恋愛はイシューからはじめよ

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最近ある人が語ってくれたことば。

1番理屈じゃいかないのが人間関係で、生まれた時からある家族関係以外に、自分個人の意思で他人と深く繋がろうとするのが恋愛

頷いた。

理屈じゃいかないのが人間関係

あらゆることを科学の目線で切り出すのが好きなのだけど、科学的に考えて、人間関係に理屈は通らない。
コミュニケーションの方法や、好かれるための行動は科学できると思うんだけど、科学と、理屈というのは実は別だと思っている。

理屈は、自分の出来上がった思考のフレームワークに対する後付の説明、というのが近い。人の好悪を、理屈で説明つけようとすると矛盾だらけになってしまう。素直に好き嫌いの感覚に従うのは、淘汰の中で獲得したメカニズムを使う意味では科学的といえるかもしれない。

生まれた時からある家族関係

この言葉は端的に、私たちの「選べないもの」をえぐり出してる。親は、選べないんだ。親のみならず、きょうだいや祖父母も含めて。
どんなに機会の平等をつくるために、政治やアントレプレナーたちが努力しても、「選べない出生時点の家族の違い」は永久になくならないだろう。
むしろ、そこをなくそうとすると、とかく人間の無差別を求めるということになり、どこか社会主義ディストピアの香りが濃厚になってくる。

話を戻すと、子は親を選べない以上、親は子に期待を押し付けないことがフェアネスなのかなと思う。
ケーキを2人で2等分するときに、ナイフを持って切る人と、選ぶ人を分ければフェアになる、というエピソードがあるけれど、それと通じる何かがある。親はナイフを持ってケーキを切り分けることができる立場にあるけれど、選ぶ権利はすっぱりと、子どもに手渡すといいんじゃないですかね、と。
別に、年間300万円かかるトップクラスの学校に入れることが親の務めではないはずなんだよな。

話が逸れてしまったが、動かせない関係だからこそ、選ぶことへの本質的な配慮があってよくて、それがつまり愛なんじゃないのかとも思う。

自分個人の意思で他人と深く繋がろうとするのが恋愛

恋愛は基本的に意思が実現する可能性の例といえる。
相手が自分の思いを受け入れてくれるかどうかはともかくとして、好きになって行動したら、その意思の先に何かが作られるものだ。と、言われる。

深く繋がるというのを考え出すと、そもそも私たちはどうして繋がりたいのかという話になる。たぶんだけど、進化の中で仕組みとして、理解されることを幸せに思う何かが組み込まれたんだろう。
私たちは、べらべらしゃべってばかりの人よりも、うんうんと頷いて聞いてくれる人のほうが好き。これはつまり、基本原則としては、理解しようとするのはエネルギーがかかるしすぐリターンが見込まれるものではない。一方でしゃべって理解されると感ずることは、たぶん脳の報酬系にヒットする。

それでも尚、理解したいと願うのは、ひとつこれは恋と呼べるのかもしれない。
何を届ければ、気持ちが伝わって、振り向いてくれるのかを考えると、心臓の鼓動が早まってくる。
その気持ちに、素直であることが、踏み出す一歩なのかもしれないが、そこへの勇気が出ない人もいる。ザ・私。

どうしたら、恋を行動に落とし込めるのかと思い悩むのは、実はイシューの立て方がスジワルだったりして!? (*1)
因果が逆で、行動を重ねることが恋を感じるのに必要なのかも?
そのへん、良いイシューを立てて実行してみたい。

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*1

ほぼ日刊イトイ新聞 - 『イシューからはじめよ』のまわりで考える。