ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

Podcastが聴かれるということ

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Podcastの配信を続けていると、時々面白い事が起こる。 ある学校でPodcast番組を学生たち(高校生)が作るという企画があり、その企画の中間振り返りのようなイベントにコメンテーター(?)として呼んでもらった。 それは、企画側のメンバーがぼくがPodcastをやり続けているということを知っていてくれたからだ。

で、実際に学生さんたちが作っているPodcastを聴いて、感想を述べたり、その場で寄せられた質問に対して一生懸命考えて答えたりしてみた。

基本的にぼくのPodcastへのスタンスは、本当にただただ趣味である。言いたいことがあって、それをこのブログのような文字言語で書くよりも、対話的な音声発話で発信してみたいという思いで取り組んでいる。でもそれが仕事になるとはまったく思っていないし、プロを目指しているわけではない。

それでもやり続けていると、実践と失敗、成功や、課題解決のための試行錯誤の小さなフィードバック・ループの繰り返しによって、いろんなプラクティスが身についてくる。ただ、それをメタ的に言語化してみるということはほとんどなかった。なので、今回機会をもらって言語化できたり、それを材料にして対話できたりしたことはすごく面白い機会だった。

ぼくは音楽や映像制作などのジャンルは本当に知見がないので何もいえないが、少なくともPodcast制作に関していうならば、年齢や経歴と、コンテンツの魅力にはほとんど関係がない。いやもちろん、その人ならではの経験があるからこそ話せるネタというのはたくさんあるから当然変わった経験をもっている人はコンテンツの材料に強みがあるというのは間違いないんだけど、それが聴き続けたい魅力があるかどうかは直接関係はないように思っている。別にいくらユニークな経験や、莫大な知識をもっていたところで、聴きたくならない話し方やスタイルであったら聴くことはない。逆に、高校生であろうが誰であろうが、聞き手にとって魅力を感じたら聴き続けるし、次も聴いてみたい。そういう意味では、表層的な肩書に左右されない、「語られるもの」「配信されるもの」に対する受け止め方のマッチングだけがある、といえるんだろう。 そこがいい。別に聴かれないからといって、それを否定的に受け止める必要すらない。それはただマッチングが起こっていないだけかもしれないからだ。

なので、やっている企画や番組について臆せず発信していくことは大事だと思う。そのうちに誰か、1人でも2人でも聴いてくれる人が出てくる。そしたら、その1人や2人に向けて届く言葉を紡いだらいいんだと思う。実際ぼくはそうやっているし、それで楽しい。

Facebook メッセンジャーのリアクション絵文字がカスタマイズできた話

友人とFacebookメッセンジャーでやりとりしていたところ、ふと予想もつかないメッセージが送られてきた。

「めっちゃ怒ってますよw」

え?なんのこと?別の人に誤送信したの?と混乱していたら、説明してくれた。

「あるあると思いますが、スタンプが怒りマークでしたw」

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あー、なるほど。メッセージに対してつけられるリアクションで、「サムズアップ👍」の絵文字を送ったつもりが、間違えてその隣にあった「怒り😡」の絵文字を送っていたのだった。 そのあと、友人と「なんでこんな紛らわしくて不便な仕様なんですかね」とFacebookの文句を言っていたのだが、ふとそこで思ったことがあった。 「Facebookは世界中に20億人のユーザがいて、付帯するメッセンジャーを使っている人も多分10億人かそれ以上かのユーザがいるなかで、こんな不便な仕様に文句を言う人がいないわけがない。という数十万単位で文句が寄せられているはずだ。それに対して、優秀なFacebookのプロダクトチームが放置し続ける、なんてことがあるんだろうか?」 と。

そういう思いで、改めてメッセンジャーのリアクション機能を少しいじっていたら、すぐに発見した。リアクションの絵文字のデフォルトの6種類をカスタマイズできることに。 操作方法は簡単で、6種類のマークの右隣にある「+」ボタンを押すと、もっとたくさんの絵文字リストが出てくる。そして、6種類の絵文字の中で、変えたい絵文字を選び、下の方のリストから好きな絵文字を選べば、入れ替えることができる。

