ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

いつも赤ちゃんとギバーの関係がそばにあった

前日のブログにて。
赤ちゃんが周囲から助けてもらわないと育つことができないのはなぜか?
それにはどんな意味があるのか?
という問いを記した。
それに対する私の考えを書きたい。

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結論から書く。
「赤ちゃんに接し、育てることで、人はギバーの素質が開花する」
というものだ。

この説を唱える前提には、
「ギバーが増えることが、社会を安定平和にし、人を幸福にするイノベーションを社会に起こし続ける鍵である」
という予想が必要なのだが、以下、その予想も併せて説明したい。

まず、ギバー(Giver)の概念について説明したい。以下、組織心理学者アダム・グラントによる著書「Give & Take」を参考にする。 (*1)

ギバーとは文字通り「与える人」を指す心理学上の概念だ。行動パターンの分類といえるかもしれない。何を与えるのかというと、「助け」という言葉が合っている。目の前に困った人が現れると助けずにはいられない、という性質の人と言えるだろう。ギバーは、見返りを求めない。
それの反対に相当するのが、テイカー(Taker)である。テイカーは、自己利益のみを優先する。他人から何かの利益を得ることに終始している。
その両方の性質を持つのがマッチャー(Matcher)だ。マッチャーは、自分が提供した利益と同程度の利益を相手から受け取ることを期待して行動する。

すべての人がこの3つのどれかにきっちり分類されるわけではない。同じ人でも、相手やケースによって異なることがある。
基本的には仕事上における行動を基準にした分類である。 (*2)

最終的にもっとも成功している人々の多くはギバーである。一方でもっとも損をしている人々の多くもまた、ギバーである。なぜ、ギバーは両極端に寄ってしまうのか? 詳しくはこの本を読んでいただくとして。

仕事の取引相手にはテイカーとして振る舞う人であっても、家族、特に自分の子どもに対しては、ギバーとして振る舞うことはいくらでもある。そもそも、子どもに対してリターンを求めて育児をする、という人は、存在するかもしれないが決して多い割合とは思えない。

ここが一番のポイントだ。仕事上はテイカーとして自己利益優先であっても、子どもに対しての振る舞いはギバーにならざるを得ない。
自分の子ども相手にテイカーとして振る舞うことがいかに奇妙かは想像がつく。泣いている赤ちゃんを世話することから何のリターンを得ることができるのか?短期的利益は何もない。見返りを求めない無償の愛にもとづいて、世話をするのだ。テイカー的な精神で「リターンをよこせ」と考える事それ自体がまったく成立しない。
換言すると、子どもに対してはギバーの性質が強く出すことが、子育てを健全に楽しむ基本的原則だ。

気をつけたいのは、ギバー=自己犠牲で消耗する、ではないこと。自分が犠牲になっていると感じて消耗してしまうギバーは、損が大きくなり、そして疲れ切ってしまう。あくまで「相手の立場になって助けること」を楽しむのが、ギバーとしてうまくいくコツだ。
いつの日か成長したあなたの子どもが、あなたのことを助け、励ましてくれる日が来る。見返りを求めないギブの積み重ねが、いつか本当にすばらしいものを返してくれるのだ。

そして、赤ちゃんに対してギバーとして接することは、親(ならび血縁関係にある家族)だけに留まらないというのが、極めて大事な点である。
「血縁関係に関わらず、ギバーとして接する相手としての赤ちゃん」が持つパワーがある。

…ここを説明していきたいが、また長くなってしまったので、明日に。なんとか、次回でこのテーマはまとめたい。


(*1) booklog.jp

(*2) mirai.doda.jp

赤ちゃんがキュートすぎる件について

先日、大学のサークルの同期メンバーとの、久々の同期会が開かれた。時間帯は土曜日の昼間、場所は都内の居酒屋にて。

参加者は、男性が私を入れて4人。女性が3人。
そして、赤ちゃんが3人。

赤ちゃんは皆、0-1才児。参加した女性陣の子どもたちであった。

久々に会う女性陣が、皆母親になっていたことに時間の流れを感じた。
そして、赤ちゃんは皆それぞれに年齢が数ヶ月違うのだが、発達段階も個性もバラバラで、しかしそれぞれにとても愛らしかった。

