ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

婚活パーティの学び 【Game 1 : テクノロジーとビジネス、そしてハルヒ】

カチカツ(前記事参照)を始めてから、2つの婚活パーティに行った。

1つ目は「ゲーム・マンガ・アニメ好きの人参加しましょう」なるタイトルが付けられた大手マッチング企業主催の婚活パーティだった。今日はそれについて書きたい。

学習目標とその崩壊

方式としては、2人が並んで座れる半個室のブースがいくつも用意されている大部屋のようなところで、男女1対1のペアのトークを数分間行い、それをすべてのペアで繰り返すというもの。ぼくも過去に参加したものと同じである。男性は回転寿司の皿みたいなのもので、トークが終わる度に荷物を持って席を立ち、となりのブースに向かうのだ。ぐるぐると。

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ぼくがこの日設定していた学習のための仮説は
「ミニマムのハードルをクリアする身だしなみ&落ち着き」
である。 いやー、入門どころかそんなん人として当たり前じゃないかと思った方は、モテるに必要な外見を身にまとうことが身体化しているのだ。ぼくにとっては、これも学習として十分に目標設定すべきお題である。

が、早くもこのお題は頓挫することになった。
結論、ぼくは開場時刻を正確に把握しておらず、到着するのがギリギリの時間になりそうなことが移動中に発覚したのだ。さらに、会場ビルがどこか分からず、会場付近で数分駆け回っていた。おかげでもう、完全に汗だくだ。そしてメンタルは焦りまくり。達成しようと思った目標を完全に崩壊した。

とはいっても参加してみなくては学べない。なんとか会場を見つけ出し、数分の遅れで受付を済ませ、会場入りした。

アプリの不可解な質問

この日は、男性6人、女性6人程度が参加していた。
開始前に、パーティのときに使うアプリを用いてプロフィールを事前に入力しておき、パーティが開始されると、そこで参加している異性のプロフィールをすべてアプリ上で見ることができる、という方式だった。
婚活パーティにも、IT化の波は押し寄せてきているのだ。

かつてぼくが参加したのは、紙にプロフィールを書いて、トークのときに交換して見せ合うというローテクなものだったが、それに比べると格段のハイテクと言えよう。
だが大事なのは、その方式が、男女のマッチングに役立つかどうかということだ。テクノロジーは手段であって目的じゃない。

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かような観点から、今回わかったことがある。
プロフィールを一覧で見られるアプリは便利だが、そもそもアンケートの設問が的外れな場合、真価は発揮されないということだ。
具体例を述べよう。今回「ゲーム・マンガ・アニメ好き」ということで、それを想定したと思われるプロフィール質問が入っていたのだが、肝心の質問がこれだ。

「オタクに目覚めたキッカケの作品は?」

いやいやいやいや、オタクに目覚めたかどうかなんで決めつけてるの!ってオタクの定義ってなんだ!示してくれ!
さらに衝撃的なことに、この質問は自由回答ではなく、4択なのである。

  1. ワンピース
  2. エヴァ
  3. ハルヒ
  4. その他

ええええええ!なんだその時代もジャンルもバラバラな選択肢、っていうかそもそもどういう設定だよ!
しかも確か必須回答を要求されており、どれかを入れなくてはならない。問いも選択肢もムチャなアンケートに人は茫洋とする、という学びを得てしまった。
ぼくはどうしようもなく、ハルヒを選んだ。エヴァは直撃世代じゃないし、ワンピースは漫画を途中まで読んだだけだし、強いて言えばハルヒが近い。しかし、ハルヒでオタクになったわけではないのだが。ってオタクとは何か(再掲)。しかもこれが、相手の女性に表示されるのだ。どうしろと。

唯一、この質問の使いみちは、ペアになった人と会話する時に「この質問、すごい困りませんでしたか?」といって同意とちょっとした笑いを引き出すのに使えたかな? という程度だった。いやたぶん笑い引き出せてないっす盛りましたすいません。

しかし、なんでこんな設問入れたんだ。

噛み合わない会話

プロフィール閲覧アプリのことは置いておいて本題のパーティなのだが。
今回は、1回あたり10分程度会話時間が与えられた。プロフィールを見ながら、だいたいはアニメやゲームやらで何が好きか、みたいな話をする。
しかし、問題に気づいた。参加している女性が若めで、ぼくと年齢層が違って、薫陶を受けたアニメや漫画の話が合わないのだ。

スラムダンクは何回も読みましたねぇ」とぼくが言っても
「あ、名前は聞いたことがあります」なる返事が相手から来る。
するとだいたい話は詰む。
残る時間を、何が好きかというファクト探りに使うこの無意味さたるや。

ひとりの女性(以後Cさん)とは、なぜかもうアニメや漫画の話にならなかった。出身地のことや今のしごとの話をして、世間話のような形で終わった。

そして、1時間ほどかけて全ペアでのトークが終了すると、「誰が気になったか」をアプリ上で選択するお時間になった。そこで、気になった人の名前をアプリ上でタップして決定するとハートマークが相手に送られるというものだ。
これもかつて参加したパーティでは、紙に手書きで、運営スタッフが回収して、さらに○をつけて紙を返すというローテクな処理をしていたが、それもアプリだと一発だ。便利だね。
なお、ぼくは1人の女性を除いて、全員に「気になった」マークをつけた。あ、その1人というのは、さっきの世間話をしていた人ではないまた別の人(Dさん)だ。Dさんは、どうもタイプじゃないなぁと思ったのだ。すいません。

ちなみに、だいたいに「気になった」マークを付けておくというのは、おそらく男性側にとっては常套手段である。というのも、過去参加してみて、女性はたぶんほとんど「気になった」をつけないということが分かったからだ。気に入った人がいたら、「気になった」をつけるみたいだ。だが数学的にいって、それを男性側もやると、マッチングの確率が低下するのは想像のとおりだ。したがって、「この人はちょっと…」というのでなければ、「気になった」を付けておくことを勧める(誰にだよ)。
そして、「誰から気になった」を付けてもらったかが、その後で分かる。ぼくは、CさんとDさんから「気になった」がついていた。え、世間話しかしなかったのに!

そして、次が「誰とのカップルを希望するか」という意思表示の時間となる。これも、アプリ上で行える。第1希望から第3希望までを、リストから選択して決定するのだ。
そのへん、どういう重み付け処理がされるプログラムなのか全く謎だが、希望順位は重要だ。
ドラフトは上位指名しなくては成立しない。

だが、これも数学的にいうと「人気投票ゲーム」みたいな構造になっていることを忘れてはいけない。
たとえば、絶世の美女が1人いて、男性の100%がその人を第1希望に選んでしまうことが起きるとすると、カップルのマッチング率はとてつもなく低くなるだろう。「誰とならマッチングできそうか」という観点で、相対的に考えることが重要だ。
って、もうなんかこれって「カチカツ」からすっごく外れてるよね。でもまずカップルにならないとこのゲームは進まないんだよなぁ。疲れる。

ぼくは、第1希望をCさんにつけた。第2希望と第3希望は適当につけた。たぶんカップリングがあるとするなら、今日はここしかないだろうと思った。

そしてカップリングへ

で、結果発表。これも、アプリ上で発表される。

Cさんとのカップリングが成立した。ふー、良かった。良かったのか? そもそも大してお題に沿った話してなくね?

