価値の流れを、見られるようになりたくて

今日は仕事にひとつの区切りがついた日になった。
全国47都道府県を回って起業家や事業に取り組んでいる人に登壇してもらい、そして自分らしく事業をつくりたいという人たちが集う場をつくる、というイベントが50箇所目の開催を終えて、終わった。
始まりから考えると、半年間以上にわたり続けてきたプロジェクトの終わりになった。

いま何を思っているかというと。

仕事を通じた「価値の流れ」とは、いかに複雑で面白いものなのか、ということへの驚きと、その自分ごと化ができた少しの達成感。

たとえばこのプロジェクトについて言うと、各地を回るための原資になるお金はスポンサーのいくつかの会社さんに出していただいている。
とすると、我々のプロジェクト・チームの顧客は、このスポンサーさん方ということになる。
一方で会場に足を運んでくれる参加者の方々は、ユーザと捉えるのが、ビジネスの仕組みの説明としては適切だと思う。
会場の方には施設利用料を払っているので、我々のほうが、顧客となるだろうか。
登壇者の方々にはわずかばかりの謝礼はお渡ししているが、本当になんというかわずかなので、我々が彼らに対する顧客などとはとても言えない気がする。この関係性は、なんだろうか。

そして、ぼくはプロジェクトを仕事として請け負ったので、このプロジェクトのオーナーから、給料をもらっている(いた)。でも雇用者と被雇用者という関係をあまり感じていない。
どっちかというとぼくというパーソナル・コンテンツならびアビリティをオーナーに対して提供して、それへの対価をもらっている感じ。ぼくにとっての顧客がプロジェクトオーナーになるだろうか。

この、一言でとても説明のつかない不思議でパワフルなプロジェクトを、ビジネスとして見てみたときにも、これだけ多様な「お金の流れ」と「繋がりの流れ」、つまるところ「価値の流れ」が存在している。

そして、登壇者や参加者、スポンサーさんなど、今回のステークホルダーの方々が営むビジネスが、「流れ」としてあるときには繋がったり、合流したりしながら、また他の数多くのビジネスの流れと相互に影響しあっている。
こうして、広いことをいえば、世界中のビジネスの「お金の流れ」と「繋がりの流れ」が行き来して、そこに価値が生まれ、流れることで、ぼくたちの生きる今と、そして未来がつくられていく。

どこの空も、世界の空と繋がっている。どこの海も、世界の海と繋がっている。
6次の隔たり」という言葉に示されるように、人と人のネットワークも、我々の想像する感覚よりもずっと短い経由数で、世界の人が繋がっている。(*1)

ぼくらの日常を成り立たせる「価値の流れ」は、空や海、人の繋がりよりももっと可視化することが難しいけれど、もっとも生きていることをダイレクトに支えている。

かように考えると。
ぼくたちはただ生きているだけでも経済の一部であることに違いはないけれど、それだけではあまりおもしろくない。

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「価値の流れ」を自ら起こすもよし。その勢いを掴み取って、波に乗るも良し。流れの及んでいない人たちに、流れの経路を作ってつなぐもよし、あるいはその人たちを流れに引き込むもよし。

見えない流れを感じ、そこで動けるようになるには、時間がかかるし、意思をもって挑戦し続けることが必要なんだと思う。転んで溺れて、立ち上がって身につける。

ぼくはそれの大事さに気づいて動き始めるのに、本当に多くの時間を費やした。そして、まだ流れでの動き方も分かっていない、よちよち歩きではある。

でも、価値を生む仕事をするために伴う「おもつらさ」。(*2)
それを、ようやくすこし、感じるようになったかもしれない。


*1

*2

「血液型性格診断」というフレームワークを使うことも心理の真理

私は、血液型性格診断の妥当性を1mmも信じていない。
理由は、反証可能な科学的手法で検証した結果として、有意に血液型の違いが性格の違いを生むということが、示されていないからである。 (*1)

なので、そこが科学的手法で「有意に差が出る」と証明される日までは一切、血液型性格診断に耳を貸すつもりはないのだけど、今日いいたいのは、「血液型性格診断を好む人」に対する私自身の受け止め方がだいぶ変化したなということだ。

前は、「〜〜さんはA型だから、◎◎な性格だよね」という話を誰かがしようものなら、それこそ誰であっても「うわー、この人とは深く話すことは無理そうだ」と思ってしまい、なんとかその話題が早く終わってくれないかなと感じていた。