休日の居酒屋は、私たちと入れ違いに先客たちがいなくなったあとには誰も客が来なかった。タバコの煙もなく、授乳中の母親たちや赤ちゃんにとって、とても居心地が良い場所だった。

話が逸れるが、乳幼児を連れて居酒屋に来る、お酒を飲むことに対して、世の中で批判的な意見を持っている人がいる。そういう意見が出るのは、なんとなく分かる。
授乳中の母親がアルコールを飲むことはないにしても、人混みであるとか、タバコの煙であるとかが母親や子どもに良くない、という観点から。あるいは、泣く赤ちゃんが周囲に迷惑だ、という観点から。それらを理由に、赤ちゃんを連れてくる親を見ると腹立たしい、という人もいるかもしれない。

しかし私は言いたい。ほとんどすべての親は、居酒屋に赤ちゃんを連れてくるのが困難なことであるのをよく分かっているはずだ。それは今回、母親になった友人たちと再会して、理解した。
赤ちゃんの面倒を見ていないといけない。それでも、かつての友人と会ってゆっくり食事したいし、授乳中でなければ、酒も飲みたい。その希望を持つことを、誰が否定できるのだろう。

今回、大学時代の友人の話を聞いて思ったことは。
育児という人生で初めてのミッションに直面し、時にストレスフルな状態もある中で、友人と会って気兼ねなく過ごす時間というのは、とても楽しみなことなのだ。

私たちが本当に、社会で子どもが幸せに育つことを願うならば、その親がいかに「赤ちゃんがいることで自分の楽しみを犠牲にしている」と感じないで、子育てできることのサポートが必要なのでは、と思う。
そのひとつの方法として、平和なお昼の居酒屋で、のんびりと過ごすイベントへの参加があるのなら、私はいくらでも出席して、親たちの話を聞きたい。

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話を戻そう。
赤ちゃんについて。

1歳の子は、元気に店内を歩き回っていた。0歳の子は、ひとりはずっと眠っていたが、もうひとりの子は泣いたり起きたりの繰り返しだった。赤ちゃんは泣くことと笑うことで、不快と快の感情を母親や周囲の人間に伝え、自分にとっての快適性確保や食事を要求する。
それを見ながら、人の赤ちゃんはすごい生き物だなと、ふと思ったのである。

何しろ、自分では、自己の生存確保のための行動、それ自体はまったく何も出来ない。唯一、声や表情で、周囲の人間への世話を要求し、それを受け取ること。それだけができる。

どうして、こんな不思議な種に人間は進化したのだろう?
他の哺乳類の生まれたての状態と比べても、あまりにも、母親を中心にした周囲の人間への依存度が高い。しかも、その期間が1年以上続く。 生き延びるため、すなわち周りから愛されて、助けてもらうことの実現のために、生来的に笑顔が備わっている、と考えられている。(*1)

なるほど、それは納得できる。確かに、赤ちゃんの笑顔はかわいい。助けなくてはいけないなと、実の親ではない、私のような血縁関係のない人でもそう思わせる。

私の問いは、「笑顔を作って周囲に助けてもらわないといけない、ということ自体に、何か別の利点があるのではないだろうか?」と言うものだ。
要するに、赤ちゃんが泣いて笑って、助けてもらうことは、赤ちゃん自身の生存という利益を越えたものがあるのではないか、と思っているのである。