このあと、男性は先に退出となる。荷物を持って、ビルから出る。ただしカップリングが成立した人に限っては指示されたポイントで待つことになる。
ぼくは指示された場所で待っていたら、Cさんが降りてきた。挨拶をして、じゃあご飯でも食べますか(夜だし)みたいな感じでレストランやら何やらがあるほうに歩いていった。

が、店がだいたい全部しまっていたので、家の方角を聞いて、そっちに近そうな繁華街まで電車で移動した。そのあと、適当な居酒屋で小1時間ほど話して、連絡先を交換してお開きにした。

1つめの婚活パーティの経緯はだいたいこんな感じである。

仕組みの謎、そしてビジネスを考える

他にも、いくつか学びがあったので記しておきたい。

・連絡先をパーティ中に交換できるルール&仕組みがあったが、ほぼ無意味

LINE IDやメールアドレスを専用の用紙に書いて、ペアトークのときに渡すことができる。以下の画像のようなものだ。

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だが、これは機能しない。
試しに、この紙に名前とメールアドレスを書いてすべてのペアトークのときに渡してみたのだが、誰一人、女性側から、この紙をもらわなかったのだ。
「いやそれはお前がモテないからだろ!」というツッコミはごもっともかもしれないが、1つ反証がある。ぼくとカップル成立したCさんすら、ぼくにこの紙をくれなかったのである(笑)。
この紙は、男女ともに、異性の参加人数分配られていた。だが、使ったのは男性ばかりである。実際、ブースを訪れてみると後半になると、女性は何枚かこの紙を持っていた。

要するに、これはほぼ男性側が使うだけであって、そこに連絡をとる女性はまずいない。そしてカップリングしたら、それはそのときにちゃんと連絡先交換するものだ。今回ぼくとCさんがそうしたように。
じゃあこのシステムは何のために存在しているのか?
表現は悪いのだが、「パーティ中の連絡先交換できます!」と言って、男性参加者を増加させるための「価値があるように見せる仕組み」ではないだろうか。

・このビジネスは男性参加者が払うカネが利益の源泉

婚活パーティの参加費はいくらか。
ググってもらえばすぐに出てくるが、もちろん会社によっても違うし、設定されているテーマや年齢層によってもまちまちだ。
ぼくが調べた中で、もっとも男性と女性の参加費が違っていたものはなにか?
想像していただきたい。

答えとしては、「女子大生&ヤングExecutive男性」なるテーマが設定されていたパーティだ。
女性参加費、500円。男性参加費、なんと14,500円。
差額、14,000円。
これって、えーっと…。
闇を色々と感じさせる。

ちなみにぼくが今回参加したパーティの参加費は、女性2,000円、男性6,000円だった。
まー、これも差額はあるよねーって感じだけど、ぼくが着目したのは女性の参加費である。
少なくとも女性も2,000円は払うのだ。多少なりとも真剣さ、投資したからには行動しようという思想のはずだ、という仮説を立てていた。

実際それはそうだったと思う。
ぼくが選んだパーティが、女性500円や無料のパーティだったら、きっとぼくに対するマッチングは起こらなかっただろう。

自分が女性の立場だとして、500円だったら、適当に過ごすだろうことは想像がつく。

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このブログを読んでいる女性がどれだけおられる定かではないが、ぼくが調べて理解したことをお伝えしておきたい。

婚活パーティは、開催間近になっても、女性の参加者が男性申込者に比べて著しく不足している場合、女性の参加費は限りなく低下する。なんなら、無料になることも少なくない。
それは、女性比率が不足していると、金づるである男性の満足度が下がり、パーティが中止になる、または参加しても不満が溜まってリピーターにならなくなってしまうからだ。その事態を避けるためには、女性は0円だろうがなんだろうがとにかく来て欲しいのだ。多少、パーティとしての年齢や要求スペックがずれていたって、関係ない。

ということで、初めて参加するなら、最初っから500円とか1,000円とかのを選んでもいいし、直前まで待ってみて無料で参加してもいいと思うのだが、自分が投じた額によって、それが少ないと自分の行動意欲も低下してしまう実感があるなら、無理に参加しなくていいと思う。
財布は傷まなくても、時間とエネルギーを消耗することには違いないので。

婚活マッチングビジネスは、アプリだろうがパーティだろうが、男性の参加費や月額会費を利益源泉としていることは不動の真実。それを受け入れた上で、使うかどうか選べばいい。
誤解を恐れずにいうと、女性はこのプラットフォームで不可欠な存在であるが、顧客でないことも多いということだ。

何十回も婚活パーティに行っている男性はいろんな意味ですごいなーと思う。そういう人のおかげで婚活会社は儲かるのだ。ビジネスのキモは、とかく女性を集め、それにやってくる男性を顧客とすること。そして、リピートしてもらうこと。
おかしなことにマッチングビジネスは、「リピートしない」ほうが顧客満足度が高いはずなのだが、現実のビジネスは「リピートしてもらう」ことが大切だ。
新規顧客獲得は既存顧客に比べてはるかにコストがかかるというのはビジネス研究でよく指摘される話。

こうつらつらと書くと、このビジネスに否定的な立場に見えるかもしれない。が、ぼくはそんなことは思っていない。だってビジネスだもの。儲けてこそ、つづく!正直、すごいと思う。人類の仕組みを見事に突いている。

ぼくは、顧客なのかどうか。現時点では数千円をショットで払っただけなので、顧客とは言えない。獲得コストもあるはずだし。じゃあこのビジネスの顧客になりたいのか? と問われると、正直そこまでなりたいわけではない。 だがしかし、カチカツを進める上で、このアプローチも重要だ。サービスを使わせてもらっているわけだし、最大限に学びを作っていきたい。

なお、本稿でマッチングビジネスを考えるにあたっては、『プラットフォーム革命――経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、どう作られるのか』という書籍が大変参考になる。おすすめしたい。いや普通にすごく良い本だ。

