ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

赤ちゃんがキュートすぎる件について

先日、大学のサークルの同期メンバーとの、久々の同期会が開かれた。時間帯は土曜日の昼間、場所は都内の居酒屋にて。

参加者は、男性が私を入れて4人。女性が3人。
そして、赤ちゃんが3人。

赤ちゃんは皆、0-1才児。参加した女性陣の子どもたちであった。

久々に会う女性陣が、皆母親になっていたことに時間の流れを感じた。
そして、赤ちゃんは皆それぞれに年齢が数ヶ月違うのだが、発達段階も個性もバラバラで、しかしそれぞれにとても愛らしかった。

休日の居酒屋は、私たちと入れ違いに先客たちがいなくなったあとには誰も客が来なかった。タバコの煙もなく、授乳中の母親たちや赤ちゃんにとって、とても居心地が良い場所だった。

話が逸れるが、乳幼児を連れて居酒屋に来る、お酒を飲むことに対して、世の中で批判的な意見を持っている人がいる。そういう意見が出るのは、なんとなく分かる。
授乳中の母親がアルコールを飲むことはないにしても、人混みであるとか、タバコの煙であるとかが母親や子どもに良くない、という観点から。あるいは、泣く赤ちゃんが周囲に迷惑だ、という観点から。それらを理由に、赤ちゃんを連れてくる親を見ると腹立たしい、という人もいるかもしれない。

しかし私は言いたい。ほとんどすべての親は、居酒屋に赤ちゃんを連れてくるのが困難なことであるのをよく分かっているはずだ。それは今回、母親になった友人たちと再会して、理解した。
赤ちゃんの面倒を見ていないといけない。それでも、かつての友人と会ってゆっくり食事したいし、授乳中でなければ、酒も飲みたい。その希望を持つことを、誰が否定できるのだろう。

今回、大学時代の友人の話を聞いて思ったことは。
育児という人生で初めてのミッションに直面し、時にストレスフルな状態もある中で、友人と会って気兼ねなく過ごす時間というのは、とても楽しみなことなのだ。

私たちが本当に、社会で子どもが幸せに育つことを願うならば、その親がいかに「赤ちゃんがいることで自分の楽しみを犠牲にしている」と感じないで、子育てできることのサポートが必要なのでは、と思う。
そのひとつの方法として、平和なお昼の居酒屋で、のんびりと過ごすイベントへの参加があるのなら、私はいくらでも出席して、親たちの話を聞きたい。

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話を戻そう。
赤ちゃんについて。

1歳の子は、元気に店内を歩き回っていた。0歳の子は、ひとりはずっと眠っていたが、もうひとりの子は泣いたり起きたりの繰り返しだった。赤ちゃんは泣くことと笑うことで、不快と快の感情を母親や周囲の人間に伝え、自分にとっての快適性確保や食事を要求する。
それを見ながら、人の赤ちゃんはすごい生き物だなと、ふと思ったのである。

何しろ、自分では、自己の生存確保のための行動、それ自体はまったく何も出来ない。唯一、声や表情で、周囲の人間への世話を要求し、それを受け取ること。それだけができる。

どうして、こんな不思議な種に人間は進化したのだろう?
他の哺乳類の生まれたての状態と比べても、あまりにも、母親を中心にした周囲の人間への依存度が高い。しかも、その期間が1年以上続く。 生き延びるため、すなわち周りから愛されて、助けてもらうことの実現のために、生来的に笑顔が備わっている、と考えられている。(*1)

なるほど、それは納得できる。確かに、赤ちゃんの笑顔はかわいい。助けなくてはいけないなと、実の親ではない、私のような血縁関係のない人でもそう思わせる。

私の問いは、「笑顔を作って周囲に助けてもらわないといけない、ということ自体に、何か別の利点があるのではないだろうか?」と言うものだ。
要するに、赤ちゃんが泣いて笑って、助けてもらうことは、赤ちゃん自身の生存という利益を越えたものがあるのではないか、と思っているのである。

それは何か? 長くなってきたので、仮説は、次回に書きたい。


(*1) kosotatu.jp