ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

日大アメフト部事件に見る、マインドコントロールとアモラル

先日、大学アメリカンフットボールの定期試合、日大-関学大の対戦にて、日大の選手が関学大の選手に悪質で危険な反則タックルを仕掛けるという「事件」があった。日大監督の指示があったという声も出ているが、問題の全容解明が進むまでにはまだ時間がかかりそうな状況だ。(*1)

試合の当該シーンの動画を観てみると、あらためて悪質というか異常性が際立つ。

www.youtube.com

この行為が、普通に考えて「反則」だけで済むはずではなく、後でどういった問題が指摘され、「勝利」どころか廃部につながりかねないだろう、というのは、ちょっと想像したら分かりそうなものである。とりわけこのスマホで誰でも撮影し、動画を共有拡散できる時代、証拠隠滅も不可能だし、この動画がネットに出たら拡散は止まらない(そして事実そうなった)。
が、実際にこんなことが起きたということは、日大アメフト部の関係者の頭にはそのような予測がまったく存在しなかったということが言えそうだ。
道徳心スポーツマンシップどうこう以前に、こんなことが世の中に知れ渡ったら自分たちの組織自体が窮地に陥るという想像がなかったということが、私としては今回の事件のなかで一番びっくりする。

ではどうして、彼らにそういう想像が働かなかったのだろうか。

「インモラル」と「アモラル」の概念から説明を試みてみたい。

以下、英語の意味に関するは記述は、”英語/C++/Python勉強サイト”の記事を参考とする。(*2)

まず「モラル(moral)」とは日本語では「道徳、倫理上の、善悪の判断がついた、良心的な」といった意味になる。
それの否定の接頭語がつくときには「インモラル(immoral)」と「アモラル(amoral)」の2つの言葉があるのがポイントだ。
どちらも日本語だと「不道徳、非常識な」となるが、英語としては使い分けの定義もできるのではとこの記事の著者は書いている。
一言で言うと、インモラルは「善悪の区別がついているのに不道徳なふるまいをする状態」であり、アモラルは「善悪の区別がつかない」と考えているとのこと。
この使い分けは非常に興味深い。

ほとんどの人間にはモラルがあり、モラルに反する行動は通常の精神状態では指示されても拒否するものである。

たとえば、「道に立っているアイツがムカつくから、後ろからタックルをかましてこい」と上司に指示されたと想像してみよう。あなたはこの指示に従うだろうか? まず従わないだろう。まず何より、何も悪いことをしていない人間に危害を加える、痛みを与える、というのは倫理観として耐えることはできない。それに加えて、この行為は暴行罪にあたると知っている。「指示を受けたから」というのはあなたが暴行することを法律が正当化してくれる理由にならないのは、明白だ(そしてこの場合、上司は強要罪に当たるだろう)。
モラルがある人は、インモラルな振る舞いを基本的にはしないのである。

しかしこれが以下のようなケースだったらどうだろうか。
あなたは同じような局面で、暴行を上司から指示された。しかし上司の言うことは絶対であり、そこに反意を示すことは、あなたにとってとてつもない不利益になる。そして上司に従うことで他に代えがたい大きな利益を得られることもある。というようなことを習慣の中で「本当に信じ込んでいる」状態になっていたとしたら、どうだろうか。あなたは果たして、その暴行を拒否することができるだろうか。
「アモラル」な、常識に照らして自らの行為の善悪の区別をつけるための認知能力がない、あるいは極度に低下した状態になっていたら、法に反する指示にも従ってしまうのではないか。
私はこれが今回の日大反則タックル事件の構造にあると考えている。

Asagei+というサイトの記事では以下のようにライターが意見を書いている。(*3)

日大の監督は単なるスポーツ指導者ではなく、日大の理事会において人事担当の常務理事という要職に就いている重要人物の一人。学生にとっては明らかな絶対権力者であり、その指示に逆らうことなど考えられません。それゆえ今回の件はもはやスポーツの次元を離れ、教育現場におけるハラスメントの問題だと認識すべきではないでしょうか。

この部分、前半に関しては同意するが、後半の「ハラスメント」という部分がちょっと本質から逸れているように思う。

ハラスメントとは、大阪医科大学セクシュアル・ハラスメント等防止委員会のHPによると以下の定義とされている。(*4)