マッチングサービスの抱える構造的矛盾に迫る記事としてはこちらが面白い。

www.dhbr.net

って、本当に何が言いたかったんだ、今日! 結局、書き始めるとこういう誰得な分析に走ってしまう癖は2年経ってもまるで変わらないことがよくわかった。

次回は、2つめの婚活パーティのことを書く。

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※ロゴ画像はこちらのサイトで作った。

涼宮ハルヒの憂鬱(風) ロゴジェネレータ / Logo Generator - Suzumiya Haruhi no yuuutsu style

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婚活でなく、カチカツを

婚活はしてないつもりだけど、新しい動きを始めたので、今回の記事はその整理編。最近何があったとか、どう思ってるかとか。

目次

"婚活"を続けるのがキツかった2年前

2年前、なんとなく婚活しようと思ったぼくは、ネットで募集している婚活パーティに行ってみた。最初に参加したパーティで、ひとりの女性とカップリングが成立した。

その顛末は当時のブログに書いているので、興味ある方は読んでいただきたい(本記事の下のほうにリンクを整理しておく)。

カップリングが成立した女性(Bさん)とどうなったのか、ブログでは書かないまま2年経ってしまったので簡単に整理しておく。
Bさんとは、食事に3回くらい行ったのだが、何もなかった。ぼくが送ったLINEのメッセージに相手の返事がなく、そのまま時間が過ぎた。

あのときのぼくは、Bさんともっと関係を深めたいという気持ちがあまり起こらなかった。どうしてだろう。趣味も一致していた気がしたのだけど。

今思うと、それは"婚活"ということばに定義される一連のプロセスに自分が適当に乗っているだけだということに気づいて、怖さと、「これでいいんだっけ」という思いが大きくなってきたということがあるかもしれない。
いや別に世の中の婚活を否定するつもりはないのである。ただ単に自分が、それを続けていくことができなかった。

そして仕事やらなにやら、バタバタした日々の中で、すべては埋もれていった。

それから2年あまり、本当に何もしなかった。

春に紹介してもらった人との話

今年になってちょっとした変化と出来事があった。
たまたま仕事を通じて知り合った方(既婚男性)が、ぼくが未婚ということを知って、友人の女性(独身の方)を紹介してくださったのだ。 その方と3回くらい会ったのだが、結果的には、友達というところに行き着いた(と、ぼくは理解している)。
合う合わないということはさておいても、遠方に住んでいる方だったこともあり、時間とお金と、いろいろなハードルがあったように思う。それを越えてまでもっと先に進まねばという感覚には至れなかった。

ただし、この経験を通じて、2つ発見というか得たものがあった。
1つめは、自分は意外と行動できるんだな、という自分の再評価である。
2つめは、物理的に遠いのはなんだかんだ辛いな、という構造への気付きである。

紹介してくださった方にも、その女性の方にも感謝している。

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今年の、この経験を通じて、自分の中では変化が起きた。
誰かを大切にする、お互いに大切にしあう、そういう関係を築いてみたいなという自分がいたことに気づいたのだ。

上の出来事は春、3〜5月頃だった。
ちょうど今年の5月に、ぼくは年齢を重ねて34歳になった。
友人のひとりに「来年はもうアラフォーだね」と冗談でコメントされた。

その瞬間に気づいてしまった。

年齢で人生を決める必要がない世界であるとは思うが、実際に自分の人生の経過年数として、事実を歪めることもまた、できない。 そして、相手が必要なことにおいて、相手からは事実で判断されることも否めない。

何かアクションを起こすなら、そこまでたくさん時間の猶予があるわけでもない。
そう、思ったのだ。

行動する前に考えてみた

といっても。
2年前と同じ行動を取ったのであれば、同じ帰結になることは目に見えている。
何かを、変える必要がある。たとえば、アプローチ、とか。

だが、アプローチ、という言葉を狭義に「出会う方法」と解釈する場合に、そこで選びうる手段については、実は2年前に整理したこととなんら違いはないと思っている。

(1)結婚相談所
(2)Web出会いサービス
(3)婚活・街コンなど対面出会い
(4)知人の紹介

と、そのときに4つ挙げている。

今時点でも、その整理は有効だ。
(1)は資格なし、(2)は疲弊ハンパない、という点で、ぼくの選択肢に入らない。
(4)は今回の春の出来事がそれに当てはまると思う。周りにお願いしていくことは大事だが、自分から能動的に何かやっていくのも難しい。
よって、目下のところで採択できる手段は(3)のみになる。

だが、ここで(3)を選んで、のこのことでかけても、きっと2年前と起きることは変わらない。
いや、そのときによりも年齢も2歳上になっている自分の事実を考えると、「マッチングゲーム」とだけ見ると、難易度は上がっている。

それに気づいた時に、変えるべきポイントは、実はアプローチではなく、マインドセットなのではないか?という思考に至ったのだ。

マインドセットに関して、突き詰めると、疑問は1つである。

「婚活って、『結婚が目的の活動』ってことだけど...。それ、あり方としておかしくない?」

確かに、日本国には戸籍と家の法制度があり、結婚は制度として用意されている。
だが、制度が規定するものを、人生のなかの目的にして、果たしてうまくいくのか?

多分それは上手くいかないだろう。
もちろん、「上手くいく」の定義を決める必要はあるのだが。
仮に「主体として、人生を生き、幸せ(Well-beingのほう)を創っていけることを支援しあう関係を構築ならび継続する」ことが上手くいく、と定めるなら。
「婚活」のマインドセットで、上手くいくわけがないと思う。

ここを直視して、「であるならどうするか?」という問いを立てていけるようになったことは、2年前と比べて自分の成長だとは思う。

婚活から「カチカツ」へ

婚活という言葉で、自分の行動を定義するのは、やめたほうがいい。
とはいっても、概念に名前があるほうが思考しやすい。

映画『シン・ゴジラ』に出てくる大河内清次(内閣総理大臣)は、巨大生物にゴジラという名前が付与されたとき、こう言った。

「名前は、付いていることが大切だ」

ぼくは、今取り組んでいることを、こう名付ける。

「大切にする関係を構築する活動」。

カンケイコウチクカツドウ、略して「カチカツ」と。

言葉遊びが好きなので。

カチには、「価値」という意味あいも含めている。
自分と相手にとっての価値を整理して、共有することを大切にしたい、ということ。

そしてまた、カチには「勝ち」という意味合いも含みたいと思っている。

ここで、「勝ち負け」を持ち出すと、誤解が生じそうなので、違うよ、ということを先に説明しておきたい。
「勝ち組」「負け組」というような、人に対する失礼極まりない分類としての勝ち負けではない。
そんなものにまったく興味がない。

もっと局所的で、ぼくが好む話である。
これはゲームで使われる用途における「勝ち」なのだ。

よく考えて、作戦を立てる。次に、作戦における勝ちを定義する。
そして、作戦を実行にしたときに、定義した勝ちをどこまで達成できたか、あるいはそれが上手くいかなかったか、を評価する。その先に、学習を起こす。
このプロセスは一連のゲームとして捉えることができる。

