感動が生まれれば、世界も重い腰を挙げる。

恥ずかしながら、けっこう歩きスマホをしてしまうことがある。 良くないというのは分かっているのだが、ついやってしまう。 いい年こいてだらしないですね、と言われたら返す言葉もない。

今日、スマホの電池が切れそうだったこともあって、スマホはポケットにしまったまま、街を歩いていた。 そのとき、ふと空があまりに青く澄み渡っていることに気がついた。そして、目線の先には、巨大で、不思議な外壁に囲まれたビルディングを見つけた。 そこで空とビルを眺めていたら、なんとおもしろくて、気持ちのよい風景なんだろうと感じた。

立ち止まり、中空を見つめ、あたりを見渡した。そして、電池が残り少なくなったスマホを取り出して、一度だけシャッターを切った。それが、この写真だ。

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この風景が目に飛び込んできた時に、歩きスマホをしていると、どれだけ美しい世界や興味深い出来事が目の前に広がっていても気が付かないのだと悟った。 せっかく外を出歩く時に、わくわくするような、あるいは輝いている光景が目に写ったならば、それはとても「生きてる」ことが実感できるような機会に思われた。

この写真を撮り終えた私は、スマホをポケットの取り出しにくい場所にしまった。そして、青空と街の巧みに重なる構図を探したり、あるいはまるで関係ない建物や、人の動きを見つめたりしながら、歩いた。

スマホのアプリはいつでもできるけれども、目の前に広がる景色はその一瞬に限られた再現性の乏しいショーである。見逃したら現実に100パーセント同じ世界は作り出されない。

交通のマナー、安全、そういう視点で歩きスマホが駄目だと言われることにまったく同意はする。だが、そのメッセージの展開だと、なかなかみんな行動を変えてはくれない気がする。それこそ、私もそのひとりだ。

感動や心震える感覚が生まれたときには、人は行動がもっとも変わりやすいのではないかと思っている。

今日の青空を見て、スマホをやりつつ歩くなんて、とてももったいないな、と思えたことが、これからの行動変化の礎になる...はずなんだが。宣言だおれになっていないかどうかは、今後の観察と検証の課題かもしれない。宣言だけして、何も行動を変えないのは得意分野なので(かなしいかな)、本当に宣言が行動に転化するかはよく見張っていないといけないだろう。といっても、配偶者やそういう繋がりのいない私みたいな人には結構大変かもしれないけど。

人は、命令や外発的報酬によって変わるのではなく、内発的行動で変わってくる。そこをどう活用するかが、人の活力や世の中の変革エネルギーを高めるにあたり、とても大事なのではないだろうか。