他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること

確かに日大監督は、タックルをした日大選手に脅威、不快感も与えただろうとは思うが、それだけではその選手が暴行タックルに及ぶ理由としては不十分である。

監督が日々の練習やらなにやらの接点を通じて、いわばオウム事件のときに何度も取り上げられたような「マインドコントロール」というべき状態を生み出し、「インモラル」ではなく「アモラル」な状態を作っていったと私は考えている。だから、あれほど躊躇なく、ただの暴力としかいえない行為を、スポーツのグラウンド、それも公式戦でお客さんが見に来て、写真や動画を散々撮っているところで、平気でやってのけてしまえる下地にあると思うのだ。

ポイントはもうひとつあって、「アモラルは集団においてのみ発生する」ということだ。
(ただし、いわゆるサイコパスと分類されるような、もともと倫理観が極めて希薄な精神にある個人についてはその限りではないので例外とする)
今回のように、モラルある人間が、アモラルに転換してしまうというケースについては、集団の影響力が不可欠だ。

もっとも歴史的に分かりやすい例はナチス・ドイツであろう。第二次世界大戦のときに、ドイツ軍は何の罪もないユダヤ人を大量に、極めて効率よい殺害方法を生み出すための仮説検証を回しながら殺していった。じゃあそれに関わった人全員がサイコパスかといったら、それは割合の上でありえない。ほとんどの実行者たちは、モラルを生来的に持っていた「ふつうの」人だったはずだ。しかしそれが、集団の中で、繰り返し「マインドコントロール」されるような機会に晒され続け、そして内部で相互にその状態を強化してしまう影響力が働いて、「アモラル」になっていったのだろうと考えている。

人間のモラルは気高い。それこそ、同じく第二次世界大戦のときにいた日本人外交官、杉原千畝の行為などはまさに最たる例ではないだろうか。
彼はナチス・ドイツから迫害され、しかしヨーロッパからの脱出のためのビザを持たないユダヤ人に対して、本国の決まりを無視して、独断でビザを発給し続け、結果的に6,000人のユダヤ人の命が救われたといわれている。(*5)
彼は、日本という自分の国の同盟国であるドイツの不利益となる行為、そして母国からも許可されていない行為を、しかしながら自らのモラルとの天秤にかけて、選択し実行した。

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私達のもつモラルは、基本的には人を助けたいという方を向いている。それはそうで、「助け合いマインドセット」が活用されたからこそ、決して体力、繁殖力などでほかの人類(ネアンデルタール人とか)と比べて強いとはいえなかった現世人類は、過酷な地上を生き延びてこられたのだ。
だが、そのモラルは、なんらかの目的をもった集団が存在し、その中で権力、暴力、服従を正当化して媒介にするマインドコントロールが強力に作用してしまうと、驚くほど短期間で「アモラル」に変わってしまう。
「正義」すらも、実はアモラルに加担する。なぜなら正義とは正当性につながる。その集団に掲げる正義が、人としてのモラルと衝突することがあっても、正当性が発動してモラルを押さえ込み、集団のマインドコントロールを可能にするのだ。

マインドコントロールに染まったアモラルな集団で通用する原理原則は、モラルある人々からすると、まったく理解できない、おぞましいものになっている。そして、その集団はモラルに対する想像力が欠如する。客観的に見ておかしいだろう、ということがまかり通る。
これが、今回日大アメフト部があの反則タックルを衆人環視のなかでやってのけた背景にあると私は考えている。

では最後に。一度アモラルに染まった集団(の内部の人々)が、モラルを取り戻す方法があるかを考えてみたい。
これもまたナチス・ドイツの例になるが、ヒトラーが死に、敗戦して解体されたドイツ人が以後ユダヤ人を虐殺したことがあったかというと、そんなことはなかったのだ。つまり集団が解体され、内部のマインドコントロールを維持する構造が崩壊すれば、ひとりひとりのアモラルも取り除かれる。もちろん、一度アモラルになって、おぞましいことに手を染めたことの後悔は、一生つきまとうものかもしれないが。しかしそれはモラルを取り戻した証拠でもある。

かように考えると、日大アメフト部について、少なくとも内部構造を解体する必要があると思われるが、そのためには集団で起きたことの解明が前提となってくる。それをなしに解体したところで、きっとまた同じことは起こるだろうから。
しかし果たして解明ができるのかというと、おそらく内部の人間では無理で、外部の独立した調査の手が入る必要があると思うが、その解明までのあいだは無期限活動停止の状態に置かれるといったこともやむなしと思う。
それはなんのためかというと、もちろん次に対戦するチームが被害を受けないようにというのもあるし、もうひとつ大事なのは、日大の選手たちをアモラル状態からすぐ引き離すことだ。彼らの未来には、なんの罪もないのだから。