実験的学びとカチカツの連動という仮説

ひとつひとつの活動の中で、もっとも重視すべきことは何か。
「学び」である。

仮説に基づいて作戦を立てて、実験・実行して、振り返ってみてこそ、学びは得られる。
そして、成長する。

ということで、このブログを書く意味もそこに紐付く。
目的は、学びだ。

学びにフォーカスすれば、過度な期待も、それに伴う絶望や疲労困憊も避けることができるだろう。
そして、学びを重ねることと、カチカツで納得いく着地をすることは、強くリンクしている。こう、考えているのだ。

ということで、ひとつの学習仮説を立てて、とある婚活パーティに行ってきたのだが、長くなったのでそれは次回に書きたい。

ここで、「学び」フォーカスに至ることに大きく役立った書籍を2冊紹介したい。

1冊目は、『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』。
野中郁次郎氏他が著者の「失敗の本質」は何冊かあるが、直近ぼくが読んで影響を受けたのはコレ。
日本軍の「学習できない組織」ぶりをことごとく明らかにして、それがなぜだったのかに組織構造上の問題として迫ったエピソードをいくつかまとめている。
感想としては、「思い込みによる現実否認」と「構造に規定される慣習と惰性の強さ」を思い知ったというところ。

2冊目は、『Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』。アーリック・ボーザー氏による「学びを個人/組織/社会のレベルで狙って引き起こすためには何が重要になるか」という観点での書籍。ポピュラーサイエンスに分類するのがいいのかもしれないが、知識だけにとどまらない「学び」をまさにこの本自身が体現している。
極めて科学的でありながら、同時に個人のエピソードに紐付いて読んでいてワクワクさせる筆致に満ちていて、ページをめくることが楽しくて仕方なかった。
これを読んだおかげで、カチカツの実現には学びの達成が不可分だろうと思えた。そして今学びを起こそうとしている。

過去の記事まとめ、次回

最後に、2年前の婚活について述べたブログ4本のリンクを貼っておく。 (1)〜(4)の出逢いの手段にまとめについては、最初の記事「婚活初心者、詰む。」に記載がある。

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次回は、どういう作戦を立てて、婚活パーティを選び、実験してきたのかを書きたい。

行動し、助けをもらって振り返り、強みを見つけよう。

12/22から12/31までブログを毎日書くという自主企画は未達だった…。自分でもびっくりするくらい記事が書けなかった…。 12/31の分は書いて今年を終えることにしたい。
これを今、千葉県から東京に戻る電車の中で書いている。

2018年の振り返りをしている友人が多い。
Facebookの文章に、プライベートと仕事をそれぞれに整理して振り返る人もいれば、未来を変えるプロジェクトで提唱されている4人1組で行うワークの方式で振り返る人もいる。 (*1)

ぼくは今回2つの方式でやってみた。
1つは知人のLEGOシリアスプレイというレゴを使ったワークショップメソッドの認定ファシリテーターの方が主催されていた「LEGOを使って4人1組で振り返る」というワークショップ。
もう1つは、昨日友人のKさんと即席で編み出した「Trelloを使って対面で振り返る」という方法。

Trelloのほうはいつかまとめるとして(笑)、レゴのワークショップがどんなもので、どんな気付きを得られたか整理したい。

4人1組になり、それぞれがまず個人ワークとして、1年間を4つの時期に分けて起承転結の「ユーダイモニア」というものを紙に書く。ユーダイモニアって何という話だが、ポジティブ心理学ではこのような意味だそうだ。 (*2)  

ユーダイモニアは「生きがい追求型」で、自己実現や生きがい、人生の意味と関わる幸せのこと  

自分自身の生きがい、自己実現、意味というところで1年をどう振り返るか。
そのように見ると、ひとつひとつの記憶は単発のイベントに紐付いていることが多いのだが、それを時間軸に並べ、かつ起承転結のように転換と流れを捉えると、そこには自分にとっての変化がどことなく見えてくる。

さて、そのうえで、次は複数人のワークショップということで、その自分の1年間を他の3人にして、ほかの3人にレゴブロックで私の話したことを構築してもらう。そして、それの説明をそれぞれからしてもらい、気になるところを深掘りする対話を行う。

やってみて思ったのは、自分が他のひとの説明を聞いてブロックで作るという段においては、興味関心度合いを意識的に高めることになるということ。まったく耳慣れない専門的な言葉が出てくることもあるんだけど、そういうときのほうがむしろ面白い。わからないセカイを理解してみようとすることで脳が普段使わないような使い方をできる気がするのだ。

自分で説明して他の人に作ってもらい、その説明を聞く段では。実は自分自身では、体験したことを経験として整理して意味付けしきれないこともたくさんあるなーと思った。そもそも自分は体験主体そのものなので、それを捉えるフレームを作り直すことが結構難しい。脳は省エネが得意なので、なんでもかんでも自分のよく分かっているフレームに持ちこもうとしてしまう。だがそれでは新しい視点が得にくいのだ。そこを「傾聴してくれる他者の目と手」で新しい視点、意味をつけていくことが面白い。

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これが他の参加者につくってもらったレゴ。

振り返りの目的は、なんだろう。人によると思うけど、ぼくの場合は「過去と同じ状態に留まる、同じ停滞に生きる」ことが怖いので、今までに重ねた時間と今立っている位置が、とどまっているかそうでないかどうかを検証することが大切だと感じている。その検証が目的だ。

そもそもなんで留まることが怖いのか。それは自分の内面よりも他者との関係から説明がつくような気がしている。
ちょっと長くなるが過去を遡る。
ぼくはずっと自分の将来を考えることが苦手で、人からそれを強いられることを苦痛に感じていた。なんとなく時を重ね、先の人生をつくるという思想を遠ざけて生きてきた。
それでなんとなく大学を卒業して、好きだったプロダクトと好きだった人がリーダーである会社で仕事を始めてふと気づいたのは、「留まっていることを好む人と、変化する人を好む人の間の永久に越えることのできない壁」が存在することだった。 はっきりと言えば「岩田聡さんが社長を勤める会社で、岩田さんの理念や行動規範、視点を学ぼうとしない人がどれだけ多いのか」という現実に出会ったのだ。
ぼくは岩田さんの社内外の発信を可能な限り目を通し、語られている言葉を理解しようとし、薦めている書籍を読もうとした。仕事でのアウトプットのクオリティがどうだったかというと大したことはないけれど、「リーダーから学ぶ」ことについては真剣だった。
だが、年上の管理職と言われる層の人達の多くは、あまりそれに興味がないようだった。今となれば分かることだけど、ぼくがいた部署の仕事は大きなくくりでは「ルーチン」だったのだ。ミスのないように、上司の覚えめでたくやってきた人が昇進しポストについていく。ルーチンのセカイで、外部からやってきた若き(僕が入社した時岩田さんはまだ49歳だった)社長の理念を学ぶことは、そもそも意味がないことだった。
人の噂、人の評判、誰が好きで誰が嫌いで。そんなことがマインドシェアの多くを割くような場は、岩田さんへのリスペクトが強かった24歳が「もういいよ」と思わせるに十分だった。

