コミュニケーションが止まらない

五感を通して、私たちは、他者とコミュニケーションしている。 味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚。

直接会って、ボディランゲージを交えながら会話をするとき、視覚、聴覚が主に使われる。 互いの物理的な距離が近づくケースでは、そこに触覚や嗅覚が入ることもある。 もっと近寄れば、あるいは味覚も使うケースもあるだろうか。

これは、10,000年ほど昔でも、我々の祖先がやっていたことで、いまも同じことをしている。 コミュニケーション方法は、物理的な距離を近づけ、時間を同期させるほど、原初的になる。

一方で人類が文明を築き、技術を社会に普及させることで、他の生物では持ち得ないような、"奇妙な" コミュニケーションが生まれてきた。 この奇妙なコミュニケーションの発展は4つの段階がある。 歴史を辿ってそれを見てみよう。

たとえば「お互いに好きと伝えあう」ためのコミュニケーションで考えてみる。

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相手を好きだ、と伝えあうための、直接の身体的なコミュニケーションとしては、たとえば抱擁がある。 私があなたを抱いて、あなたもそれを受け入れたなら、きっとそれはお互いに好きなのだろう。

さて、コミュニケーション手法の発展の歴史を紐解くとどうだろうか。

1つめの発展段階は音声化。 発話する言語を発明し、相互に共有することで、それで意思疎通ができるようになった。 私が「あなたが好き」と発話し、それを聞いたあなたも「私もあなたが好き」と発話して、それを私が聞けば、相互に好きということが確認される。

2つめは視覚化。 具体的には、文字の誕生、普及による読み書き能力の習得。 たとえば、私が「あなたが好き」と書いた紙を見せて、あなたが「私もあなたが好き」と書いた紙を私に見せられれば、双方向に好きということが理解される。

3つめは非同期化。 「あなたが好き」と書いた紙をあなたの不在中に、あなたの住む場所に届ける。時間をあけて、帰ってきたあなたがそれを読み「私もあなたが好き」と書いた紙を置いて、また家を出る。その紙をまた時間をあけて、私が読むことでも、双方向の好きが確認される。 手紙という文化と制度の普及は、非同期のコミュニケーションを誰でも低コストで使えるようにした。

4つめは遠隔化。 電話機を出して、あなたに電話をかける。あなたがそれに出てその状態で「あなたが好き」と私が言って、「私もあなたが好き」とあなたが言葉を返して、私が聞けたなら、たとえ地球上とスペースシャトルの間ほどの物理的な距離があっても、好きなことを伝え合える。

この発展の段階が進めば進むほど、それは、人間が生来持ち合わせているコミュニケーションの仕組みから遠ざかった。 もっとも今日的なコミュニケーションツール、たとえばFacebookメッセンジャーやLINE、それらを使えば、どんなに距離が離れていても、文字(または写真やスタンプ、録音した肉声など)で、同期・非同期を問わずにコミュニケーションができる。 そして、お互いに好きであることもまた、伝え合える。 10,000年前と遺伝的には同じ人間が、10,000年前とまるで違うコミュニケーションの仕組みを使っている。

しかし、私たちの多くは、なぜそんな奇妙なコミュニケーションに「破綻」を感じることがないのだろうか。 もちろん、各ツールに不満や不全を感じることはあるけれども、それらの文明の利器を使うコミュニケーションの総体が、破綻しているとは感じない。

なぜか。 私たちのコミュニケーションの質を感じる内的な尺度は、変化に対する適応が極めて早いのかもしれない。 あるいは、「あるべき」コミュニケーションの力が現代では育っていないから、そもそも不全に気づいていない若年層が多いのだ、と主張する人もいるかもしれない。

私自身のそれに対する意見はシンプルだ。

「互いに対する理解と想像力が、コミュニケーションの意味と質を決めている」

テキストメッセージに含まれる絵文字、顔文字1つでも、理解と想像力が伴えば、伝わり合うものは、それこそ言葉には収まらないレベルで、通じあうことができる。 直接の身体性、五感をフルに使うコミュニケーションにも劣らない、どころか時に直接の方法では不可能な感覚で、理解と想像力を満たすこともある。 心の充足を生む繋がりが、短いテキストメッセージの中だけにも存在しうる。

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しかし、それを言い出すと、鶏と卵、なのかもしれないと気づいた。 理解と想像力を作り育てる、そのためのコミュニケーションは、どんな方法で行うのだろうか?

ここを考え始めると、とても1,000文字程度では済まなそうだ。 それはまた、別の機会に。

hatena