しかし今日、あるところでたまたま血液型性格診断の話になって、同様な場面か出てきたときに、私が真っ先に思ったことは、過去自らによく起こった感情とは違っていた。
「なるほど、この人の中では、ある人間の行動特性を説明するのに血液型性格診断のフレームワークを使う確率が高いのだな」
という認識を持つに至った。
もはや感情の波がほとんど起こることもなく、状況に対する観察と、自分の発見の心の中のノートへのメモ取りである。

この認識の発生を自分で確認したとき、ああ、自分自身と付き合うのがだいぶ楽になってきたな、と自覚できた。

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もちろん、血液型性格診断は非科学的だという、認識する事実には何も違いはない。
しかし、その話をする相手の言うことを傾聴する、否定することなく対話を深めて、おもしろい刺激のしあい、知見にたどり着こうということを重要なマイ・トピックとして、瞬時に引き出して、それを「演じる」ことができた。
これは、大きな成長が起きたと感じている。

所詮、わたしの血液型が何であろうが、相手のそれが何であろうが、当然ながらそんな情報だけでは関係性は何も決まらない。
むしろ、相手がどういう感情状態にあって、思考のフレームワークを使うかを学び取って、それに応じたコミュニケーションを組み立てるべき、ただそれだけだ。
それによって、その相手との貴重な時間を不毛な感覚で過ごすのではなく、豊かな刺激に満ちた対話の場作りに活かせるのだ。

私自身の場合、行動特性の説明として、セロトニントランスポーター遺伝子のセットを主たる材料とすることが多い。(*2)
血液型性格診断が好きな人の中にも、私と同じような感覚で、性格特性を説明できると、科学的に解釈しているケースもあるだろう。そこを別に否定しに掛かることに意味はない。

非科学的である認識については、「空気を読んで合わせる」ことをしなくて良いと引き続き思っている。
ただ、人が自分や他人の行動に説明をつけたいと願うその心理それ自体が、人間に埋め込まれた「心の理論」の発現であるわけなので、そこは否定せず、受け入れていくほうが楽しいなといまは感じている。

皮肉でもなんでもなく「どうしてそう考えるのですか?」と知的好奇心で聞いてみたらいいのかなと思う。それが一番、不必要に誰かを傷つけることもなく、なにより自分の学びを深めることになるから。


*1

第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

*2

セロトニントランスポーター遺伝子は日本人気質を決めているか? - 神経科学者もやっている精神科医のblog

結婚について、考えが変わった。

数日前に出会ったある人が、結婚についてこのように表現していた。

「結婚とは、その相手が好きであるという自分を演じ続けることである」

生涯に聞いた「好きな人どうしが結婚する」ことの数々の描写の中で、突き抜けて納得感があるものだった。

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私自身は、進化心理学が大好きだ。人間の行動原理、思考の進み方を説明するロジックとして、進化心理学の観点で筋が通った考え方に一番納得する。

そういう私にとって、たとえば「恋愛結婚」は信じがたいものというか、それを絶対視する思想は良くわからないもののひとつであった。
なぜなら、どんなに好きあった二人でも、強い恋愛感情というのは、長くても18ヶ月程度で消え去ってしまうことが研究によって明らかになっている。 (*1)
そこから先は、「愛着」と呼ばれる感情をうまく成立させていかないと、関係は長続きしないと言われている。

かように前提を置いたときに、「恋愛 から 結婚」を一直線に乗せることを神聖視するのは、おかしいだろうと思っていたのだ。だって、それだと幸せになれないじゃないかと。
せめて科学的に、「恋愛 から 愛着形成 を経て 長期的な関係」を構築して、それの成功のひとつを結婚とでも言ってみたらどうなのよ、くらいに思っていた。

という私が冒頭の考え方を聞いたときに、衝撃があった。
私がこれまで形成してきた見方もまた、一面的だったと気付かされたからだ。

つまり私が今回見つけた気づきというのは「相手を好きである自分を演じる」状態を継続することができれば、「恋愛 から 結婚」という私が、科学的に困難があるだろうと思った図式も成立しうることだ。

もう少しちゃんと説明すると
「強い恋愛で惹かれあう状態を、そのままその相手を好きで居続ける自分を演ずる、というあくまで自分ごとのテーマに、二人が落とし込むことができて、その演じる状態を続ける技法を体得して駆使し続ける」
これができることで、双方にとって「恋愛の強い状態で結婚して、お互いにそれが変わらない、もっと好きだ」ということを科学的にも筋が通るように、実現できるだろうということだ。