…長々と過去の職場の文句が書きたかったわけではないのだ。そもそも、そのときのことはすべて他の人のせいだ、と、思っているわけではない。今からすれば、あの職場を面白く巻き込んでいくためのコミュニケーション設計も色々と考えることができる。あのときそんなことが見えていたらまた違うことができたのかもしれない。
とはいえ、そこは今の本題ではない。今日ここで書いておきたかったのは「変わらない、留まることがすべて」になると、その淀みは取り返しがつかないんだなぁと24歳の僕は思って、そうなりたくないと強く思うに至ったというエピソード。それだけだ。

こうやって記憶と感覚を引き出して改めて言語化してみると、そのとき覚えた違和感は8年以上経った今も自分の価値基準に置かれているように感じている。

しかし、その違和感は持ちながらも「未来の自分をイメージして、どんな生き方をしているかからの逆算から行動をデザインする」ことは長きにわたって苦手で避けてきたままだった。
もちろん世の中には、不得意を無理にやろうとしないほうがいいケースもある。それこそまさに岩田さんが、ドワンゴの川上さんと語っていた話。 (*3)  

岩田氏:  ただ,気を付けなくちゃいけないこともあって。簡単に言うと,「自己評価と他己評価の違いに気を付けた方がいい」って話なんですけれど。

4Gamer:  というと?

岩田氏:  要するに,「自分の好きなことと嫌いなこと――もっと言えば,自分がやりたいこととやりたくないこと――を,自分が得意なことと得意じゃないこととイコールだ」と思い込んでる人が多いです。本当は,それってかなりズレてるのに。

川上氏:  ああ,ズレてますよね。

岩田氏:  好きじゃないけど得意なこともありますし,好きだけど,実はあんまり得意じゃないよっていうことも結構あって。だから,仕事というのは「得意なこと」をやった方がいいんです。好きだけど得意じゃないことに溺れると,仕事っておかしくなることが多いんです。

そう。好きかどうかでなく、得意かどうかで仕事をしよう。
この言葉は、「好きなことが見つからない」「好きなこと(趣味)はとても仕事になりそうにない」と思う僕には、救いであった。
一方で、得意がなにかということがよくわからないままでもあったので、じゃあ僕の得意はなんですかという気持ちでもいた。

岩田さんはちゃんとそれを考える方策も提案してくれていたのだけど。以下は上の対談の続き。  

4Gamer:  好きだけど得意じゃないこと,ですか。でも,自分でそれを見分けるにはどうすればいいんだろう。

岩田氏:  自分の労力の割に周りの人がすごくありがたがってくれたり,喜んでくれたりすることってあるじゃないですか。要するにね,「それがその人の得意な仕事なんだ」って話で。逆に,自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われることもあって。それはね,本人が好きだったとしても,実は不得意なことかもしれないんですよ。

4Gamer:  なるほど。

岩田氏:  この話はですね,私は毎年,会社説明会で学生さんにお話しているんです。よく「自分の強みを見つけろ!」みたいな話を学校で言われると思うんですけど,普通は,学生時代に「何が自分の強みなのか」なんて,なかなか簡単には分かんないわけじゃないですか。

川上氏:  そうですよね。

岩田氏:  だから,「“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」って,いつも学生さんに喋ってるんですね。「さっさと得意なことが分かった方が,人生はいいぞ!」って話なんですが(笑)
 

改めて読むと、また刺さる。
「さっさと得意なことが分かった方が人生はいい」いや本当にそうだなぁ。
この岩田さんの方法で、得意を見つけるためにひとつ大事な前提がある。それは「周りの認めてくれた」を正しく検知することである。これが実はそんな簡単ではないと思う。というか難しい。「認める」とは、誰が、何に対して、どのように認めてくれるか。その加減と評価内容の認識がうまくいかないと、それが得意だったかの的確なフィードバックを得て行動変容につなげられないからだ。

そこで…ようやく話は振り返りに戻ってくる。何がいいたいかと言うと、それだから「他者の目」は大切なのだ、と。
自分の取り組んだこと、うまくいったと自分は思うこと、ここがうまくいかなかったと悔しく思うこと、あるいはまるで自分がそこに価値ありと見えていないこと…。それをバックグラウンドの異なる他者の目で見て、フィードバックをもらうことで、岩田さんの言う「強みを見つける」の実現に近づくのだ、と。

ここまで書いて思うのは、このフィードバックと気付きのサイクルは、1年ではなくて、もっと短く区切ってみたほうがよいな、ということ。1年だと、少なくとも僕にはあまりに長い。記憶が流れ、その経験の中に「他者が評価する強み」が入っていても、それをこぼして時間が去っていってしまうのではないかと感じる。

ということで、2019年にやるべきことが今ここで見えてきた。
それは「他者から見ての強みの発見を行うサイクルを頻度高く回すこと」である。

これを自分で望むということは、同時に、他の人の発見に自分が関わるということでもある。

このブログのタイトル「ギブギブン」はアダム・グラントの著書「Give&Take」にインスパイアを受け、いかにGiveするかを意識しようぜ自分!という思いで2年前に付けた。
2年たった今、改めて考えてみても、そこは変わっていない。

どういうやり方で、誰に何をGiveできるのか。
そこを考えた先に今、この記事を書いていて「他者から見ての強みの発見」を(相手が望むならば)一緒にできたら、それはひとつGiveかもしれないと思った。
それを積み重ねていくと、強みの発見を通じて、仕事をおもしろがって価値を出していくことにつながった、という人も出てくるかもしれない。
それ、いいなぁ。

ということで2019年2つやりたいことができた。
「強みの発見を行うサイクルを頻度高く回すこと」
「他者の強みの発見を一緒に行うこと」

とはいえ、この2つには共通する、そもそも前段として必要な行動がある。
それは、自分で自分のリーダーシップを取って、不安と好奇心感じるようなことに対してアクションを起こすことだ。 その先に、他者から見て強みがあったかどうか、を知る契機が生まれてくる。自分で最初からできると思ってタカをくくりやすいことばかりやっているのは、それこそぼくがかつてこうなりたくないと思った「留まる人」にほかならないから。
ぼくの尊敬するプロフェッショナルの方が書いた仕事の探し方の記事から一言、引用して締めたい。 (*4)  

不安と好奇心に満ちた仕事に、試行錯誤、チャレンジしようではありませんか 

まず行動しよう。
そして行動を他の人のチカラを借りて振り返り、フィードバックを次の行動のプランに載せ、そしてまた不安と好奇心に向き合おう。


*1

40人のビジネスパーソンが絶賛した「1年の振り返り」完全マニュアル

*2

ポジティブ心理学:ビジネスに活かす基本の整理と最新動向_1 | GBGP

*3

www.4gamer.net

*4

老練なコンサルタントが教える「仕事選びの基準」とは?

