30日間新しいことをはじめるときの障壁と打ち手案
30日間の新しいことへのチャレンジを提案するMatt CuttsのTEDトーク。
3分間に凝縮された挑戦の軌跡と、リアリティがにじみ出る。
30日間続けるだけで、人はここまで変わるキッカケが掴めるんじゃないか?
そう思わせる力がある。
実際に何か新しい習慣を30日続けようとしたら何が障壁になるのだろうか。
ピックアップしてみると
・抜き差しならない事情が発生した
・時間がない
・飽きた
・忘れた
このあたりが挫折の主要要因になりそうだ。
個別に打ち手を考えてみたい。
・抜き差しならない事情が発生した
たとえば家族や自分が大きな病気にかかった、など。
このような状況で続けるのは、かなり難しい。
こういったケースは「ホールド」または「スキップ」を最初から認めておけばいいかもしれない。
ホールド → n日間できなかった場合は、n日間を後に続ける
スキップ → n日間できなかった場合は、飛ばしてOK
最初から逃げ道を作るようではあるが、これくらい予見していたほうがなんとかなる気もする。
・時間がない
これは優先度の問題に思える。
仕事や家事がある、それに追われて出来なかったとしたら、自分の中で30日間チャレンジの優先度を高く置けてない。
とするともしかしたらそれは、最初からチャレンジを始めることでなかったのかもしれない。
もちろん、始めるべきことだったけれど、心理的負荷が高くてつい後回しにしてしまうというケースも多いだろう。
そう感じるなら「量の削減による時間の短縮」を認めるといいのかもしれない。
たとえば「毎日5km走る」であれば「毎日1km走る」にする。
1kmなんて10分足らずで走れてしまい、運動にならないと感じたとしても、それでよいはずだ。
大事なのは続けること。
・飽きた
かなりの難敵、飽きである。
飽きは、慣れによる刺激の低下に起因することが多い。
であるとするなら、飽きないように創意工夫を入れることがひとつ有効な打ち手ではないか。
たとえば料理が苦手な人が、料理の腕を高めたいと思って「毎日、料理をする」というチャレンジをした場合、自分のできる料理幅が狭い人の場合は、同じようなものばかり作って飽きてしまう可能性がある。
そこで、たとえばExcelでもなんでもいいのだがリストと乱数の使える道具を用意して、そこに食材リストを適当に書き、乱数を発生させて、ランダムで出てきた食材を使った料理をする、というゲームにしてみるというアイデアを今思いついた。
自分の脳内の選択肢では決して出てこないものを取り込むことで、ゲーム性、刺激を高めることができるのではないか。
・忘れた
人間、忘れる。
特に新しいチャレンジの場合、日常習慣に根付いていないものだから、「習慣の無意識」のパワーに飲み込まれて、本当にあっさりと毎日のチャレンジのことが意識に漏れる。
チャレンジの内容が面倒くさいという意識が心理の中にあると、むしろ無意識的に忘れることでそれをなかったことにしようという脳の働きさえ起こっているような気がする。
これに対するひとつの有効な打ち手は「複数人でやる、コミュニケーションを日々続ける」ではないか。
そして今書いていて思ったが、30日間チャレンジを複数人でやる場合、同じ内容でなくても良いのではないか。
たとえばAさんは「毎日料理をする」、Bさんは「毎日3km走る」、Cさんは「毎日日記を書く」のように。でも、毎日チャレンジすることがあるのは変わらないので、コミュニケーションしてモチベートしあう動機は存在する。
と、このアイデアを検証してみたい気もする。
私はいま「30日間ブログを書く」をやっているが、この派生系として「30日間、毎日ホニャララする」同盟を立ち上げてみる、等。
特殊解を見出す旅:人生はロールプレイングで。
読んでいると、色々な感情が去来する。
私のキャリアは、大学卒業のあと、8年間、合計3社の企業の会社員(=本業)としてのみ、働いてきた。
そして今年、本業一本から「色々な仕事を並行する」の働き方にガラリと変えた。
そこで、気づいたこと。
「なぜ自分は仕事をするのか問う」
「その仕事は誰の何の役に立っているのか検証する」
「発揮する価値を自ら評価し、他者の評価とすり合わせる」