*1

toyokeizai.net

*2

eigo.rumisunheart.com

*3

www.asagei.com

*4

https://www.osaka-med.ac.jp/deps/jinji/harassment/definition.htm

*5

https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p14.html

Deep Learning 美しさ判定 x 校閲ガール

DeeplooksっていうWebサイトが2年前からある。(*1)
何ができるかというと。顔写真をアップロードすると、Deep Learningの技術を使って「美しさ」を測定してくれるというサイト。

「地味にスゴイ!校閲ガール河野悦子」というドラマを観終わった記念に、ドラマのキャラ(を演じた俳優さんの写真)をDeeplooksしてみたい。
こんなことをする理由はかんたんで、校閲ガールの石原さとみさん他女子がとてもキュートので、Deep Learningを使ったソフトウェアだとどう判定されるのか知りたかったというただそれだけの思いつきである。AIはぼくが美人だと思う女優さんをちゃんと美人と認識するのかと。

ということで、いってみよう。
なお、評価は★5.0が最高、3.0が平均くらい、らしい。

まず、景凡社受付嬢 今井セシル役の足立梨花さん。

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4.1 !! 表情の豊かさから来るかわいさはAIにも理解されたようです。

つぎ、編集者 森尾登代子役の本田翼さん。

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4.4 !! すごいスコアが出ました。本業モデルですしね〜。AIも大絶賛。

そしてスペシャルドラマに登場、新人編集者 橘花恋役の佐野ひなこさん。

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4.2 !! これも高いスコアだ〜! ドラマでも是永是之をドキドキさせてましたがAIにも伝わった。

と、ここでドラマは変わりますが、「逃げ恥」主演 森山みくり役の新垣結衣さんにもなぜかご登場いただきましょう。

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4.3 !! さすがのガッキー。逃げ恥でハートを鷲掴みされたのは人間だけでなくAIも。

ついに最後、主人公 河野悦子役の石原さとみさん。大トリです。

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4.9 !!

えっ、5.0が満点で4.9…? 高ぇ!

ということで、AIは石原さとみさんのかわいさに卒倒したということがわかりました。

技術に詳しいひとに、なぜこの石原さとみ画像はここまでの点数になるのか教えてほしいです...。

そして、すっごく今更なんだけど、そもそもこのドラマは「ファッションを好きであること、情熱を持つこと」がテーマのひとつだし、たしかに顔の美しさも魅力のひとつではあるけど、別にそこだけの話じゃないだろということだと考えると、果たして顔だけ取り出してAIにかけるというこの取り組み自体どうなんだ感がすごい。ま、やってしまったものは仕方ない...。

※この記事において、AI(人工知能)に関して、擬人化をふくめた大変雑な書き方をしておりますが、もちろんネタですので、そのあたりはスルーください。

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*1

deeplooks.com

マインドフルネスは、何ではないのか

昨日、Yahoo!さんにて、同社社員でありマインドフルネスの浸透やコミュニティづくりなどでも活躍されている中村さんから、マインドフルネスについて基本的なところをお話いただき、実践してみるという機会をいただけた。
とても興味深い内容だったので記憶しておきたい。その記憶のための手助けとして今日のブログを書いておく。

学びの概要、あるいは他の方はこの講座でどう思ったか、という記述は。素晴らしいことに、なんと同じときの参加者にブロガーさんがいらっしゃるので、そちらに譲りたい (*1,2)。

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私は、これについて書きたい。

「マインドフルネスは何ではないか」

正直なところ、マインドフルネスが何なのか?と問われると自分の肚落ちした言葉でほかの人に満足行く説明をするのが難しい。だが、この日知ったおかげで「何ではないのか」は記述できると思う。

1: マインドフルネスは宗教要素のある取り組みではない
2: マインドフルネスは瞑想できるようになること、ではない
3: マインドフルネスは雑念を捨て去った状態ではない
4: マインドフルネスは超人だけができる特技ではない
5: マインドフルネスは個人に完結するものではない