車の運転で大事なことは「目的地設定」と気づく

来年年明けに運転したい用事があって、結果として全力ペーパードライバー状態を脱出するために今運転を練習しはじめている。
いちど自動車教習所の貸しコースと貸し車両というので50分ほど練習したのだけど、コースのなかだし車もなんだか古いしあまり楽しくなくて、これは公道を走りたいなと思った。しかし車を所有していないのでどうするか。

かつてであればレンタカーというところだろうけれどぼくはレンタカーにあまりいい印象ではない。貸し出す前に目を皿のようにしてチェックされ、返す時にわずかでも傷がついていたら問い詰められ、事故報告のためにあれやこれやとする羽目になる。いやいや、なんのためにそれあるの。少なくともお客さんの便益ではないでしょ。
ということで、そういう煩わしさの少ない選択肢としてカーシェアにしました。タイムズカーシェアとCARECOの2社をすでに申し込み済みだったので、もう使える状態に。実はタイムズカーシェアは数年前にも一瞬だけ契約したけどあまりに使わなかったのですぐ解約してしまった。今回はどうなるかわからないが。

ということで今回はタイムズカーシェアのほうを利用。スマホアプリで空き状況を確認して予約。車種はなんだっけ、たしかフィットだった。アラウンドビューモニターという機能をつけている車体にした。だって後退駐車が怖いんだもの…。

なお運転指南役として父親に乗ってもらった。ぼくよりはよほど運転慣れしているので。父がいてくれてありがたいなと思う。

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さてタイムズの駐車場から出発だ!
…といってもコースを特に決めていない。そして、これが今回最大の学びだった。

つまり、「車の運転は目的地を決めていることが大事」だということ。 運転しなれている人からすると、何言っているんだと思うかもだけど、ぼくにとっては大きな発見であった。

車の運転を練習したい、という目的で車に乗ると、目的地は存在しない。そりゃそうだ。車という移動手段自体が目的だからだ。しかしその状況では、非常に車は運転しづらい。行くべき地点がないと、効率や費用を考えて選択して、どの道を選択して、というゴール逆算の選択と決定がまったくできないのだ!これは辛い。
ペーパードライバーで、車の運転と周囲との安全確保で手一杯なので、そこにさらにこの「決定できない問題」が発生すると思考のシェアに余地が本当になくなる。これは危険である。
結局のところ、父親と話しつつ、だいたいここ行こうと誘導してもらって、ある程度まで走って。でもってそこからはわりと簡単で、なぜなら最初に車を借りた駐車場に返さないといけない、という目的地がついに生まれたからである。こうなれば、ゴール逆算の選択が機能する。しかも運転も慣れてきたので、わりとスイスイ行ける。

気になったのは借りている時間の期限が近づくことだけど、タイムズカーシェアの場合は車のモニタに、貸出時間の30分・60分延長をボタン一発でできる機能がついているので、延長すればいいだけだった。これは便利(とはいえ次の人が借りる予約が入っていると延長できないので、最初から余裕もった時間借りたほうがいいのは確かだ)。

あともうひとつの気づきは、知っている道は圧倒的に楽だということだ。ぼくの場合は自転車で都内を各所に移動するので、大きい道はけっこう知っている。そこを走るときは、信号がどこにあるかとかもナビを見るまでもなく分かっているので、マインドシェアが道を気にすることに割かれず、無意識的な全体感覚でドライブできる。そうするとより安全だし、楽しいということ。 自転車で走るときとの違いが色々わかって面白いし、あとは自転車の人との車の関係も車側から分かるので、自分が安全に自転車を走らせるために気をつけるべきことを気づけるというメリットもあった。

ということでまとめ。
「車の運転は目的地設定が大切。たとえ運転練習がメインでも、ちゃんと目的地を決めることで安全で楽しく実効度合い高い練習になる。」
「道を知っていると安全で楽しく運転しやすい。言い換えると知らない道を走るのは、そこに意識が相当持って行かれることを念頭に。」

最後に、タイムズカーシェアとCARECOのリンク貼っておくので興味ある人はどうぞ。

カーシェアリングのタイムズカープラス

カーシェアならカレコ・カーシェアリングクラブ | 三井のリパークでカーシェア

「ホモ・デウス」で対話したら、気づきを得て思考が深まった

友人の市野さんが主催する大人の教養大学に参加。これはなにかというと、本をテーマに参加者が対話して思考を深める、気付きを得ることを大切にしているコミュニティのイベントだ。
今日のテーマ本は「ホモ・デウス」。
そう、これに参加するために大慌てで先日に、同書を猛スピードで読んだのであった…。

give.hatenadiary.com

参加してみての感想とか気づきとかを箇条書きにまとめ。

■民間企業がデータ至上主義の主体者であり、それが過去と違うと気づく。神の時代は、教団や宗教組織が主体者。人間至上主義(分立)の時代は国家が主体者。自由主義の時代は個人が主体者。そしてデータ至上主義の主体者はおそらく今の世界を見回す中では、プレイヤーはデータを集めているプラットフォーム企業。これは、企業が国家を超える力を持つ時代という昨今の言説とも通じるなーと思った。さてそうなると、企業は国家、個人、宗教、あるいは他の企業とどういう系をなしてデータ至上主義を実現させていくのか(あるいはさせていかないのか)。

アメリカvs中国の経済対立が起こっている状況と、データ至上主義の関係性。上に書いたとおり企業がメインプレイヤーだとすると、ここでいう「アメリカvs中国」という議論は、それぞれの主体をちゃんと明らかにしなくてはいけないと気づく。国家権力どうしの政治対立なのか。それぞれの国家をマーケットとする企業群の競争なのか。そこが密接不可分なのか。いやはや実はそんな対立というのは実態はなくて、ただの政治交渉とパフォーマンスの話なのか。思うにGoogleAmazonにしても確かにアメリカ発の企業だけど、タックスヘイブンとかも含めてそれまでのGMやらフォードやらの時代の企業みたいに「愛国」を謳っているわけではなくて、たまたまアメリカでしたという印象。あと、IT巨大企業の創始者たちにも色々タイプがあって、ジョブズなどの哲学はテクノロジー自由主義的であって、自由主義の強化版であってデータ至上主義を好むかというとむしろどこまでそっちとは相容れない気も。そのへん企業の哲学と実行と業績次第なので「GAFAが」みたいな話は雑すぎるように思う。

■これは対話で出てきたトピックってわけじゃなくて、このときにふと思いついたこと。データ至上主義が実現した世界ってPSYCHO-PASS (*2) の世界観にめっちゃ近いやんと気づく。というわけで年末はもう時間ないので(なぜならこれを書いているのが12/31だから)年始に漫画のほうも読んでみようかなと思う。アニメは数年前に観てとてもおもしろかった。ふとホモ・デウスの話をしていたら「あれ?似てね?」と思い出したのだ。