これを自分で繰り返し、他者との対話での探求とアップデートしていくことが、死ぬほど大事なんだということ。
で、自分はそれができてない。
ただ単に仕事の種類を増やすことを「副業/複業」と認識して、それにハマってしまうと、複数の期限に追われて疲弊して、気がついたら大切な時間を失ってしまっていた。という状態に行ってしまうのかもしれない。
深いフロー状態に没入し、それが複数人で集まる掛け算で初めて生み出される「感動をもたらすインサイトと、社会への卓越したインパクト」。
ここに、たどり着きたい。
そう願っているはずなのに、そのために行動する難しさ。
これは、他者の知見を取り入れながら、自分に適した働き方と働き場の「特殊解を見出す旅」ともいえる。
起業家、会社員、個人事業主、それらを組み合わせた複業家。
どの働き方にも優劣はない。
働くを楽しいと思って、ワクワクする毎日を重ねられるはず。
大企業、小企業、ベンチャー、プロジェクトチーム、行政組織、非営利組織、共同体、オープンソース・コミュニティ。
どの組織や形態であっても、社会へのインパクトを出しうるはず。
どの働き方で、どの形態で、何のために仕事をするか。
選び取り、決断して、没頭する。
それを実行し、応援し、支える人たちが繋がっている。
仕組みが回る。
その状態こそが、大事なんだと。
「旅」に触れたら、ふと思ったこと。
ロールプレイングゲームって、旅だなと。
役割を演ずることと、世界で旅をすること。それらが分かちがたく結びつくビデオゲームは多い。
“人生はロールプレイング!!” とドラクエの生みの親、堀井雄二さんは言った。(*1)
観客や傍観者でいるのではなく。
役割を選び取る。
人生の主役を演ずる。
それは、他人の人生を生きるということではない。
物語の筋を掴み、自らの意思をもって全力で演ずるがゆえに、他者との共存・協奏が起こり、かけがえない価値が生み出される。
仕事への取り組み方、そしてキャリアの中での大切な行動は。
ロールプレイングで生きたい。
(*1)
映像作品の評価、他者を理解していくこと
いま、2日前くらいにテレ朝で放送してた新海誠の”秒速5センチメートル”の録画を観た。
はじめて観たときと、面白いくらい、自分の中の印象が違った。 (*1)
初めて観たといってもそんな昔ではなく今年1月の三が日。ぶっ続けで、一連の新海作品として観た。このときは正直、映像が綺麗だなくらいしか思ってなかった。
だけど、自分の体験して学んだことを反芻しつつ、ストーリーや構成がわかった状態で、今日2回目として見ると、「この作品では、"伝えられない好き"のもどかしさの機微が描きたかったのかな」と肚落ちした。
映像作家のメッセージがすべて分かった、ということではない。ただ自分なりに納得いく解釈を見つけ出せたということだ。
この作品は、amazonやネットのレビューで、低評価の人と高評価の人がくっきりと分かれている。 (*2)
最初、作品がハイコンテキストでコンテキストが受け入れられるかどうかで評価が分かれている。という解釈をすべきなのかと思ったが、そう単純でもないと思い直した。
これは、視聴者の演出に対する理解がどこまでできているかに着目すべきなのかと思う。
どういうことかというと、具体的には、演出に対する理解がなくても絶賛して★5つつける人もいれば、よく裏まで理解して納得しても★2とか★3とかをつける人もいるんだろうということ。
何がいいたいか。
★や点数なんか見ても、なんにも意味ある情報は得られない。どころか変な先入観を得て、すてきな出会いになりうる作品を遠ざける効果すらあるのではないかと思ってしまった。
設問の設計が曖昧な点数システムに基いて数値化されたデータは、ひとりひとりに、さらに時によっても大きく変動する私達の心に新しい感覚をもたらせるかどうかの指標にはならない。
かといって、レビュー文章を読めば万事解決かというとそれもまた、文脈の共通理解がなされていない限りは鶏卵みたいなもので役に立たない。
結局一番有効なのは、自分が何かほかの理由で信頼している人がススメてくれるかどうかという属人的な情報、もっというとそれも双方向的な「情報交換」なんじゃないかと思う。
まだちょっとここらを説明しきる論理が持ててないんだけど。
さて。
他者を理解するというのもこの作品を理解する際のフレームに通じるものはあるのかもしれない。