なんと、こんな機能、まったく気づかなかった。いつからあったのだろうか。

メッセンジャーにリアクション機能が実装された当初にはこの絵文字カスタマイズがなかったことは明らかである。というのは、2017年3月のこの機能のリリース告知の記事の中のスクリーンショットには、この「+」が表示されておらず、指定された7種類の絵文字から選ぶしかできなかったことがわかるからだ。

about.fb.com

それが、いつの間にか、絵文字のカスタマイズができるようになっていたのだ。いつなんだろう。

2017年の記事のスクリーンショットを見ると、その時から、怒り絵文字とサムズアップが隣同士にあることがわかる。なるほど、これはリリース当初から、世界中でおそらくすさまじい数の「リアクション絵文字打ち間違い」が引き起こされていたことが想像できる。そして、たくさんの苦情がFacebookには届いたことだろう。その要望は、なんならもう2017年4月くらいには十分認識していて、さてあとはその機能改修を実装するのかどうか、実装するならどのような形か、という判断と決定にまもなく話は移っていたのかと想像している。 もしかしたら、2018年くらいには、既にこのカスタマイズは実装されていたのだろうか?誰か詳しい人がいたら教えてほしい。

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ただぼくが今回気づいたことは、ぼくにしても友人にしても、このメッセンジャー絵文字リアクションがカスタマイズできることは全く思ってもみなかった、ということである。機能実装されて何年経ったのかわからないが、ぼくにしてもその友人にしても、メッセンジャーを日々相当に使っている。それだけ使っていながら気づかなかったのだ。

ここからわかることはなにか。 あるソフトウェア・プロダクトのUXに関して、一度ユーザが慣れ親しんだ動作は、よほどの大きな構造変化がない限りは変わることがなく、その結果無意識で使い続けるため、新たな選択肢が機能として追加されても、まるで気づかない、ということである。しかも、致命的な不具合の改修ではなくて、せいぜいNice to Haveの機能の話なので、そこはより一層気づかないのだろう。

今回たまたま「Facebookの開発陣がそんな問題を放置し続けるわけがない」というFacebookに対する信用の高さがあったから、「なんらかの解決方法がすでに実装されているはずだ」という予想にいたり、そこからこの「+」ボタンの発見に至れたけれど、これは世の中で多いケースかというと、いやそうではない気がする。

世の中のプロダクトで、そこまで作り手側の技術力なり実装力なりがユーザから信用をもたれているケースってどこまであるんだろうか。直感としてはあまりないような気がする。逆にいうと、そこまでの信用を勝ち取れれば、それはユーザのロイヤリティが高いということでもあるだろうし、目に見える部分以外としてのブランドの強さや価値創造の源泉となっている、そうも考えられるような気がしたのだ。

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最後に、このリアクション絵文字カスタマイズについて気づいたことを補足して終わりたい。 PCブラウザのメッセンジャーで絵文字カスタマイズをしたのはいいのだが、そのあとでスマホメッセンジャーアプリ(iOS)を見たら、そちらではカスタマイズは同期されていなかった。iOSアプリのリアクション絵文字を変更したあとで、Androidでも同じように見てみたら、やっぱり変わっていなかった。 モバイルアプリにはこの変更は同期されないらしい。 そこは同期してくれたらもっとよかったんだけどな、と思いつつ、しかしそんなことを同期させたところでFacebookにとって大きな価値追加となるようなユーザ体験向上が起きるかというと、たぶんほとんど起きない。という意味で、その実装はしないという判断がされているんだろうなと思う。し、実際それでいいのだろう。

広告だらけで見るのも疲れるようになってきた感もあり、また若年層のサービス離れなんかも言われて久しいFacebookではあるが、なんだかんだいって自分は依存して頼っていて、そして信用してるんだなぁと思った。

Wi-Fi 6 規格の無線ルータという名のドリル

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まだ開けていないのだが、Wi-Fi 6規格対応の無線LANルータを買った。早く開けたいと思いつつ、ルータを自分で交換したことのある人はわかると思うが、それの作業をしているときはインターネットが使えなくなる(もちろんスマホの回線ではネットできるが、自宅の回線では使えない、という意味である)ので、接続がうまく行かないトラブルが発生したときに、情報を調べにくいという罠ががある(笑)。それもあって、届いてはいるもののまだ開けられていない。