順に説明したい。

1: マインドフルネスは宗教要素のある取り組みではない

心を集中するその振る舞いが、僧侶の動きに似ていることもあって、ときにマインドフルネスとは仏教、宗教のことかと思いかねないが、違う。マインドフルネスに特定の宗教性は存在しない。確かに大元は仏教的なところから始まっているのかもしれないが、今日のマインドフルネスは宗教性のない科学的取り組みになっている。

2: マインドフルネスは瞑想できるようになること、ではない

視覚からの情報を遮断して、意識を集中させるワークも確かに入っているが、しかしそれは瞑想をできるようになろうという目的ではない。科学的根拠にもとづいて、「メタ認知」を高めるセッションをすることに主眼がある。瞑想しましょう、と言うことはない。

3: マインドフルネスは雑念を捨て去った状態ではない

「心を無にして集中せよ、雑念を捨てろ」といわれがちだが、そもそもマインドフルネスは自分の呼吸に集中することにはじまる。そしてポイントとしては、どんな修行したひとも雑念というか、呼吸以外へのことが意識に上ってくるのは避けようがないのだ。重要なのは、そうした意識が出てきたことを認識して、それを脇においておく、という「意識の逸れを扱う」ことを体得していくこと。

4: マインドフルネスは超人だけができる特技ではない

中村さん曰く、1日のなかでの細切れ時間などを使って、まずは累計50時間ほどのマインドフルネス・トレーニングを習得していけば、あきらかに違いが分かってくるのだという(取り組む前との)。それはつまり超人でなくても、誰でも習得はできる、ということ。

5: マインドフルネスは個人修行に完結するものではない

要するに、個々人が修行して瞑想してレベルアップしたらよいのだろう、と思ってしまいがち。しかし、実際にやってみて思った。中村さんのファシリテーションでも言及されていたが、やってみてどう思ったかといったことを言葉にしてすぐ他の人にシェアする、伝え合うことが重要だとのこと。それによって体験の意味が深掘りされて、本質の理解、記憶への定着などにつながりやすくなる。そして習慣化に役立つ。

ということで、いろんな常識、思い込みが外れる素晴らしい1日であった。
この体験と感覚を忘れてしまうことなく、日常にマインドフルネスを取り入れられる方法...。それをまた仲間と試行錯誤かなと思う。


*1

note.mu

*2

odajin.hatenablog.com

飲食店ノマド流浪

家だと全然仕事ができない。いや前から気づいていたんだけど。でももうやっぱ外出るしかないなと思って。うちの近所で飲食店というかカフェというかPC開いて大丈夫そうなところの候補をざっとググって出かけることにした。大雨だったから、徒歩圏しかいけないけど、それはそれでいいやと思って。

店の条件としては「禁煙(またはちゃんとした分煙)」「最低2時間はいられる」「500円以下」「電源がある」「Wi-Fiがある」この5つ、この優先度だと思っている。というか今整理してみたらそうなった。

昨日の1軒目は、ファーストキッチン。家の近くだけど行ったことなかった。
ホットココアのMサイズ頼もうとしたらSサイズしかないと言われてがっくりきた。ここはコーヒー6枚回数券があるらしいので、回数券買うのが良さそう。そうすると1杯200円以下で済むみたい。ちゃんと分煙されてて電源ある。Wi-Fiも”Wi2 Prremium”があって、無料で3時間までは使えるとのこと。感想としてはまあまあ良かった。でも飲み物が小さいのが残念。営業時間は7時30分〜22時らしい。終わるのちょっと早いけどしょうがないかな。

2軒目は安定のスタバ。
ホットコーヒーのトールサイズをワンカップサイズ上げてグランデにしてお湯で薄めるという知人に教えてもらった小技を使って、多少量を増やせる。345円。Wi-Fiが安定しているのはいいんだけど、電源がない(家の近所の店は)。ので、PCがフル充電状態じゃないと辛い。22時で閉店なので、時間的にはもうちょっとがんばってほしい。

3軒目はガストに来た。いまもいるんだけど。
素晴らしいことに今いる席は電源完備。Wi-Fiも店内用の無料Wi-Fiが飛んでいて、1日あたり60分×3回までは無料で使えるみたい。ドリンクバーは単体で頼むと税抜き399円だけど、何かとセットで頼むと214円になる。ので、199円のプチデザートみたいなのを頼んでセットにしたら、税込み500円以下で頼めた。いいね。あとここは営業時間が朝7時から、翌朝5時までという居酒屋も驚愕レベルの開店時間の長さ。それで店として大丈夫なのかは気になるが、こっちとしてはありがたい。今は深夜1時を回っているが、客はまばらにいる。これを書き終えたらドリンクバーのおかわりに行ってこようと思う。ついコーヒーを入れてしまうが、寝れなくなりそう。大丈夫かな…。さっきアイスカプチーノを作ったら(氷をカップに満載して、熱いカプチーノを入れる作り方のやつ)すごく苦かった。いま一個つらいことに気づいた。厨房のほうからいい匂いがする。これで食べ物頼んだら500円越えちゃうし、太るし、我慢しないと。んごー。