「引き出して、傾聴しよう」という姿勢が自分を変えて、相手の持つものを引き出して、時間をかけてまさに関係を”構築”していく。
最初はよくわからないなこの人、と思っていたくらいのほうが、その後で変わる余地が大きくて、おもしろかったりするのかも もしれない。
見えるものだけを評価したがってしまうと、そのよくわからない状態に身を置くところに、踏み込めない。
見えないものに何かを見出そうという行為は、自分の安心場所(コンフォート・ゾーン)からの踏み出しだとも言える。
その踏み出しをするかしないかの、差分の蓄積が、その人が生涯にわたって他者に生み出す価値と、他者から受け取るもののの大きさ、つまり幸せの積分の総量に出てくるのではないか。
検証、してみたい。
*1
恋愛はイシューからはじめよ
最近ある人が語ってくれたことば。
1番理屈じゃいかないのが人間関係で、生まれた時からある家族関係以外に、自分個人の意思で他人と深く繋がろうとするのが恋愛
頷いた。
理屈じゃいかないのが人間関係
あらゆることを科学の目線で切り出すのが好きなのだけど、科学的に考えて、人間関係に理屈は通らない。
コミュニケーションの方法や、好かれるための行動は科学できると思うんだけど、科学と、理屈というのは実は別だと思っている。
理屈は、自分の出来上がった思考のフレームワークに対する後付の説明、というのが近い。人の好悪を、理屈で説明つけようとすると矛盾だらけになってしまう。素直に好き嫌いの感覚に従うのは、淘汰の中で獲得したメカニズムを使う意味では科学的といえるかもしれない。
生まれた時からある家族関係
この言葉は端的に、私たちの「選べないもの」をえぐり出してる。親は、選べないんだ。親のみならず、きょうだいや祖父母も含めて。
どんなに機会の平等をつくるために、政治やアントレプレナーたちが努力しても、「選べない出生時点の家族の違い」は永久になくならないだろう。
むしろ、そこをなくそうとすると、とかく人間の無差別を求めるということになり、どこか社会主義的ディストピアの香りが濃厚になってくる。
話を戻すと、子は親を選べない以上、親は子に期待を押し付けないことがフェアネスなのかなと思う。
ケーキを2人で2等分するときに、ナイフを持って切る人と、選ぶ人を分ければフェアになる、というエピソードがあるけれど、それと通じる何かがある。親はナイフを持ってケーキを切り分けることができる立場にあるけれど、選ぶ権利はすっぱりと、子どもに手渡すといいんじゃないですかね、と。
別に、年間300万円かかるトップクラスの学校に入れることが親の務めではないはずなんだよな。
話が逸れてしまったが、動かせない関係だからこそ、選ぶことへの本質的な配慮があってよくて、それがつまり愛なんじゃないのかとも思う。
自分個人の意思で他人と深く繋がろうとするのが恋愛
恋愛は基本的に意思が実現する可能性の例といえる。
相手が自分の思いを受け入れてくれるかどうかはともかくとして、好きになって行動したら、その意思の先に何かが作られるものだ。と、言われる。
深く繋がるというのを考え出すと、そもそも私たちはどうして繋がりたいのかという話になる。たぶんだけど、進化の中で仕組みとして、理解されることを幸せに思う何かが組み込まれたんだろう。
私たちは、べらべらしゃべってばかりの人よりも、うんうんと頷いて聞いてくれる人のほうが好き。これはつまり、基本原則としては、理解しようとするのはエネルギーがかかるしすぐリターンが見込まれるものではない。一方でしゃべって理解されると感ずることは、たぶん脳の報酬系にヒットする。
それでも尚、理解したいと願うのは、ひとつこれは恋と呼べるのかもしれない。
何を届ければ、気持ちが伝わって、振り向いてくれるのかを考えると、心臓の鼓動が早まってくる。
その気持ちに、素直であることが、踏み出す一歩なのかもしれないが、そこへの勇気が出ない人もいる。ザ・私。
どうしたら、恋を行動に落とし込めるのかと思い悩むのは、実はイシューの立て方がスジワルだったりして!? (*1)
因果が逆で、行動を重ねることが恋を感じるのに必要なのかも?
そのへん、良いイシューを立てて実行してみたい。
*1
共創と協奏を楽しむブログ企画にしよう
ブログ書くぜ企画 2017 が始動した!