ということで参加してほかの人と対話したことで色々面白い気付きを得られたし、思考が深まった。ありがたし。 大人の教養大学の詳細はイベント募集サイト Peatix をチェックしてフォローされたし。 (*2)
そうすると、次のイベント開催時にメールで通知されるはず。

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PSYCHO-PASS サイコパス Blu-ray BOX 6枚組(Amazon.co.jp)

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kyoyo.peatix.com

「ホモ・デウス」を2時間半で読んでみた

ユヴァル・ノア・ハラリ著ホモ・デウス
諸事情で、上下巻あわせて2時間半で読んだ。
その感想を記す。

本の内容の解釈を正確にできてない可能性もあるのでそのへんはご容赦を。

まず、飢餓と疫病と戦争の3つを人類は克服したという前提が興味深い。
いやまだ世界には飢餓が、疫病が、戦争が、という人はもちろんいるけど、統計と歴史を見れば基本的にほぼ克服したというほうが正しい。
このあたりはスティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」とも通じる(ってまだそっち読んでないんだけど…)。

その先に人類が目指すものは不死と幸福であり、それに対しては科学技術的な介入が進むだろうという推測。なるほど。そうかも。

そしてそこから、ホモ・サピエンスとは何かという話へ。
人間の意識は解明されていないもののアルゴリズムで整理されうるものの中にあるだろうし、そして感覚や情動がアルゴリズムで説明がつくのであれば、人と動物の差分はなんなのかと。
実際、これもそうだろうと思う。何も差はなかろう。差があることにしたいのは特別であることが社会意識に必要だから。

話は宗教と科学へ。実は科学と宗教は対立するものではない。宗教が倫理担当、科学が実証実用担当。そこの両輪がハマることで科学もますます育ち、そしてそこから成長を希求する資本主義は生まれ加速していく。

しかし科学の進展により、神が人間の上に立つ世界では説明がつかなくなってしまった(それでも人は宗教と神を信じたがる…そんな人たちもおそろしくたくさんはいるが)。
そこで人間至上主義が代わりに立ち上がってきた歴史。
明確に人間至上主義という表現で歴史の中で扱われてきたかは私は知らないのだが、たぶんここはハラリの説なんだろうな。

人間至上主義は3つあって、社会人間至上主義(=共産主義)、進化的人間至上主義(=ナチズム)、自由人間至上主義(=自由主義)とあって、自由主義が勝ち残ったのは第二次大戦に勝ち、冷戦に勝ったから(あるいは他の主義が破れたから)。でも自由主義が勝てたのは核兵器による膠着(一発撃ったら反撃して世界が滅びることをどっちもわかってるゲーム)のおかげ。自由主義がすばらしかったからではない。
このへんの冷静な歴史にもとづく洞察が気持ち良い。

というわけで自由主義は勝ったんだけど、自由人間至上主義も続かなくなりましたよ、なぜなら、というのが本書のミソ。
だって、自由意志ある人間のための自由主義だったはずがそもそも科学の進展により自由意志なんかないじゃんと分かってしまった。あとは分割不能な自己というのもないよねというのも同じく科学で分かった。もはや前提揺らいでますね、とハラリは鋭い。
となってきたところに加えて不死と幸福という「人間の強化、アップグレード」の方向に行くしかないという前段の話がここでつながってくる。

もう人間は自分でなんかを決めるんじゃなくて、もっと優れたアルゴリズムに決めてもらえ、という世界が来るのでは?というかある程度は来ていて、それがデータ至上主義。

ハラリはデータ至上主義が取って代わる中で、ホモ・デウス階層(?)が誕生し、多数のホモ・サピエンスたち(=データの一部)と分かっていく世界を予想している。
でも別に本書を予言の書にしたいわけじゃないんだ、外れてほしいからみんな考えようぜ、という締め。

ということでスーパーざっくり本論の振り返りと、ちょいちょい感想。忘れてた部分は ホモデウス図解、要約してみた (*1) を参照した。

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改めてぼくの考えまとめ。

いやはやハラリすごいね。よくここまで整理して、ファクトベースの論理構造を打ち立てたなと。
一方で論理だけじゃなくてハラリ自身の価値観が根底にあるというのがおもしろい。
彼は同性愛者であることを公表している。そして、ヴィーガン(動物性のものを食べない)。
キリスト教はじめとした異性愛こそ唯一許されるという一神教的価値観の束縛から外れていて、そして人間は動物を支配する、動物とは別物だという近代以前の倫理観ではなく、動物と人間の違いはないという現代科学にもとづく倫理観の立場にいる。

ぼく自身は生物学&神経科学の知見を重視する立場なので、自由意志ならび分割されない自己というのは虚構だというのは、まったく違和感はない。
そもそも自由主義陣営と共産主義陣営との対決で、核の膠着がなかったら共産主義が勝っていたんだとすると、その世界には自由主義はなく、要するに今この世界の主流だと思われている自由主義も、偶然生き残った、いわば自然淘汰の結果みたいなもの。
歴史を紐解き、有史以前に遡れば、そこにあるのは現生人類が、我々が歴史的進歩と称するような変化を起こさずに生きていた期間が長かったという事実。
その状態から、定住、農耕、組織化、ヒエラルキー形成、民族の対立と交流、そして国家の形成、工業化と進んできたこのプロセスもまた、ホモ・サピエンスの中における自然淘汰プロセスでしかない。ドーキンスの言葉を借りるならジーンではなくミームでの変容を重ねてきた、と思う。

この先、仮にハラリの言うデータ至上主義が支配的になると、ミームの担い手がついに人からデータ(ならびにデータを扱い決定を下すアルゴリズムとそのシステム)に委ねられるということになるだろうか。 それは正直とてもおもしろいと思う。
ディストピア? いやいや、それを言ったら自由主義の観点に立てば共産主義が支配する世界のほうがよほどディストピアではありませんか。そして共産主義だと、戦争はともかく飢饉、疫病という歴史上のもっとも大きな苦痛を克服できてなかった可能性はある。
データ至上主義が、自由主義を引き継いで(?)仮にすべての人の最低水準の生命を救ってくれる前提を崩さない方向もキープするならば、自由意志も自己もないとしても、かつて自由主義が明文化した「平和」や「福祉」を守ってくれるのだとしたら。
それは望まざる世界?望ましい世界?
でもそもそも「望む」って誰が、って話。自由意志なき人類の共同主観?