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ちなみに、最初のファーストキッチン来た時点で財布忘れたこと気づいたんだけど、Suicaと緊急用小銭でしのいでいる。緊急現金ないと、もしサイゼリアとか道中に組み込んだら詰む。こわい。
日本が現金社会じゃなくなるのはいつなんだろう。

ファッション雑誌について人生で初めて考えた

前回から続く?というわけでもないけど。
ドラマ校閲ガールの中心的舞台のひとつ、ファッション雑誌編集部をテーマにして、そもそもファッション雑誌ってなんだろうと考えてみたい。

まず、なぜこのデジタルメディアが旧来のメディアに取って代わる時代に、アナログの紙に依然影響力があるのか?という疑問があるのだけど、このドラマを見ている範囲で思うこととしてはその答えになりそうなものが3つ思いついた。
1つめは「リソース確保のしくみ」
2つめは「人材の採用と育成」
3つめは「紙であることの強み」

1つめは、たとえば新作のアイテムのようなファッショントレンドを作り出す/体現するのに必要なリソースにアクセスして確保することがゼロベースには大変で、それに比べると既存の体系を持っているファッション誌の編集部をデジタルメディアがリプレイスすることは見た目以上のハードルがあるのではないかということ。

2つめは、編集者やスタイリスト、カメラマン、あるいはモデルなどの専門性ある人材を確保して、育てることが継続的なトレンド発信には重要になってきて、それもまたデジタルメディアを作るだけでは決してすぐどうにかなるものではないからだと考える。たとえお金があっても、お金を適切な人に使って、その人がうまく動いて連携してトレンド発信のアウトプットまで持っていくのは大変そうだ。

3つめは、これは媒体特性として紙であることが強いのではないかということ。実際スマホタブレットはどんな大画面といってもせいぜい10インチ程度だし、何よりそれをユーザ側が所有していることが必要。それに対して紙の大型サイズの雑誌は、見開きでインチ換算でいったら20インチには達するだろうし、フルカラーにもできて、なにより雑誌そのものが表示媒体なのでユーザ側のデバイス制約がない。そして、書店やコンビニなどで、その大きさやロゴ、表紙モデルの眼力などなどユーザを誘引することができ、さらにコミュニティのなかでの回し読みなんて効果も期待できる。
たとえば小説や漫画であれば、省スペースで自分ひとりが読めればいいのだから、自分所持のデバイスで5インチくらいあれば充分かもしれない。対してファッション雑誌は、月に1回くらいの発売であり、熟読を要するというよりも、目に飛び込む第一印象やイメージ、感性を引きつける、そしてトレンドの移り変わりを読者に印象づけることがメディアとしての主目的である。あるいは今作の主人公河野悦子のように、保存して見返して、辞書的/アルバム的に使う人もいるだろう。このようにユースケースを考えると、このアナログの大きくてまるでアルバムか図鑑のようになった紙雑誌の合目的的なパワーはそうそうリプレイスされるものではなさそうだ。

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と、ここまで書いてこの推測が当たっているかどうか、答え合わせのつもりでざっと調べてみた。
2017年上半期のファッション雑誌の販売ランキングがちょうど2日前に発表されていた。 (*1)

女性ファッション雑誌『リンネル』(177,052部)は月刊女性ファッション雑誌の販売部数において、2位の『sweet』(175,844部)を僅差で抜き、初の1位となりました。
(中略)
『リンネル』は、2010年10月に創刊し、「心地よい暮らしと装い」をコンセプトに、“暮らし系女子”という新たな市場を創出・開拓。10代から70代と幅広い世代の読者を獲得しています。

おもしろい!2010年創刊というと、まだ8年しか経っていない。まさに情報のデジタル化がどんどん進んでいく只中に創刊されて、ついに1位をとるまでシェアを伸ばしたというのは。