今回のルールはとてもシンプルで、参加メンバー各人が、月初に宣言したペースで、その月に"ほぼ毎日"ブログを書こうというものだ。詳しくは、参加者の河原塚さんのMedium の記事 (*1) に書いてあるのでここでは省く。
さて私の2017年1月の達成基準は「20本」に設定!
根拠は特にないけど、さすがに12月、毎日書くのは辛かった(苦笑)。それを踏まえて、3日で2本くらいなら、書けるかなと思った次第でもある。
あと実際、既に1月4日と5日は書くのを失敗している。
1月1日から3日までは書けたのだが、やはり企画始動前だったことが大きくて、モチベーションの糸が切れてしまった。
この「参加者どうしで続ける」というゲームの形をとることが大事なんだと改めて気付かされた。
モチベーションということに関して、ひとつ思い出したのは、アメリカのライター/作家、ダニエル・ピンクが著書で書いた「モチベーションを人間を動かすOS(オペレーション・ソフト)とみなす」考え方だ。
Amazonにのっている情報から引用する。
コンピューター同様、社会にも人を動かすための基本ソフト(OS)がある。“モチベーション1.0”は、生存を目的とする人類最初のOS。“モチベーション2.0”は、アメとムチ=信賞必罰に基づく、与えられた動機づけによるOS。そしていま、自分の内面から湧き出る「やる気!」に基づくOS“モチベーション3.0”にアップグレードする時がきた!
(*2)
この本はとてもおもしろくて、数年前に読んだ時に、自分の仕事のモチベーションは、どのレベルにあるかと考えたものだった。 しかし今日気づいたのは、今回のブログ書く企画2017については、このモチベーション1.0、2.0、3.0のどれでも捉えきれないということだった。
参加メンバーみんなで、"キョウソウ"を楽しむのが企画のコアだと考えている。
キョウソウの1つ目は、「共創」だ。お互いのブログの投稿を読み合い、日々のフィードバックから刺激を受けることで、自分のインプットとアウトプットが変化していく。
キョウソウの2つ目は、「協奏」になる。オーケストラというほどに指揮されているものではないが、しかし一定のレギュレーションの中で各人が綴るものには、リズムがあって、それが参加者どうしで合わさることで、1人では出せないアウトプットの総体になる。
12月の企画はどっちかというと「競争」と「競走」に軸を置いていた。ダニエル・ピンクの言うモチベーションでは、2.0の「書かないと罰する」と3.0の「書きたいことを書く」の両軸だったかと思う。
今回は、ペナルティもないので、ひたすらに自分の立てる目標の遂行に励みつつも、無理をすることなく個々人のリズムを刻むこと、余力をもって互いのコンテクストへの踏み込みを活性化することができるのではないかと期待している。そこから「共創」と「協奏」を楽しむモチベーション4.0の扉が開かれるのではないかと、ふと思っている。
たかがブログ、されどブログ。
楽しもう!
*1
新海誠さんは、新宿と空を愛し続けながら、巨大装置とモヤモヤからシフトしていった?
新海誠監督の映像作品をぶっ続けで何本か観ていた。
ほしのこえ(2002)
雲のむこう、約束の場所(2004)
秒速5センチメートル(2007)
言の葉の庭(2013)
(*1)
ぜんぶ初見。「君の名は。」で2016年秋に初めて新海作品を観た私は、新海指数0.1くらいの付き合いの浅さであることは先に告白しておこう。
それらを観終わって、思ったことは以下の5つである。
1.新海監督は新宿が好きらしい。
なぜかどの作品でも、新宿が重要な場所や起点として出てくる。君の名は。でもそうだった。かなり思い入れがあるんだろうなあ。
2.新海監督は雲、空、天気、宇宙が好きらしい。
雲、空、天気が重要なものとして描かれるが、加えて宇宙もだいぶ好きな気がする。最初のほうの作品はまんま宇宙だったが、日常場面が中心の作品でも、なぜかちょいちょい宇宙なネタが写り込んでくる。物理的な高さ、そして人智の届かぬ領域がもつ魅力を描くのが好きなのかもしれない。
3.新海監督は年を重ねるにつれ、巨大な舞台装置に飽きたんじゃないだろうか。
初期作品は、ロボットとかオーバーテクノロジーとかが満載の戦争みたいな、国家スケールでの巨大な舞台装置を使うことが、作品を描く上で切っても切り離せなかった。だが、秒速あたりから、国家スケールをまとう舞台装置がほとんど出てこない。単純にこの人は飽きちゃったのではないかと思った。飽きない作家もたくさんいる、というかそのほうが多い。
4.新海監督は、モヤモヤより明示的な感情を描きたくなったんじゃないだろうか。
上にも繋がるけど、初期作品は、観ている私を完全に置き去りにするような意味のわからないモヤモヤがあふれているが、言の葉の庭では、だいたい分かりやすい感情しか描かれない。それを描きたくなった、というのは作家性の変化?