自分のための備忘録で書いておくと、Wi-Fi 6とは IEEE 802.11ax という規格名称となる。 b → g → a → n → acときて、6代目のax。そういえば昔はgなんて規格でネットに繋いでいたものだ。思い出すとなつかしい。

www.tp-link.com

とそれはさておき、正直なところWi-Fi 5であるところの11acでも充分な速度と安定性は出ていると思っている(これは私の普段いるところの話)。ときたま、家の場所によっては電波の強度インジケータがMAXではないことがあるが、かといってネット接続が不安定になるかというと、まあたまにそれを感じることもあるんだが、果たしてそれが規格のせいなのかもわからない、という程度。要するに、ルータのWi-Fi規格を上げる必要性はたぶんない。 でも、それでも規格をアップデートしたルータを買いたいと思ったのは、ひとつには、今持っているPCがWi-Fi 6に対応しているから、というのはあると思う。 Wi-Fi 6は無線ルータの側の規格が対応しているだけではだめで、スマホやPCなどのデバイス側も規格対応していないと意味がない。そして、去年まではぼくはそれに対応したデバイスを1つも持っていなかった。しかし今、所有しているPCのうち2台がWi-Fi 6対応となった。こうなると、もうちょっと、試してみたいわけだ。

あとは、どの程度技術進歩ならび機器実装度合いが進んでいるかを単純に肌で感じてみたいんだと思う。もっとも肌で感じるというのは比喩でしかなく、あくまで通信速度だし、そもそもいま時点のWi-Fi 5接続でさして不都合もないのだから、「速さ体感」はしないかもしれない。しれないが、接続速度測定サイトの数字は見ることができる。もはや、それが楽しみなのだ。 というか、その接続速度測定サイトで一番最初に数字を見る時の楽しみのために、わざわざルータを買い替えたのかもしれない。

何をやっているのだ、と思う人もいるかもしれないが、いや、ガジェット好きというのは得てしてこういうものかなと思う。 実利があるというのを言い訳にして、ほんとは新しい機器や規格の実装をこの手で試してみたいのだ。

M1 MacBook Airを買った時のブログで「顧客がほしいのは穴じゃない、イケてるドリルだ」という話を書いたが、この無線ルータの規格もぼくにとってはそうだと思う。顧客が見たいのは、速度測定サイトに出る数字なのだ。

というわけで今回買ったのはこのルータ。まだ開けてもいないので使い心地に関するレビューはまったくなにもないが、いいものだと思う。TP-Linkが好きなんだよね。

amzn.to

辛味のジェットコースターとしての中本

gigazine.net

「辛味は体内で『痛覚』の一種として処理されています」

(中略)

ロジン氏は「例えば出産のように、人間はより大きな報酬を得るために、慣例的な痛みに耐えることができます」と話します。お酒を飲んで楽しい気分になった翌日は二日酔いに悩まされます。違法ドラッグで生命を危険にさらしてまで酩酊状態を求める人間も存在します。ロジン氏によると「激辛フードへの愛」はこれらの2つの要素が合わさったようなもので、出血などの危険のない痛みを求めて、無事食べ終えたことを楽しんでいる状態とのこと。ロジン氏は「それはジェットコースターのようなものです。トウガラシを食べることはマゾヒズムの新しい形なのかもしれません」と結論づけています。

だそうである。 肌感覚として、そうだよなと思っている。 ジェットコースターのようなものというのは本当にそうで、栄養観点での実利はほとんどなにもないと思う。むしろ、食べたあとで唇がヒリヒリするとか、あるいは翌日にお尻が痛くなるとか、どう考えてもマイナスのほうが多い。 それでも辛いものを食べたくなってしまうのは、これはもう中毒というのが近いんじゃないだろうか。

もちろんニコチン中毒やアルコール中毒と違って、身体・感情に明らかに禁断症状(震えや精神的不安定)というものが出るということはなかなか考えにくい。そういう意味では「中毒」と表現してしまうとちょっと不適当な感じがするので「中毒みたいなもの」くらいが妥当かなとは思う。

だからまあ考え方によっては、辛いもので中毒っぽくなることで、むしろほかのリアルに問題が大きい中毒が避けられるというケースがもしあるとするなら、辛いもの嗜好はうまく使える可能性もあるのかもしれない。 酒、タバコ、ギャンブルは一切手を出さないが、時々すんごい辛いものを食べてヒーヒー言って、ジェットコースター感覚を満喫する。うん、それはそれでなんかとてもバランスが取れてるような気がする。もちろん毎日唐辛子何個も食べないと我慢できないというレベルに行ってしまうとちょっと身体的にも良くなさそうだけど。

辛いものに関していうと、自分で作る料理を劇的に辛くするのってむずかしい。なぜなら、そこまで辛いものを作るという料理マインドセットが頭にないからだ。おいしいもの(=塩や旨味のバランスが取れていて、不十分な加熱がなかったり、硬くて食えないものがなかったりする状態)を目指して作ることはできるが、辛くする、というのにあまりうまく思考を向けることができない。これは慣れの問題なのだろうか。

