ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

婚活でなく、カチカツを

婚活はしてないつもりだけど、新しい動きを始めたので、今回の記事はその整理編。最近何があったとか、どう思ってるかとか。

目次

"婚活"を続けるのがキツかった2年前

2年前、なんとなく婚活しようと思ったぼくは、ネットで募集している婚活パーティに行ってみた。最初に参加したパーティで、ひとりの女性とカップリングが成立した。

その顛末は当時のブログに書いているので、興味ある方は読んでいただきたい(本記事の下のほうにリンクを整理しておく)。

カップリングが成立した女性(Bさん)とどうなったのか、ブログでは書かないまま2年経ってしまったので簡単に整理しておく。
Bさんとは、食事に3回くらい行ったのだが、何もなかった。ぼくが送ったLINEのメッセージに相手の返事がなく、そのまま時間が過ぎた。

あのときのぼくは、Bさんともっと関係を深めたいという気持ちがあまり起こらなかった。どうしてだろう。趣味も一致していた気がしたのだけど。

今思うと、それは"婚活"ということばに定義される一連のプロセスに自分が適当に乗っているだけだということに気づいて、怖さと、「これでいいんだっけ」という思いが大きくなってきたということがあるかもしれない。
いや別に世の中の婚活を否定するつもりはないのである。ただ単に自分が、それを続けていくことができなかった。

そして仕事やらなにやら、バタバタした日々の中で、すべては埋もれていった。

それから2年あまり、本当に何もしなかった。

春に紹介してもらった人との話

今年になってちょっとした変化と出来事があった。
たまたま仕事を通じて知り合った方(既婚男性)が、ぼくが未婚ということを知って、友人の女性(独身の方)を紹介してくださったのだ。 その方と3回くらい会ったのだが、結果的には、友達というところに行き着いた(と、ぼくは理解している)。
合う合わないということはさておいても、遠方に住んでいる方だったこともあり、時間とお金と、いろいろなハードルがあったように思う。それを越えてまでもっと先に進まねばという感覚には至れなかった。

ただし、この経験を通じて、2つ発見というか得たものがあった。
1つめは、自分は意外と行動できるんだな、という自分の再評価である。
2つめは、物理的に遠いのはなんだかんだ辛いな、という構造への気付きである。

紹介してくださった方にも、その女性の方にも感謝している。

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今年の、この経験を通じて、自分の中では変化が起きた。
誰かを大切にする、お互いに大切にしあう、そういう関係を築いてみたいなという自分がいたことに気づいたのだ。

上の出来事は春、3〜5月頃だった。
ちょうど今年の5月に、ぼくは年齢を重ねて34歳になった。
友人のひとりに「来年はもうアラフォーだね」と冗談でコメントされた。

その瞬間に気づいてしまった。

年齢で人生を決める必要がない世界であるとは思うが、実際に自分の人生の経過年数として、事実を歪めることもまた、できない。 そして、相手が必要なことにおいて、相手からは事実で判断されることも否めない。

何かアクションを起こすなら、そこまでたくさん時間の猶予があるわけでもない。
そう、思ったのだ。

行動する前に考えてみた

といっても。
2年前と同じ行動を取ったのであれば、同じ帰結になることは目に見えている。
何かを、変える必要がある。たとえば、アプローチ、とか。

だが、アプローチ、という言葉を狭義に「出会う方法」と解釈する場合に、そこで選びうる手段については、実は2年前に整理したこととなんら違いはないと思っている。

(1)結婚相談所
(2)Web出会いサービス
(3)婚活・街コンなど対面出会い
(4)知人の紹介

と、そのときに4つ挙げている。

今時点でも、その整理は有効だ。
(1)は資格なし、(2)は疲弊ハンパない、という点で、ぼくの選択肢に入らない。
(4)は今回の春の出来事がそれに当てはまると思う。周りにお願いしていくことは大事だが、自分から能動的に何かやっていくのも難しい。
よって、目下のところで採択できる手段は(3)のみになる。

だが、ここで(3)を選んで、のこのことでかけても、きっと2年前と起きることは変わらない。
いや、そのときによりも年齢も2歳上になっている自分の事実を考えると、「マッチングゲーム」とだけ見ると、難易度は上がっている。

それに気づいた時に、変えるべきポイントは、実はアプローチではなく、マインドセットなのではないか?という思考に至ったのだ。

マインドセットに関して、突き詰めると、疑問は1つである。

「婚活って、『結婚が目的の活動』ってことだけど...。それ、あり方としておかしくない?」

確かに、日本国には戸籍と家の法制度があり、結婚は制度として用意されている。
だが、制度が規定するものを、人生のなかの目的にして、果たしてうまくいくのか?

