の延長線上に進むもの。
かくして、リピート率の高い、よくできた婚活がぼくたちの身の回りを埋めていく。

矛盾。

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さてぼくとBさんは会場を出て、下りのエスカレーターで話をしていた。

「あの、すいません、Bさん、ぼくは今日チャリで来ちゃったんですけど。」
「えっ。そうなんですか。」
「遅れそうだったんで…。ところで、この後ってお時間あります?」
「ありますよ」
「じゃあ軽く食事でもしましょうか」
「そうですね、私、いいお店知ってますよ」
「あ、じゃあぜひ…お願いします。」
という感じで、Bさんにお店を教えてもらうという、見事にイベント・アフターの準備不足ぶりを露呈したのだった。

かといって、会場近くのいいお店をカンペキに押さえておいてから婚活パーティに望んでも、カップリングされない可能性のほうが高いわけで、これもなんか不毛だなーって思ってしまう。
だって今回でいうと、男性8人(女性より多く、余っていた)のうちカップリングされたのって2人で、成立わずか25%だ…。
ぼくが今回カップリングされたのも、基本的にはただの偶然。

Bさんに連れられて入ったのは明るい雰囲気のカフェ/レストランだった。土日だが夕方ということもあり、そんなに混んでいなくてすぐに座れた。
ぼくは聞いてみた。

「何飲みますか?お酒って結構好きですか?」
「好きですよ」
「あ、頼んでください!ぼくは自転車なんで、ソフトドリンクでいいです」
「あ、じゃあ私も別にいらないです」
「すいません…」

という配慮不足の上塗りがあったことを、ここに告白する。
とりあえず婚活パーティに自転車で来るのはやめたほうがいいと思った。

とはいえその後は、普通に仕事の話や、家族の話などをしつつ、互いの価値観を見るような質問も入れつつ、お互いに「ありかもな」という感覚を深めたような気がする。
が、錯覚かもしれない。

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ふと感じる。

婚活パーティでカップリングできたとしても、そこがようやくスタート地点であって、そこから先に続くかどうかは分からない。というよりも、ほとんどがどこかで終わっていくのだろう。
お互いが自分の中に、相手と連絡し続け、会い続ける「とくべつな理由」を作ることができなければ。
何かの弾みか、面倒くさいかで、ひとつでもプロセスが停滞すると、基本的にはオシマイ。

想像してしまうと虚しい。
だがそれも自分が当事者としてやってしまっているのだと分かっていることが、虚しさをいっそう、複雑なものにする。

虚しさついでに、費用を計算してみよう。

トータル10人とカップリングできれば、将来そのうち1人と結婚できる「かもしれない」と仮定しよう。
婚活パーティに1回参加すると、今回同様に、確率25%でカップリングになれるとする。
10人とカップリングできるためには、少なくとも40回はコレに参加しないといけない。
週に1回参加するとして、およそ10ヶ月かけて、1人見つかる「かも」。
費用は約5,000円*40 = 約20万円。
結婚相談所が入会金10万円程度、月会費1万円程度だとすると、10ヶ月かかると同程度か。
成婚料というものが、結婚相談所にはあるけども(相場は約10万円)。

そして計算してみて感じるんだが、20万円かかることより、この手順を40回繰り返すことのほうがはるかに辛く思えてきた。探して、申し込んで、参加して、リクエストカードを出して、etc。

やっぱり本気で結婚したいならば、結婚相談所で、プロにリコメンデーションをまかせて、選り好みせずに向き合うというのは精神労力削減の意味でも良いのかもしれないと思った。
前々回書いたとおり、収入と定職の観点で、ぼくには結婚相談所を使う資格がないのですが。
使える状況にある方は、古いとか恋愛結婚がいいとか、食わず嫌いをせずに使ってもいいのかも。

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あれから2週間経ち、Bさんとは、いまも連絡は続いている。

だけど、「ただの良いお友達でした」で繋がりを自然消滅させるほうがラクな力学が、この世界を支配している。
相手もまた、次なにかの婚活の行動を取り続けているだろうし、ぼくもまた何かをするだろう。
するとそこにカネと労力とがかかり、比較検討プロセスが入り込み、集中と選択と決断を先送りにさせていく。
だが選択と決断のカギは自分の側にあるのではない。いつだってそれは相手の側にある。

可能性を広げる行動を取り続けなくてはいけない&それができることが、今あしもとにある可能性を狭めるという矛盾を引き起こす。

これが、矛盾その2。

分かっていても、矛盾を解消する方法はない。かくして、葛藤は続く。

閉塞感を抜け出したくて、また新たな婚活サービスを探し、それにお金と時間をつぎ込んでも。
事業構造の矛盾(リピート率の向上)と個人内面の矛盾(継続と選択と不一致)の比翼連理な強固な構造の中にいる限り、行き着く先は同じことだ。


この感覚と状況、婚活に苦しむ人達のある程度共通するものではないだろうか?

というのが、自分が今回参加してみて初めて、等身大に分かったことだった。
この衝撃は重く、まともに味わうと、立つ元気も出ない。

この手詰まりと閉塞を、どうやって克服すべきなのだろうか。
袋小路の脱出の成功例を知っている/自分は成功した、という人の話を聞いてみたい。

※ご感想、アイデアなど、よければコメント欄にください。