5.君の名は。が分かりやすい話になったのは必然だった。
私が君の中は。を観てしまっているので、ただの後付バイアスといっても間違いはないが、そのうえで書く。上述1-4の新海監督の特徴について、変わらないもの(1 新宿 と 2 雲、空、宇宙)と、変わってきたもの(3 舞台装置の撤収 と4 明確な感情)の、そのまま延長線上に君の中は。は作られたんだなと思って、勝手に納得した。
シン・ゴジラと並べて「東日本大震災後の作品」ということを強調する論評 (*2) もあるし、私もそういう部分はあるのかと思いこんでいた。が、新海作品群を観たうえで、個人的にはあまり震災は関係ない気がした。ゴジラは日本の経済と政治の根底をゆさぶる災厄として描かれたが、君の中は。の彗星は、言ったらアレだが、影響は1つの町を破壊する程度であって、国家の危機でもなんでもない。
君の中は。は、新海流の物語手法が、変化のプロセスにある中で生み出された、わかりやすい恋の物語なんだとおもう。そして、秒速では叶うことのなかった恋が、おそらく叶うような可能性を観客に見せて終わるのは、それ以外にちょうどよい物語の収め方がないから、というだけのような気もした。
脳内の現場からは、以上です。
個人的には、秒速の山崎まさよしの曲が流れるエンディングが好き。 (*3)
*1
*2
*3
秒速5センチメートル 山崎まさよし 「One more time,One more chance」 by ななななみななみ - ニコニコ動画
マインドフルネスって、そういうことか。
マインドフルネス、ということばを何度か、オンラインメディアの記事で目にしていた。そして、それが禅の知恵を取り入れた「集中法」のようなものなのかと、漠然と思っていた。といっても、本質が何かさっぱり分からず、実践には至らなかった。
それがさっき、ひとつのきっかけで、電撃が走るように理解できた。きっかけとは、NHK BS1で再放送していたNHKスペシャル「キラーストレス」の回を見たことだ。 (*1)
人間が生命進化のプロセスの中で手にしてしまった「危機反応システム」がとりわけ仕事や家庭など社会的な場面で発動してしまい、それが複数重なってしまうことが人命を奪うキラーストレスになりうることが研究から分かった、という。
また、人間が過去や未来に思いを巡らせてしまう「マインド・ワンダリング」が問題だという。これは、過去の記憶に引き摺られて、未来への懸念がアタマの中にあふれてしまうと、現在に対する集中を削いでしまうことにもなっている、という話だ。
逆にいうと、現在の行為に集中する時間こそが極めて大事になる。そして、それを可能にする考え方と取り組みのカギになるのがマインドフルネスである、ということだ。
あれ、現在への集中というのは、まさに心理学者ミハイ・チクセントミハイが言うフロー体験そのものではないか、と気づいたのだった。 (*2)
迂闊だった。いや別に迂闊ではないけど...。
フロー体験をどう作り出すか? というのは何回か考えたことがあったのだが、それが何に役立つかというのは考えたことがなかった。そもそもチクセントミハイの書籍のタイトルも「喜びの現象学」 (*3)であり、あくまでフロー体験を現象学の視点から解き明かす試み、という認識でいた。
Google トレンドでみると、マインドフルネスはこの1年以内で急激にTipping Pointを越えてきているみたいだ。それに比べると、フロー体験はまるでトレンドに乗っていないようだが。
時代がマインドフルネス真っ盛りであるというなら、40年くらい前からフロー体験を提唱していたチクセントミハイにもうちょっとスポットライトが当たっていいんじゃないかとも思った。とはいえ私もまだ、マインドフルネスの概念と手法について知識ベースでつるっと押さえるところも済んでないので、なにも言えそうにない。
よし、明日マインドフルネスの本を読んでみよう。
*1
*2
*3