一味唐辛子ハラペーニョソースを用意して、サラダなりピザなりにかけたらいいんだけど、それはそれで別に辛いものを食べるのが第一義となるわけじゃない。

ということでいうと、辛い外食に行くとか、辛い調理済み食品(カップラーメンとか冷凍らーめんとか)とかを食べる方が、自分の中での「辛いものを食べた」というジェットコースター的感覚の満足は満たしやすい気がする。 自分好みにつくって食べるよりも、誰かに作ってもらったもののハードルを越えるほうが辛いものに関しては精神的に満足しやすい傾向にあるのではないかと思うのだ。

なので、ぼくは蒙古タンメン中本に行くのが好き。 中本の場合は、単に辛いというわけじゃなくて、うまい、がある上での辛い、なので好き。ただ単に辛いものを食べることには別に実はそんなに興味がないのだ。うまくて、辛い。その順番が大事。 と書いていたら中本に行きたくなってしまった。

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www.moukotanmen-nakamoto.com

結婚はただの契約であり、ゲームである

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結婚して1年10ヶ月ほどが過ぎた。 深く考えずに結婚したが、少し時間が経って思うことは、深く考えなくて本当によかったな、ということである。

結婚、を現代日本で考えた時に、変数というかはっきりいえば雑音というか、とにもかくにも意思と思考に阻害的に働くような外部情報が多過ぎると思う。結婚という制度や事象、あるいはその当事者を研究対象として研究する分にはなかなか面白いと思うが、自分が結婚するしないというようなことを考えた時には、情報はたくさんあっても自分の選択をサポートはしてくれず、むしろ情報の海に沈んでいく確率のほうが高いんじゃないかと思っている。

いまぼくはおくさんと過ごしていて、きわめて「日常的幸福感」を高く感じている。激しくスパイクするような非日常的快楽ではない。そんなもんは、そもそも一度もぼくはおくさんとの暮らしで感じたことはないし感じたいと思ったこともない。

じゃあこの日常的幸福感に対して、結婚というものがどの程度寄与しているのかというと、はっきりいって「結婚」という名称のただの契約それ自体はなんの寄与もしていない。なぜならそれは契約でしかないからだ。

うまいたとえかはわからないが。たとえば新しいiPhoneが発売されて、それを買って満足するひとは、購入契約それ自体に満足しているわけではないだろう。結果的にiPhoneが手に入っているという状態であるとか、あるいは使ってみての使い心地の良さとかに満足しているはずだ。ただ、購入契約が結べないと所有にいたらないので、幸福の理由というよりは、不満の原因になることはあるだろう。自分にお金がなくて買えないとか、在庫切れで買えないとか、なんでもいいがなんらかの理由で購入契約を結びたいのに結べないことが不満になる。

結婚というのもただの契約だとみなせると思っているし、ぼくはそうしてる。その契約を結ぶことで確かに発生する効力は存在するが、それはコントロール可能な範囲にある。その契約の存続よりも破棄のほうが双方にとって有益だという合意が形成されるときには、破棄したらいい。そしたら契約は終わる。

というくらいで考えておくと、結婚の使い道はかなりあることに気づく。 法的な関係というのこともあるはあるんだろうけど、意識として、「この相手の健康と幸福に対して自分ができることをする」というルールのあるゲームだと捉えると、このゲームはとてもやりがいがある。 というか、そういう捉え方ができない人にとっては、結婚は重荷でしかないだろう。はっきりいえば、そう感じるなら結婚なんかしないほうがいいと思うし、しても変だと思ったらそんなもんは破棄したほうがいいと思う。 もちろん相手との関係性に依る、というのはそれはそうだろう。最初の結婚、2回目の結婚が悲惨なものだとしても3回目の結婚はとても上手くいっています、みたいな人はたくさんいるはずだ。その人はむしろ、最初と2回目をちゃんと契約終了にこぎつけられたことを自分を褒めるのがいいんじゃないかと思う。失敗を認め、終わらせ、新たに事を始める。それに対して、賞賛と応援を送ろう、というのは別に何も結婚に限った話ではなく、起業でも慈善活動でも、なんでもそうだと思う。

昭和的価値観に染まった人にとっての結婚はなにか固定された形式があるんだろうし、ぼくはそれを変えようなんて思わないから、別に好きに生きて死んだらいいと思う。 ぼくはぼくで、自分にとって有用なように結婚という概念を使いたいと思っているし、現状使えている気がするから、正直あんまり不満はない。

