映像作品の評価、他者を理解していくこと

いま、2日前くらいにテレ朝で放送してた新海誠の”秒速5センチメートル”の録画を観た。
はじめて観たときと、面白いくらい、自分の中の印象が違った。 (*1)

初めて観たといってもそんな昔ではなく今年1月の三が日。ぶっ続けで、一連の新海作品として観た。このときは正直、映像が綺麗だなくらいしか思ってなかった。
だけど、自分の体験して学んだことを反芻しつつ、ストーリーや構成がわかった状態で、今日2回目として見ると、「この作品では、"伝えられない好き"のもどかしさの機微が描きたかったのかな」と肚落ちした。
映像作家のメッセージがすべて分かった、ということではない。ただ自分なりに納得いく解釈を見つけ出せたということだ。

この作品は、amazonやネットのレビューで、低評価の人と高評価の人がくっきりと分かれている。 (*2)

最初、作品がハイコンテキストでコンテキストが受け入れられるかどうかで評価が分かれている。という解釈をすべきなのかと思ったが、そう単純でもないと思い直した。

これは、視聴者の演出に対する理解がどこまでできているかに着目すべきなのかと思う。
どういうことかというと、具体的には、演出に対する理解がなくても絶賛して★5つつける人もいれば、よく裏まで理解して納得しても★2とか★3とかをつける人もいるんだろうということ。

何がいいたいか。
★や点数なんか見ても、なんにも意味ある情報は得られない。どころか変な先入観を得て、すてきな出会いになりうる作品を遠ざける効果すらあるのではないかと思ってしまった。

設問の設計が曖昧な点数システムに基いて数値化されたデータは、ひとりひとりに、さらに時によっても大きく変動する私達の心に新しい感覚をもたらせるかどうかの指標にはならない。
かといって、レビュー文章を読めば万事解決かというとそれもまた、文脈の共通理解がなされていない限りは鶏卵みたいなもので役に立たない。

結局一番有効なのは、自分が何かほかの理由で信頼している人がススメてくれるかどうかという属人的な情報、もっというとそれも双方向的な「情報交換」なんじゃないかと思う。
まだちょっとここらを説明しきる論理が持ててないんだけど。

f:id:startselect:20170318230123j:plain

さて。

他者を理解するというのもこの作品を理解する際のフレームに通じるものはあるのかもしれない。

「引き出して、傾聴しよう」という姿勢が自分を変えて、相手の持つものを引き出して、時間をかけてまさに関係を”構築”していく。

最初はよくわからないなこの人、と思っていたくらいのほうが、その後で変わる余地が大きくて、おもしろかったりするのかも もしれない。

見えるものだけを評価したがってしまうと、そのよくわからない状態に身を置くところに、踏み込めない。

見えないものに何かを見出そうという行為は、自分の安心場所(コンフォート・ゾーン)からの踏み出しだとも言える。
その踏み出しをするかしないかの、差分の蓄積が、その人が生涯にわたって他者に生み出す価値と、他者から受け取るもののの大きさ、つまり幸せの積分の総量に出てくるのではないか。
検証、してみたい。


*1

give.hatenadiary.com

*2 秒速5センチメートル 通常版 [DVD] Amazon.co.jp