人間の「演じる」力はとてつもなく大きい。それが、きっと他の生き物と違って、人類に「変化の蓄積」を遺伝子以外にもたらしてきた大きな要因のひとつだろうと考えている。


さて冒頭の「結婚とは、その相手が好きであるという自分を演じ続けることである」という言葉に戻ると、恋愛結婚だろうがお見合い結婚だろうが、年の差婚でも同性婚でも、この定義というか行動原則は、当てはまると思う。

詳しくはまた日を改めて。
なにせ次の日の分も書かなくてはいけない。


*1

失恋|恋の賞味期限・恋心が冷める瞬間・失恋克服法・浮気につけるクスリ|恋愛は科学だ!

「非エンジニア」だから「つくらない」にはオサラバ。

毎日ブログを書く企画をやっているのだが、総勢9人という大所帯になった。
さてこうなると、ほかの人の書いた記事をなかなか読むことが大変になってくる。
しかし、一緒にやっているメンバーどうしでの相互の影響、化学反応が起こる面白さを想定すると、できるかぎり他のメンバーの記事を読みたい。

どうしたら読みやすく読めるのか?
そうだ、ブログのRSSを拾って、自動で記事タイトルを時系列で並べてくれるサイトを作ればいいじゃないか?

と思って作ったのがこちらのサイトだ。

Blog Game ブログを書き続ける企画 まとめ読みサイト

構成は単純だ。
WordPressに"RSS Antenna"というRSSを拾ってくるプラグインがある。 (*1)
これを自分で設置したWordPressに設定しておき、今回の参加者のブログのRSSを読み込ませ、ヘッドライン上に表示されるページを作っている。
それだけだとあまりに味気ないので、各人のブログごとにもページをつくり、そこには"RSSImport"というプラグインを使って、記事タイトルが時系列に並ぶようにしてある。
これで、みんなのブログを読むには充分だ。


ぼくは何か作ろうとするときの「エンジニア、非エンジニア」という区分けでの思考停止が好きではない。
特に、自分が「つくれない」という弱みを感じている人に「非エンジニア」だというアイデンティティのラベルを付与することで、そこから脱出していくことそれ自体を阻んでいるような気がする。

ぼく自身は、世の文脈でいえば「非エンジニア」だ。

いくつか要素分解して考えてみると、

まず、それ(ソフトウェアエンジニアリング)で生計を立てていない。
また、プログラミングを始めとしていくつかのスキルを、スクールで学んでみたこともあるが、それを突き詰めたいという感覚が湧いてこないままだった。
それを踏まえて、自分の適性、強みの発揮はエンジニアリングにはない、と判断している。だから「非エンジニア」だと思われる。

しかし、それは「作らない」ことを意味しない。

エンジニアリングそれ自体の特性、スキルは高くないとしても、たとえばWordPressのカスタマイズでWebをつくる、Google Apps Scriptの応用で便利な自動化装置をつくる、UnityをGUIで操作してゲームをつくる。などなどつくれるものはいくらでもあるし、そのためのツールもたくさん存在している。
ほとんどコードは書けなくても、自分がほしいもの、必要なものを、組み合わせと工夫で、そこまで時間と気合を入れずに作ることができる。
むしろ、スクラッチ(0から)でつくるわけでないからこそ、早く、手軽にほしいものを組み合わせでつくれるというのは、プラスでもあろう。

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もちろん、世界初のものをつくるためには、深いエンジニアリングへの興味関心、実践知が高いレベルで伴っている必要があるかもしれない。
しかし、そこまで意気込まなくても、つくる楽しさ、つくったものを実用する楽しさは、だれにでも開かれている。

繰り返しになるが、"非エンジニア"と自認する事自体は良い。
加えて、"エンジニアの強み、仕事ぶり、その作法へリスペクトを払うこと" はとても大切である。
特にプロのチームの仕事では、立場、機能の違う人同士が相互に敬意をもってコミュニケーションすることは必須といってもいい。

ただし、個人であるとかスモールプロジェクトとかの取り組みでは、"非エンジニア"のアイデンティティ・ラベルを自分に貼り付けてしまうこと、そして何かする前に諦めることは、とてももったいない。
ちょっと調べて、ちょっと手を動かせば、できることはたくさんあるし、欲しいもの、作りたかったものをつくることもできる。