多分それは上手くいかないだろう。
もちろん、「上手くいく」の定義を決める必要はあるのだが。
仮に「主体として、人生を生き、幸せ(Well-beingのほう)を創っていけることを支援しあう関係を構築ならび継続する」ことが上手くいく、と定めるなら。
「婚活」のマインドセットで、上手くいくわけがないと思う。

ここを直視して、「であるならどうするか?」という問いを立てていけるようになったことは、2年前と比べて自分の成長だとは思う。

婚活から「カチカツ」へ

婚活という言葉で、自分の行動を定義するのは、やめたほうがいい。
とはいっても、概念に名前があるほうが思考しやすい。

映画『シン・ゴジラ』に出てくる大河内清次(内閣総理大臣)は、巨大生物にゴジラという名前が付与されたとき、こう言った。

「名前は、付いていることが大切だ」

ぼくは、今取り組んでいることを、こう名付ける。

「大切にする関係を構築する活動」。

カンケイコウチクカツドウ、略して「カチカツ」と。

言葉遊びが好きなので。

カチには、「価値」という意味あいも含めている。
自分と相手にとっての価値を整理して、共有することを大切にしたい、ということ。

そしてまた、カチには「勝ち」という意味合いも含みたいと思っている。

ここで、「勝ち負け」を持ち出すと、誤解が生じそうなので、違うよ、ということを先に説明しておきたい。
「勝ち組」「負け組」というような、人に対する失礼極まりない分類としての勝ち負けではない。
そんなものにまったく興味がない。

もっと局所的で、ぼくが好む話である。
これはゲームで使われる用途における「勝ち」なのだ。

よく考えて、作戦を立てる。次に、作戦における勝ちを定義する。
そして、作戦を実行にしたときに、定義した勝ちをどこまで達成できたか、あるいはそれが上手くいかなかったか、を評価する。その先に、学習を起こす。
このプロセスは一連のゲームとして捉えることができる。

実験的学びとカチカツの連動という仮説

ひとつひとつの活動の中で、もっとも重視すべきことは何か。
「学び」である。

仮説に基づいて作戦を立てて、実験・実行して、振り返ってみてこそ、学びは得られる。
そして、成長する。

ということで、このブログを書く意味もそこに紐付く。
目的は、学びだ。

学びにフォーカスすれば、過度な期待も、それに伴う絶望や疲労困憊も避けることができるだろう。
そして、学びを重ねることと、カチカツで納得いく着地をすることは、強くリンクしている。こう、考えているのだ。

ということで、ひとつの学習仮説を立てて、とある婚活パーティに行ってきたのだが、長くなったのでそれは次回に書きたい。

ここで、「学び」フォーカスに至ることに大きく役立った書籍を2冊紹介したい。

1冊目は、『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』。
野中郁次郎氏他が著者の「失敗の本質」は何冊かあるが、直近ぼくが読んで影響を受けたのはコレ。
日本軍の「学習できない組織」ぶりをことごとく明らかにして、それがなぜだったのかに組織構造上の問題として迫ったエピソードをいくつかまとめている。
感想としては、「思い込みによる現実否認」と「構造に規定される慣習と惰性の強さ」を思い知ったというところ。

2冊目は、『Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』。アーリック・ボーザー氏による「学びを個人/組織/社会のレベルで狙って引き起こすためには何が重要になるか」という観点での書籍。ポピュラーサイエンスに分類するのがいいのかもしれないが、知識だけにとどまらない「学び」をまさにこの本自身が体現している。
極めて科学的でありながら、同時に個人のエピソードに紐付いて読んでいてワクワクさせる筆致に満ちていて、ページをめくることが楽しくて仕方なかった。
これを読んだおかげで、カチカツの実現には学びの達成が不可分だろうと思えた。そして今学びを起こそうとしている。

過去の記事まとめ、次回

最後に、2年前の婚活について述べたブログ4本のリンクを貼っておく。 (1)〜(4)の出逢いの手段にまとめについては、最初の記事「婚活初心者、詰む。」に記載がある。

give.hatenadiary.com

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次回は、どういう作戦を立てて、婚活パーティを選び、実験してきたのかを書きたい。