最後ただの雑記。

悲観というのは未来が不確かだから生まれるのかなと思う。もしも確かに未来の道筋が明確だったら凡そ諦観にしかならないだろう。ここは改めて歴史から学びたいところであるが。永劫に変わらない時代が続くように感じられる世界があったら、そこは諦観が主流なのだろうか。あるいは管理されたなかで管理されたことも気づかぬまま生化学的幸福を与えられていたらそれはどうだろうか。

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 Amazon.co.jp

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 Amazon.co.jp

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*1

note.mu

(そのほか参考記事メモ)

wired.jp

blog.goo.ne.jp

medium.com

honz.jp

シン・ゴジラを1年間で23回観て分かった、飽きが来ない3つの理由

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タイトルどおりなんだが、今年の1/1から12/16までで、シン・ゴジラを23回観た。

2016年に劇場で2回観て楽しんだあと、2017年には結局観ることがなく。
2018年のお正月にレンタルビデオで借りて観てみたら、ここでドハマリした。
これはもうブルーレイディスクを買うしかないと思って即座に購入し、そこからすごいリピート率で観始めるようになるのだった。

通常、フィクションの映像作品というものは「ネタバレ」を忌避するカルチャーがある。
ストーリーの核心を事前に知ってしまうと興が削がれる、という共通理解がそれの前提にある。   しかしながら、好きで好きで何度も楽しむ作品についていうと、むしろネタバレどうこうではなく、詳細が頭に叩き込まれているからこそ、何度も観たくなるのだ。
お気に入りの映画やアニメというのは得てしてそういうもの。
話の筋を知っているのみならず、表現のディテールまでもが脳に焼き付けられているからこそ、いざ映像を再生したときの、ビジュアルと音の脳内イメージとの一致が快感を生む。

そうはいっても短期間で同じ映画を何度も観たらさすがにぼくは飽きるだろう。
と思っていたら、実際まるでそんなことがなくて自分自身をびっくりし続けさせたのがシン・ゴジラだ。

抽象度を上げてかんがえてみよう。
まず繰り返しに脳が飽きる状態を0から1の間で数値をつけてみるとしよう。1に近いほど飽きている。これをA値とする。
つぎに、知っているからこそ起きる一致の快感度合いも0から1で数値をつけてみよう。1に近いほど快感が高い。これをB値とする。
A値とB値を比べ、前者が後者を上回っていると脳が感じると、いよいよ飽きたという実感が脳を支配し、その作品を観る頻度が激減する。

ぼくの場合もたしかに今年1月は何回もシン・ゴジラを観ていたけど、さすがに2月くらいから目立って回数が落ち始めた。それでも驚くべきは、ぼくの記憶が正しければ、1度も本作を観ない月がないままに、12月16日のテレビ放映日を迎え、今年の鑑賞を終えたのだった。

では、どうしてそこまで飽きないのか。
理由は3つあると思うに至った。

  1. 絶対的な情報密度の濃さ
  2. 個人間感情と物語の疎結合
  3. 現実事象とのラグランジュポイントの変化

それぞれに説明を試みたい。

1. 絶対的な情報密度の濃さ

シン・ゴジラの登場人物たちはとてつもない早口だ。
Web記事より引用する (*1)。

今回はそのプリヴィズを、自身が代表を務める「スタジオ カラー」の手練れを率いて作成し、さらには声優に「早口で」台詞を読んでもらうことで、庵野は、通常であれば4時間分にあたる分量の脚本が、2時間以内に収まることを事前に証明してみせた。

4時間分のセリフを2時間映画に放り込んでいる。情報密度が高くなるのも必然だ。

2. 個人間感情と物語の疎結合

これは上記1とも関連している。
あまりに早口で、ストーリーラインを爆速で無駄なく駆け巡る展開であり、そこに登場人物たちの個人間感情がほとんど絡んでこない。

たとえば、映画でやりがちな、主役たちの恋愛情景や死をめぐる葛藤のようなものが何ひとつない。
それがすなわち個人間感情とストーリーラインの結合を薄くさせ、繰り返し何度観ても食傷を起こさない。
シン・ゴジラは、油の濃いとんこつラーメンではなく、流れるような旨味に彩られているものの毎日かっ喰らうことを前提とした蕎麦なのである。

3. 現実事象とのラグランジュポイントの変化

言うまでもなく、シン・ゴジラ東日本大震災原発事故をめぐる日本の対応を念頭に描かれたポリティカル・フィクションである。ゴジラの名を冠しているものの、過去のゴジラ作品との時間的関係性は一切なく、ゴジラなる生物があの世界に登場したのは初めてという設定だ。

過去のゴジラ作は、どこまでいってもゴジラという怪獣を中心に世界を作らないといけない怪獣映画。それは視聴者をファンタジー世界につれていく義務を背負っている。そうなると、最初の1回2回は良くても、繰り返しの中で視聴者もさすがに同じファンタジーを受け入れなくなる。
対してシン・ゴジラは、状況映画である。日本国が未曾有の災害に巻き込まれて政府が右往左往することを描くのが目的だ。そもそも作り手の意志として、ファンタジーに誘うつもりがない。
かくして、視聴者は状況の観察者として、世界に足を踏み入れることになる。そして、それぞれの角度で世界を眺め、2時間経つとまた元の世界にリリースされる。
世界に踏み入るたびに、現実が変化しており、また現実に対する自らの態度も変化している。

たとえばぼくは今年福島県沿岸部に震災後に初めて行き、被災地で苦闘を重ねた方々の話を聞いた。それにより、ぼくは初めて震災の影響ということを内的に捉える経験をした。そして、シン・ゴジラに対する印象もまた変わってきたのだ。
映画自体はおなじでも、視聴する主体の内面が変わっている。

ここで、無理くり感はあるが、ラグランジュポイントという概念を持ち出したい。ここでは、「多天体により重力が釣り合い0となり静止する地点」という意味で使っている。
視聴者は、現実と虚構の重力の引き合って釣り合う絶妙なるラグランジュポイントに静止しながらも、次にその世界にやって来るときには経験を踏まえ、鑑賞中には、前回とは異なるポイントに意識が置かれる。それがすなわち、飽きなさの正体である。

ということで、amazonアフィリエイトリンクを貼っておくので、シン・ゴジラを年末年始に観たくなった人はここから買ってほしい。ぼくに数十円入るのでw

シン・ゴジラ Blu-ray特別版3枚組
シン・ゴジラ DVD2枚組
シン・ゴジラ Blu-ray特別版4K Ultra HD Blu-ray同梱4枚組

が、2018年12月現在はPrime Videoで普通に見れるので、Prime会員はそれで観たらOKだ。

シン・ゴジラ Prime Video

Prime Videoだと惜しい点は、日本語字幕がつけられない点だ。
シン・ゴジラの情報量の多さと情報の異質さを味わうには、本当は字幕つきがベスト。ぼくも今年の23回の鑑賞のほとんどは字幕付きである。最初はそのやり方に気づいてなかったが、あるとき字幕をつけたらさらに視聴が楽しくなったので、以後付けている。

「ですが、総理。アフィの利益のために読者に犠牲を強いるのは、覇道です。」
「我がブログでは人徳による王道を行くべき、という事か。」


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庵野秀明が『シン・ゴジラ』に埋め込んだ“革新”と“破壊”|映画(ムービー)|GQ JAPAN