ざっくり考えられる要素は2つ。1つめは、リンネルが圧倒的に支持を伸ばした。2つめは、ほかの雑誌が伸び悩みシェアをおとした。ちょっとここを深掘る時間はないので、要素を上げておくだけに留める。

リンネルの公式サイトを見て、特徴に感じることが2つあったので記載しておきたい。(*2)

1: 付録の存在
2: 公式通販サイト「クラリネ」の存在 (*3)

1つめ。付録としては、ムーミンのネイルセットが6月号にはついているそうだ。これは確かに、物理本だからこそできる魅力である。書籍のロジスティクスに載せることで、付録という価値あるアイテムをコストをかけずに届ける。これによって、購買に相当つながっていそう。
2つめ。公式通販サイトは、ざっと見たところでは必ずしも雑誌本体と強い連動があるわけではない(雑誌で紹介するアイテムを買える、というようなものではなさそう)。では何を狙っているのかというと、私はこのサイトを見た時に、すごく「ほぼ日」っぽいなあと思ったのだ。(*4) コラムがあって、企画商品の販売ページがある。コンテンツを読む体験から、購買につながる上質な体験をつくるこことに努めているように感じた。
このサイトがあることで、むしろ雑誌側とは切り分けて、実験などが行いやすいのでは?という仮説を立てた。サイトでうまくいった企画を雑誌に持ち込むとかもできそう。雑誌の場合はシーズナリティから逃れることはできず、情報もストックできないが、逆に旬を伝えるパワーは大きい。いっぽうサイトは情報がストックされ、蓄積コンテンツになる。
この雑誌とサイトの巧みな2つの接点を持つのが、2010年創刊という新規参入者だからこそできる強さなのかなーと想像した。

ということで考えると、これまでアナログ雑誌としてもてはやされたファッション誌も、ただ同じことを続けていては、新しい実験や挑戦ができず、市場のトレンド変化や経済的背景の変化を追いきれず、凋落する可能性は高いのかもしれない。

ファッション雑誌とは、ただ雑誌にとどまらずに「ライフスタイルを提案するメディア」というビジネス・テーマとして、考えるべきなのかなーと思った。

以上、ゆるゆると考えてみた。


*1 www.sankei.com

*2 tkj.jp

*3 kuraline.jp

*4 www.1101.com

じみすご校閲ガールの緩急にズッキューン、つまり石原さとみに惚れる

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「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」というテレビドラマがある。(1) 「校閲ガール」という小説が原作。(2) 主演、石原さとみ
物語としては出版社の校閲部に配属された、しかし本人はファッション大好きでファッション雑誌編集部への異動を強く願い出ているという主人公河野悦子とその周りの人物のドラマを描いている。2016年秋の日テレで放送。いまはHuluなどで視聴可能。2週間は無料で見られるので、一気に見て解約すればお金はかからないのではと思う。 (*3)

私はリアルタイムでは見ていなかった(その頃は逃げ恥に夢中だったのだ!)のだが、最近友人に「石原さとみがかわいすぎて辛い」とこぼしたところ「校閲ガールこそ至上、すぐ見よ」と言われて、それは見ないとなーと思ってチェックしてみた。その結果、確かに石原さとみ氏はかわいいのだが、それにとどまらずドラマとしてもとてもおもしろかったので(まだ見てる途中だけど)軽く記事にしてみようと思ったのだ。

私の解釈では、このドラマは「会社仕事と恋愛を二軸中心においたドラマチック・コメディ」である。
河野悦子は、校閲部員なので、本来は原稿のチェックだけしているはず。なのだが、それではドラマにならないので(笑)持ち前の探究心と自分で解決しない気が済まない主義を発揮して、あらゆるところに顔を出し、足を運び、問題を起こしたり、それを解決したりして、エンターテインメントを巻き起こしていく。

なぜこれが面白いのかというと、私の考えでは「あきらかな虚構と現実っぽい部分の割合配分、そして見せ方が巧みだから」である。

もし本当に校閲部員が外に出なかったら、現実感は100%かもしれないが、ドラマとしては全く面白くない。しかしでは名探偵か超能力者のごとくになんでもかんでも自力で手柄を上げる話だとしたら、まったく現実味がない。そもそもなぜ校閲部なんていう設定にしたかの必要性が誰にも感じられなくなってしまう。
したがってこのドラマでは「校閲部なんだけど、そこからほどよくはみ出る」演出にして、結果的に「リアリティ」あるドラマ感を紡ぎ出している。

