型をもつこと、型にとらわれないこと

型があると、何か新しいことを習得するとしても飲み込みが早くなるなと思う。

単純なたとえだが、数学というかロジックというか、「行と列のマトリクスの仕組みと有効な場面」を「型」で理解していればエクセルなどの表計算ソフトの使い方を学び、効果的に使うことができるのが想像できる。
逆にいうと、その型なしでエクセルをどう習得するのかが私にはもう想像がつかない。

しかし一方で型の存在が、革新的な考え方やアプローチへの素直な感動と、吸収したいという気持ち、行動を妨げてしまうケースもあるんだと思う。

たとえば水泳において、「伏し浮き」というテクニック(というか原理)がある。
これは、人間は自然な姿勢を取れれば必ず浮く、という原理をただ実行するだけのことである。
が、下手に水泳教室や我流で、「バタバタ手足を動かすから沈まずに居られる」という認識の型を身に着けてしまっている人は、この伏し浮きの習得が困難になりやすい、と私が伏し浮きを知ったWebサイト (*1) に書いてあった気がするのだが、実際そうだと思う。

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型というか自分の信じる常識が、真実への対面から目をそらす理由を自分の中に作ってしまうのだ。

かように考えてみると、新規に学びを得んとするときに、それの助けになる型と、邪魔になる型がありそうだ。
その差分はどこにあるのか?

私の意見では科学的に反証、検証のプロセスを充分に受けた科学的真理にもとづく型は、基本的に助けになる。
一方で、思い込み始まりで確かめられていない型、科学的審議のプロセスに充分さらされていない知見ベースの型は、新規なことの学びにおいてむしろ害になっていそうだ。

たとえば、今日の例示絡みでいうと、エクセルの件ではX,Yの二軸の情報パラメータを用意したら、それらがそれぞれどう関わるかをマトリクスに表現できる、というのは明らかに充分反証可能性を踏まえて真理になっているので、信じてよいと思う。

一方で、「手足をばたつかせて浮力を得る」という思い込みは科学的に反証されていないので、あまり信じない方が良い型でありそうだ。

ではどうすればそもそもその型が信じられるかどうかを判定すればいいのか?
自分で試行錯誤と検証を繰り返して、場馴れと、先を見据えた学びを持っておくとよいかもしれない。


(*1)

大和部屋(やまとべや)