きゅうりスティックからの伝言

野菜の価格が高騰している。
きゅうり100円、キャベツ400円、レタスはなんと500円以上ということもある。

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なぜ価格が高騰するか?調べてみた。

参考にしたWeb記事(やさびあ)によると、理由は主に2つあるようだ。
1つは供給不足。もう1つは作るための原価の上昇。

供給不足の面では、日本各地での供給力が想定よりも落ちているからのようだ。 なぜ日本各地で供給力が落ちているか、というと夏から秋にかけての天候面の理由、特に地域によるが日照不足が、生育面にマイナスに影響したためとある。また、収穫サイクルが伸びてしまうことでの、生産量の期間での総量も落ちるようだ。
原価上昇の面でいうと、日照不足による温度の低さを補うための暖房費がかかる、ということのようだ。

毎日食べる野菜の高騰は、家計への負荷が大きいし、消費量を減らさざるを得ない。野菜摂取量は健康の鍵だ。これは結構、国レベルで深刻ではないだろうか。 大好きな、きゅうりスティックをもりもりと食べられない世界は悲しい。 国にはなんらかの野菜価格が下がるような解決策を求めたいものだ。

参考: 【野菜の高騰が止まらない】2016年・野菜が高い原因と代わりになる野菜って?


という文章を10分くらいで書いたのだが、今日ほんとに書きたいのは野菜の話ではない。 上の文章には、「情報発信の危うさ」があるということ。

中身を振り返ってみよう。
冒頭がひどい。

きゅうり100円、キャベツ400円、レタスはなんと500円以上ということもある。

これ、単位がどこにも書いてない。1個なの?って思うけど、そうなのかは分からない。 派生するところでいうと、価格のフェーズ情報もない。卸売価格か、小売価格か、だけでも全然価格感は違うはず。

で、ここまでを読むと適当っぽいことに気づきそうなものだが、恐ろしいのは、次から「調べてみた」と宣言し、情報ソース元も貼ることで、根拠付けはそれなりなプロセスをとっていること。

しかも、ちゃんと価格上昇の要因を分解し、「〜のようだ」と表現することで、自分はソースにもとづいて適切な意見を組み立てています感が出ている。

最後になると家計の話を書いて、さらっと共感を得るような雰囲気を出している。 が、次になぜか、なんのソースもなく「野菜摂取量は健康の鍵だ。」と断言。
そして、仮に野菜高騰が事実だとしても、それは市場経済の需給で決まる価格なのに、いきなり国の政策に解決を求めている破綻した主張で終わっている。


先日、DeNAが運営する健康情報のキュレーションWebメディアのWelqが閉鎖された。「引用を示さないソースの盗用」「切り貼りによるコンテンツ作成」「不正確な健康情報の発信」といった流れが、問題となった。 (*1)
これは組織的にやっていれば、言い逃れもできない「歪みを自覚した行為」だと思う。

だが、もし個人レベルで、悪意なく「不正確でバイアスがかかった情報発信を行っている」人がいるとすると。
それに気づいて、ストップをかける人はいるのだろうか? 阻止するインセンティブが何もないなら、それは放置されるのではないか、と私は考えている。 冒頭に試しに書いたような、少しのプロセスの妥当性と情報の正確性を含みつつも、全体としては論理的にも科学的にも壊れた主張が、発信されるものの中には割と多い気がする。

なぜ悪意なく、変な主張を書けるのか。

そもそも、人の信念や考え方というのは、だいたいが思い込みに始まり、それが相当の割合を占めるものではないだろうか。
行動経済学者のダニエル・カーネマンは、人には「ヒューリスティック」という判断基準があると提唱している。直感的に、なぜ手っ取り早く判断が下せるかというと「感情」や「周りがそう言ってるから」というヒューリスティックな基準があるからだ。 (*2)

たとえば感情を起点に主張の方向性が決定されると、あとはそれを補強するような材料を探し、論理的・科学的な匂いを少し纏わせることを行うのだが、全体の破綻については、そもそも目に入らないことになる。

ヒューリスティック自体は悪ではないし、それを否定することは難しい。それを使って祖先から生き延びてきたわけで、私たちに深く埋め込まれている。
でも、自分自身の判断が、ヒューリスティックに囚われている可能性があることを自覚することは、自分や、大切な誰かにとって本当に良い結果に繋がる選択をするために、大いに役立つ。
...と、私は信じているが、この信念自体がヒューリスティック依拠だったら、説得力は乏しいことになる(笑)。

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「野菜高騰!」とどこかで目にして、義憤にかられて「野菜価格下げるべし!」という主張を、例えばすることは、ヒューリスティックの見方からするととても自然だ。
でも、その主張は、果たして自分も皆も本当に幸せにする主張か?を考えて、発信の前に一度踏みとどまること、それこそ発信者としては「カッコイイ」姿だと思うのだ。

以上、「きゅうりスティック」と「ヒューリスティック」が似てる。
そう気づいて勢いで書いた。
反省はしていない。

(*1) jp.techcrunch.com

(*2) www.teamspirit.co.jp