このリアリティを支えているのが、俳優陣のデフォルメがよく効いた(しかし過剰と感じさせない)演技であり、とりわけ石原さとみの好演なのだ。何が良い演技と認識させるのか? それは無茶な設定を飲み込んで、そのままリアリティの側に引き寄せていってしまうほどの「演技のテンションの緩急」にある。

たとえばいやみな社員に激昂するときには信じられない早口で事実をマシンガンのように打ち込んでみたりしつつ、好きになった男の子の前ではかわいく見せようとしつつ挙動不審さが出てしまう間抜けな感じの演技を見事に使い分けている。これは実際我々が人付き合いを考えてみれば当然で、相手と状況によって話し方や使う言葉も全然変わってくるはずだ。それをドラマの中では緩急を特に中心にして、違和感なく世界観を構築していってしまう。

また演出の妙として、「ファッションの緩急」もこのドラマのリアリティ構築には欠かせない。地味な校閲部員の藤岩さんは普段は10年ものの古いスーツに身を包んでいるが、実はずっと大ファンだった四条先生の待ち会では、河野悦子の手助けを受けてメイクして派手なドレスを身にまとい、感情の高まりと解放を心から楽しむのだった。また、叩き上げで登りつめた伝説のスタイリストであるフロイライン登紀子は、最初は無駄を嫌う高飛車な人物に見える描かれ方をするが、河野悦子や編集部森尾の本気の努力を認めて、最後にはなぜかダサい漢字Tシャツを着て楽しんだ写真を校閲たちにメールしてくる。これもまた、トップスタイリストが仕事の中身は違えどプロだと認めた相手を信頼して、違う自分の側面を衣服を通して見せることで関係が構築されたことを伝える演出である。
トップスタイリストがダサいTシャツを着る姿を見せるのは現実ではないかもしれない。が、だからそこ物語の中でリアリティを感じさせて、見る者を思わずニヤッとさせてしまうのだ。

さて私自身はファッションに興味は薄いし、ただ石原さとみ氏が好きなだけで見始めたわけだが、文字を綴るのは好きで、校閲という仕事もなんとなく響きだけは知っていて少し関心は持っていた。それがこのドラマを通してなんとなく知識を得られて、とっても見て良かったなーと思っている(まだ途中だけど)。
そして面白いことに校閲もそうだけど、女性ファッション誌というビジネスにも興味が湧いてきた。
長くなったので、これは次の記事にしよう。

いや、しかしね、石原さとみは悶えるほどキュート。

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*1

www.ntv.co.jp

*2 校閲ガール (角川文庫) Kindle版

*3 地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子 が見放題! | Hulu(フールー) 【お試し無料】

宇宙スタートアップの未来には、夢を形にする熱意が集う

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「SPACETIDE 2018」という宇宙産業・宇宙ビジネスをテーマにしたカンファレンスに参加して、いくつかのセッションを聴講してきた。 (*1)
業界のリーダー、トップランナーと呼ぶにふさわしいメンバーが集まって、トークを繰り広げる、まさに宇宙事業の先端の集合地点というような場だった。

話を聞きながら、いろんなことを思ったのだけど、一言で自分なりの感想としてまとめると。

「宇宙産業は既存の事業づくり・事業拡大の手法や定石が通じないことも多い困難なフィールド。だからこそ、チャレンジスピリットに溢れた人たちが集まってくる。」

まず事業づくりという意味で考える。
この10年くらいで特にスタートアップ界隈から普及した「リーン・スタートアップ」という考え方ならび事業開発手法がある。私なりの解釈としては「小さく始めろ、顧客に試作物が刺さるか仮説検証しろ、そのサイクルを高速で積んでいきビジネスが顧客にフィットして伸びていくかにたどり着け」という手法だ。
この手法は、特にWebサービス開発においてはすさまじく相性が良かったと思われる。試作品(Minimum Viable Product = MVP,実用最小限の製品)を作るにしてもWebならばコストもかからない、すぐ作れる。そして仮説に基いて顧客に試してもらうということも行いやすい。B2Cはもちろんのこと、B2Bでもこのやり方で事業発展の突破口を開いたケースは多い。