そういう文脈では「エンジニア、非エンジニア」という切り分け方を使わなければいい。
もっとピッタリなことばがある。

ハッカー (Hacker)」

ハッカーのマインドは誰でも持てるし、実践できる。
もちろん、ハッカーを名乗るほど自信がないというのであれば別にそれを使わなくてもいいのだけど。

でも
「非エンジニアだから動くものを作りません/作れません」
この発想だけはもう、オサラバで。


*1

wordpress.org

*2

ja.wordpress.org

ほぼ日に学ぶ、自由と慣性の組織。

組織の中でパフォーマンスを出すためには時間がかかる。
と思うのだけど、これは先入観なのだろうか。

ぼくは、いまフリーランスで働いている。
ビジネス、マーケティングに寄った仕事。
そして、経験のない仕事も多い。

こうなってくると、結局多くのことを周りのメンバーに聞くしかない。
聞かないで済まそうという意識はない。
聞いて聞いて学んでの繰り返しで、知見を貯めていく。

そうやって貯めた知見は、もちろん仕事をするための知識であることも多い。
ただし、仕事のアウトプットの水準、早さを決めているのは、その話を聞く相手に対する関係性の構築にあるのではないかと感じる。

良い関係が作れたら、仕事は早くて、質も上がる。
関係性を築けていないと、仕事には時間を要するし、質も上がっていかない。
不幸な関係になってしまうと、一切話を聞かずに目先の仕事は済ますが合意ができておらず出し直し、やり直しで負荷がかかり続ける苦しい仕事になる。質はもう目も当てられない。

良い関係、ということばが定義があいまいなので補足する。
ぼくが考えるに、「オープンなマインドで、すぐ仕事に必要と感じる質問、そして必要でないが楽しめる雑談を、相互に繰り出せる関係」が、良い関係だと思っている。

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と、ちょうど今、「ほぼ日」の組織研究の記事を読んでいたら、ぼくが思っていたことの本質がすでに言語化されていた(笑)。 (*1)

ひとことでいうと、ほぼ日では、雑談と会議を分けていない、ということ。
外部の人から見ると要点の得ないように見えるただの雑談が、ユニークな商品開発に繋がっているという。

このほぼ日の組織について、筆者は「環境構築自体に多大な労力がかかっている」と分析している。
ぼくもそう思う。
一朝一夕で、こんな組織が作られるわけがなく、また長くその微妙なバランスの心地よさがほっておいて保たれるものではないということを。

これがぼくが冒頭で述べた「時間がかかる」ことのひとつの究極系なのかなと思う。
逆にいうと、ただ「雑談を奨励する」とか「フラットな組織にする」とか「人材の交流をはかる」とかのお題目を掲げるだけでは、全然ユニークなものが生まれる環境にはならない。

厳格なルールで縛る、でもなく。放任主義で価値あるアウトプットがなにも出てこない、でもなく。
「自由と慣性」を、温泉で浴衣を羽織るかのような肩の力の抜け具合で、日常化する。意識をせずに「感性の対話」を続けていく。

それができる環境としての会社組織とは、なんて素敵なところなのか。
唯一の正解ではない。再現性は低い特殊解かもしれない。
でも、その環境に学ぶことの価値は、企業人であろうがフリーランスであろうが、いや家庭にもローカルコミュニティにも、多々あるのではないか。


*1 www.dhbr.net

レゴを使って他人に目標を立ててもらったら、肚落ちた。

レゴを使って他人の目標を立ててみるというイベントに参加した。

まず、レゴ・シリアスプレイというレゴブロックを使ったワークショップがある。 (*1)

そして、「他人に目標を立ててもらう」 (*2)
という、4人一組になって、自分以外の3人が目標を立ててくれるという常識破りの目標を作る手法がある。

この2つを融合させたワークショップが、今回私が参加したものだ。
(実は、私はこのワークショップに参加するのは2回めなのだけど)

このワークショップは

「わたしの現状をブロックでつくる」 ↓ 「ほかの3人にそれを使って現状を説明する」 ↓ 「3人がわたしに成り代わって、ブロックで目標をつくってくれる」 ↓ 「それをわたしにプレゼンする ×3」

という構成になっている。それを4人分繰り返すのだ。
そして最後に「自分の目標をまた自分でつくる」ことをする。

今回私が、現状認識としてつくったものがこれ。

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それを説明することばを3つほど添えてある。
エネルギーはあるのに、やりたいことが集束しない、足がバランス悪くてうまく歩けない。

それに対して、ほかの3名の方がつくってくれた「目標」がこれ。

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とくに、
「無理に集束しなくてもいいんじゃない?」
という目標提案と
「自分がととのった人間じゃなくてもいいんじゃないか。」
「行動していれば自分の原点があとからついてくる」
という目標提案が、ぐっときた。