ぼくは正直なところ「家族」という表現もあまりピンとこない。家族というのもまた、時代背景の中で構成された圧力の1形態だろうと思う面が多々あるからだ。だから、他人がいう「家族像」については、単に対象として興味を持つことはある、というか興味対象だと思おうとすれば無下な態度を取らずにすむから回り回って自分の評価が下がりにくいから自分に有益だと思っているからそうしているだけかもしれない。でもまあなんにせよ、自分の行動に対して他者の思想を反映するかどうかなんてものも、自分が決めたらいいだけの話だと思っている。

まあだから、結論なんでもいいんだと思っていて、とはいえ存在してる「結婚」というものに、別に正面切って戦う必要もなければ、迎合する必要もないし、自分と相手にとって有益なように使い倒せばいいんじゃないかと、そんなことを思う。

そう、最後にいっておくと、そういう意味ではぼくは同性婚が認められていないことには非常に問題があると思っていて、なぜなら結婚という制度を使い倒して得られる便益を、同性どうしで結婚したいと願う人が得る事ができないからだ。これはどうあっても認めることはできないし、これがまかり通っている日本というのはやっぱ守旧老人利益最大化国家だよと思う。

大根おろしガチャ

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最近、大根おろしにハマっている。 いや別にそんなに、突き詰めていこうとかそういうわけではない。ただ単に、食卓に大根おろしを出すことが増えたというだけの話だ。

きっかけは、焼き魚を食べる時に大根おろしがあったらうれしいな、というだけのことだった。 そこで大根を買ってきて、適量切っておろし器でおろしてみたのだが、そこで気づいたことがあった。 大根おろしをつくるってのは、めちゃくちゃ簡単だし、時間も労力もさしてかからないのだ、ということに。

料理が嫌いなわけではないが、面倒臭いことが嫌いというかやる気が出ない私にとって、まず持って手を出せないタイプの料理行動がある。たとえば、油で揚げる、とか。油の後処理とか、油はねとか、そういうことを想像するともう面倒で取り掛かることができないのだ。 実は焼き魚もそれが理由でずっと家ではやらなかった。ガスレンジの魚焼きグリルが魚を焼くたびに汚れるのがいやだったのだ。掃除がめんどうくさい。 だが、あるときフライパンに魚焼き用アルミホイルを敷いて魚を焼くと、うまく焼ける上に、片付けが簡単(フライパンを洗うだけ)と気づいたことで、焼き魚に対して抵抗が全くなくなった。

で、大根おろしについては、なんとなく「大根を買う」と「おろす」が面倒臭そうだなと思っていた。というか、大根を買ったあとに使いきれないかもしれないのがちょっと抵抗になっていた。 だが、大根は切って切断面にラップをしておけば、冬ならそうそうすぐだめにはならないということがなんとなくわかってきたこともあり、じゃあまあ大根買うか、となって、でもっておろし器を使ってみたら、ものの数分で、2人の食事ならそうとう十分な量の大根おろしが作れることがわかったので、心的ハードルがなくなったのだ。

ということで大根おろしを日々食べているが、これがめちゃめちゃうまい。焼き魚に限らず、ほぼ何の料理であっても、大根おろしをセットにすると、大根おろしの辛味とみずみずしさ、風味が合わさることで、食感がぐっと面白くなるし、おいしくなる。

もはや、大根おろしを合わせればなんでもおいしくなるんじゃないかと、そんな気すらしている。 あとは大根の部位によって辛味、風味が違うのも結構おもしろい。細くなっている先端のところはかなり辛いが、葉っぱのほう(上部)であればあんまり辛くない。 正直いって、別に大根の部位による使い分けをするほどにこだわりはないのだ。そんなことを考え出すとまた面倒臭くなってしまう。単に大根おろしを食べたい時に、適量切ってすりおろす。ただそれだけでいい。むしろ、季節や、産地、個体、どの部位かによって味が変わるなら、それはそれでランダムネスがあって面白い。 「大根おろしガチャ」そう呼んでもいいだろう。

ということで、飽きるまで当分、大根おろしガチャを日々楽しんでいきたい。 ありがとう、大根農家さん、流通小売さん、おろし器メーカーさん、そして動く我が身体と、一緒にごはんを食べてくれるおくさんにも感謝を。