しかし、宇宙産業と考えた時に、リーン・スタートアップの手法は俄然ハードルが上がってくる。
先に断っておくと、宇宙産業といっても「宇宙空間やそこにあるモノ、情報などを利活用して地上の既存事業にインパクトをもたらす」タイプ(たとえば衛星情報を使って農業効率化とか)と、「宇宙空間や他天体の開発等によって、事業分野それ自体を開拓していく」タイプ(たとえば月面を開発して資源採掘するとか)とでも、相当に本質が変わってくる。
とはいえいずれにしても、Webでソリューションを体現していくような事業とは違って、緻密かつ丈夫な宇宙用ハードウェアや、あるいはまだ存在しないデバイスやシステムを1から作っていくような「難易度が高く、費用が桁違いにかかる」挑戦していくことが欠かせない、ということも多い。
こうなってくると、リーン・スタートアップのような手法は、Webサービス開発のときにような進め方が難しい。というのは、何かをつくってまず実証しようというだけでもとんでもないお金がかかるので、出来たてのベンチャーや小企業にはかなり大変なのだ。

だったら資金調達してくればいいじゃないですか、というのも半分はそうだと思うけど、もう半分はそうそううまくいかないというのもなんとなく分かってきた。というのは、多くのベンチャー・キャピタルは、それぞのファンドに償還期間があって、だいたい10年くらいが多い。そうなると、投資したベンチャーがその期間内に結果(IPOや買収など)を出してくれない資金が回収できず、そうなるくらいなら投資しないよ、という力学が働いても全然おかしくないのだ。

ispaceという月面探索ローバーを開発するなどで有名なベンチャーが昨年101億円の調達をして話題になった。(*2) これは世界を見回しても珍しい、シリーズAでの巨額の資金調達であったそうだ(SPACETIDEの登壇者のどなたが言ってた)。このニュースを読んでみると、資金の出し手がいわゆるVCより一般的な大企業といわれる企業が多いことに気づく。
事業会社であれば、ファンドの償還期間の縛りがないし、またほかの事業で会社に利益が出ているなら、投資事業でしっかりリスクを取ろうという大きな決定ができるのではないかと思った。

宇宙に飛び出て世界の誰もがやっていない事業をやるというのは、基本的にどこまでいってもリスクが大きい。というか、リスクを算出するに充分なほどの過去の実績を世界の誰も持っていないということになる。
仮になんらかの事業(宇宙以外)で成果を出している人がいるとしても、その人の経験が必ずしも宇宙ビジネスでもマッチして結果につながるかどうかは正直わからないのだ。

どう転ぶか分からない。産業の未来の方向性の予測は立てることができるし、みな必死でやっているけど、予知はできない。その現状状態を、無秩序で前例がないからイヤだと思うか、カオスへの挑戦だが自分が道を作るチャレンジの場ととれるかどうかで、宇宙ビジネスに取り組む人、組織が成果を出せるかの確率もまるで変わってくるはずだ。
別の見方をすると、テクノロジーに徹底的に依拠し、それでようやく初めて可能になりうるという困難な挑戦だからこそ。逆説的だが、人ひとりひとりのマインドセット、そして人の集合体たるチームや組織のマネジメントによって、結果がまるで変わってくるとも言えそうだ。
SpaceXやBlue Originに限らず、あらゆる宇宙スタートアップは、テクノロジーという変数はどのみち突き詰めざるを得ない(ことが多いと思う)。その中で「人・組織」という変数をどう扱っていくか、結果が出るようにチューニングしていくかが問われるということ。

とにもかくにも、宇宙ビジネスに関して本気をかけて本気で熱い人々が集まるんだな〜というのが分かってきて。お金や肩書だけなら、もっとそれを得るに近道な業界、業種はあるはずだけど、まさに「夢」があって、そこを追うことに誇りを持っている人たちがどんどん集まっている。
本心で、本当に納得してわくわくできる仕事をすることが、こと宇宙ベンチャーにおいては、職責や立場に関係なく、すさまじく大事なことに思った。それをできる組織は強い、というかそうであってはじめてハードな道の先にたどり着ける。運も、味方にして。

特にオチはないけど。そこに何か少しでも関わっていくことはできたらと思う。

そういえば先日NHK BS1で放送されていたispaceの月面探索レースへの挑戦を追ったドキュメント番組も、面白かった。ローバーを徹底して改良していくプロセスが丹念に特集されていて、その技術水準の高さと実装力、そこにこめる情熱がひしひしと伝わる番組だった。5/13(日)10時に再放送するようなので未見の方はぜひ。(*3)


*1 www.spacetide.jp

*2 japanese.engadget.com

*3 www.nhk.or.jp