そして、他の方の提案を材料にして、最後に自分でつくった目標がこれ。

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ブロック、そこから言語化したものに、自分の中では肚落ち感をつかんだ。


レゴシリアスプレイのワークショップは、「つくってしまった形ドリブン」なのが面白い。
考えるより先につくってしまって、あとから説明をつける。
その「あとづけ」が自分の無意識を、顕在化させる効果があるように思う。

そして、ほかの人が立ててくれる目標から、自分の目標に取り込むときもブロックなので、言語と違って、言葉どおりに「合体可能」になる。
そこからさらに、「あとづけ」で言語化させることで、自分の無意識を引きだして、そこに認識と変化のスパイスを加えて、少し変化がもたらされた無意識を再度、顕在化するということで、「ほかのひとの考えを身に取り込む」ことが成りたつように感じられる。

ほかにこの応用としては、自分の好きな言葉や、尊敬する人の哲学をブロックで創ってみる、それをほかの人のを聞いてみる、とかもできるかもと思った。

今回のワークショップ主催、運営くださった皆様、ありがとうございました。


*1 matome.naver.jp

*2 mirai.doda.jp

はたらくに思い悩める梅雨の朝

ぼくはいまフリーランスではたらいている。
といっても、ソフトウェアエンジニアやデザイナーではない仕事をしている。ビジネス畑。

具体的になにをやっているかというと、
「イベントの運営」
「事業会社のインターン・手伝い」
非営利団体の事務局」
「企業のSNSの運用」
「法人向けの小さい事業の立ち上げと運用」
など。

8年間、合計いくつかの会社で正社員としてフルタイムで働いてきたのだが、思うところあって会社員をやめてフリーランスになってみた。

この働き方に変えて、いろいろな発見がある。
良かったことと、辛いことを書いてみる。

良かったこと

仕事が選べるようになった。

命じられたことをやるのではなくて、働きたいと思う人と働くことができるようになった。

働く場所と時間の自由が得られた。

朝起きて会社行くのが辛いので、通勤をなくして家や違う場所で働くことがある程度可能になった。

辛いこと

値付けに苦しむ。

会社員だったときは、自分で自分の給与を算定しなくても会社が決めてくれて、それを受け入れるだけでよかった。
いまは、自分の働き方、成果、それに対する対価を自分で定義して、契約相手と納得行く合意を作らないといけない。
これは難しくて、結果ミスって馬鹿みたいに安く受けてしまって、辛かったりする。
ちなみに結果的に月収はサラリーマン時代より半分くらいになった。なんとか生活はできるレベル。

労働時間とエネルギーのかけ方に苦しむ。

操業時間どころか、コアタイムなるものすらないので、自分で働く時間を決めないといけない。
そして複数仕事を掛け持っているので、投入時間量とエネルギー配分の波があってキツイときにはとてもキツイ。

自分のアイデンティティに苦しむ。

これは、ぼくが明確なスキルの強み(エンジニアリングなど)を持たず、かつ熱意の注ぎ方がわかっていないことに起因していて、かつ複数の仕事をバラバラやっているからではあるが。
締切に追われていると、自分って何をやりたかったからこれをしてるんだっけ、というのが迷いがこみ上げて辛い。


以上、辛いことがたくさんあるように見えるが、ある意味では自然だとも思う。

ぼくはそもそも9年前、大学四年のときに、働きたくなかったけど、大学院にいって研究したいこともなく、とりあえず就職する他ない考えて就活していた。
結果、第一志望というべき会社には就職したが、そこで気づいたのは、その会社で何十年も会社員をし続けることは、未来を考えると、それでいいんだっけという思いが去来した。
でも確たる未来に向き合う方法はよくわからなくて、勢いで転職してみたけど、とくに本質的な感覚の転換、セルフイノベーションとでも言うようなものはついぞ起こっていない。

という思考と生き方を続けた人間が、受動系のはたらき方を短期間で外したら、そりゃ不慣れと不安で、こういう状況になるものだろう、と。
そういう意味で自然だと。
どこかのタイミングで慣れるはずだ。
しかし、ただ慣れて終わりで良しにしたら、それも違うだろうと内奥の声が聞こえる。

考える事、試行錯誤すること、フィードバックを活かすこと。 それをあきらめたら、試合終了かもしれないから。

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蒸し暑い。今日はこのへんで。