10年以上ぶりに観る攻殻機動隊SACが面白すぎる理由

なんとはなしにNetflix攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXを見始めたら、もはやあまりの面白さに衝撃を受けている。

www.production-ig.co.jp

ぼくが初めてこの作品を観たのはたしか2006年、大学2年生のときだった。そのときに2nd GIGまで見て、Solid State Societyはリアルタイムではないがかなり早く観たよう気がする。んで、そのあとで2009年頃に1回くらい見返したことがあったような気もするが、およそそこから10年以上観ることなく過ごしてきた。

で、今回たまたまNetflixでSACのシーズン1(正確にはシーズンという言い方はしていないのだが置いといて)の1話から観始めたらもうなんなんこれ面白すぎ、絵も音楽も良すぎ、たまらんやろという感じになっている。

これは、10年以上観なかったから、つまり記憶がリフレッシュされたから面白く感じているだろうか? 半分はそうかもしれないが、半分はそうではないと思っている。ストーリーに付いて、詳細は覚えていないものの、たとえばシーズン1であれば、第1話が芸者による大臣襲撃事件というのは覚えているし、2話が無人多脚戦車の暴走というのも覚えている。だから、本当にフレッシュに観ているわけじゃない。むしろ、その10年以上前に観た時でもめちゃくちゃおもしろかったので鮮烈に記憶に残っているというべきなんだろう。

いま観て何が面白いのかというと、もちろん圧倒的な世界観のディテールの強さとか、今見ても十二分に美しいアニメーションの流れるような動きと、声優さんの演技と音響の完璧なマッチと、1話完結型ストーリーのまとまりのよさとか、要素的には列挙できる。だが、分解した要素の列挙が面白さの表現として妥当なのかというと、もちろん間違ってはいないが、すべてを現しているわけでもないように思っている。 要素の集合を越えた、なんらかの面白さを、ぼくはこの作品の視聴体験から受け取っているように思っている。

じゃあそれはなにかという話だが、単に思いつきとして考えているのは、「組織に関する実地感覚と知識体系が自分の中で10年前に比べて遥かに深まっているから」ではないかということだ。 10年以上前というと、ぼくはまだ新卒で大企業に入って1年働いたかどうか、という頃だった。そもそも社会に対する洞察を深めるほどの意識もなかったし、なんとなく内定をもらえた(しかし大好きだった)会社で楽しいことや辛いことがある中で働きながら、とりとめもなく思考していた頃である。自分が関わる組織といっても、その会社のなかの1部門でしかなかったし、極めて限定的な体験と知識に基づいて、ぼくは組織というものを捉えていたのではないかと思う。 しかしその後で、大企業をやめてスタートアップに入り、また並行して小規模なコミュニティやNPOに関わったりして、さらに数年してから会社をやめて独立して仕事をしはじめていろんな組織と関わりながら仕事をさせてもらうようになったなかで、組織に関する体験の経験値が、量という意味でも多様さという意味でも、20代前半の頃に比べると相当に増えていることは間違いないと思っている。

という自分の変化があったうえで、この「組織を描く」ことが1つのテーマである(と今のぼくには受け取れる)作品である攻殻機動隊SACを観たときに、そこから受け取れる感情の量と質が、かつての自分よりも遥かに生々しく、また一方でメタ的な結びつけができているような気がしている(まあこれも、気がしているだけかもしれないが)。 たとえば、少佐(草薙素子)が第1話で部下であるトグサの射撃練習の様子を見て「経費の無駄遣いだな、だが先日の射撃は良い腕だった」といいつつ、「なんのためにお前を引き抜いたと思っている。強みを生かして貢献しろ」と声をかけるところ。 このシーン、20代前半の僕にとっては、全く何も刺さらない、単なるシーンであったことだろう。 だが今の僕にはこのシーンは、 「向上心があるものの、うまく力を発揮しきれていない部下に対して、上司が冗談まじりに声をかけつつ、部下に対する期待をしっかりと伝え、それに対するアクションをそっと促す」という、マネジメントの名シーンだと感じられるわけである。 そして、トグサはこのあとで、事件の鍵である現場の料亭で起きていた謎を解き明かし、ギリギリのタイミングでの事件解決に大きな貢献をするのである。これにより、トグサは自信をつけるとともに、上司である少佐に対する信頼関係が強まったことが言外に想像されうるわけだ。

というような組織における人の動きのリアリティが、説明ゼリフではなく、なめらか演技と描写を通して伝わってくる。それこそ、この攻殻機動隊SACが、今の僕にとって圧倒的に面白く感じられるひとつの要因なのではないかと、そう思うのだ。

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