それは何か? 長くなってきたので、仮説は、次回に書きたい。


(*1) kosotatu.jp

初心者による初心者のためのブログのテーマ入門

1ヶ月毎日ブログを書くという無茶な企画を始めて7日になる。まだなんとか続いている。

今日は、ブログを書く時のテーマ、がテーマだ。
具体的には「専門性の有無」と「筆者の知見の多寡」ついて考える。

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それぞれを縦軸、横軸において整理してみた。

横軸はテーマが日常的なら左、専門的なら右となる。縦軸はそのテーマに対する知見が卓越していれば上、不足していれば下となる。

これに基づき、4象限を設定してみた。そして、それぞれの象限の記事が、読み手にどういう印象になるか考えてみた。

なお、文章力、語彙といった表現に必要な能力は、充分にあると仮定する。

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第1象限: 専門的かつ知見卓越
一言でいうと、ディープな話になる。 その分野に興味がある読者にとっては、読んでいてとても面白く感じる。 (例)ロボット研究の話を、プロの研究者が本音で書く

第2象限: 日常的かつ知見卓越
多くの読者にとって納得感ある話になる。
(例)コンビニのお弁当の時間帯ごとの売れ筋を、長年バイトしている人が語る

第3象限: 日常的かつ知見不足
共感ある話になる、ことがある。共感されないと「それで何?」となるかもしれない。
(例)行きつけの食堂の店員さんがかわいくて気になる、というちょっとした気持ち

第4象限: 専門的かつ知見不足
大穴でウケる可能性がある。しかし多くの場合、散漫で読むのは辛い。
(例)検索で調べた情報を元に、アメリカと旧ソ連の冷戦のエピソードを書く

私自身が書くものを考えてみると、結果的には第3象限になっているケースが多いように思う。
特に明確な専門領域を持っていないこともあるし、一方で日常的に知見を貯めているような取り組みもしていない。
浅く広い生き方なのかな、と自己認識することもある。

他方で好奇心旺盛な自覚があって、誰かが書く第1象限のディープな話を読むと、その世界の魅力に酔いしれることもよくある。そして内心、こんなディープで面白い話が書けるようになりたいという思いも、なくはない。
では、どう実現に到達するか?

一番可能性があるのは、掛け算だと思っている。
リクルートで、公立中学の校長も務めた藤原和博氏の言葉を引用したい。

1つの分野で勝負して100万人に1人になるには、羽生君もそうであったように99万9999人を倒さなきゃならないんで、ものすごい勝負です。アスリートはそれをやってもいいかもしれません。でも僕は普通のビジネスパーソンでもこの存在になれる方法を今、示してるんですよ。3つの分野で掛け算しましょうねと。

(*1)

藤原氏は、聴衆のビジネスパーソンに対して、キャリア論としてこの言葉を語っている。だが、この発想をブログの執筆に転用してみたら、意外とイケるんじゃないか。

要するに、100人に1人レベルで卓越した知見を、まるで異なる3つの分野で持つことができれば。その掛け算で、ディープな話を紡ぎ出せるのではないか? という想像だ。

根拠はない。しかし、不思議と実現性がありそうな気もしている。
私はひとつの分野を突き詰めるタイプではないが、色々な分野に興味があり、そこを少し深く掘ることも結構好きだ。

分野の掛け算で、おもしろいことを書けるようになりたい。


(*1) logmi.jp

世界を変える化する世界

「世界を変える」という言葉がある。

日常的に使うことは多くない。 世界を変える起業家、であるとか、世界を変えるテクノロジー、であるとかの文脈で使われることがある。

世界を変える、が出てくる最も有名なセリフはこれかもしれない。

「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかみたいか」
(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to come with me and change the world?)

(*1)

ご存知の方も多いだろう。

1980年代前半、アップルコンピュータの創業者スティーブ・ジョブズが、CEO候補として探し出したジョン・スカリーを自社に引き抜くために、スカリーに語ったとされる。
当時、スカリーは、ペプシコーラを率いて、炭酸飲料のマーケットで不動の王座にあったコカ・コーラを追い抜く快挙を達成していた。誰もが不可能と思うビジネス上の成果を挙げた、圧倒的な成功者だった。

そんな彼のビジネスの成果を「砂糖水を売りたいのか」との一言で縮小化し、「それよりも世界を変えよう」と口説いたジョブズ
改めて、とんでもないことを言う人だと思わされる。

果たして本心でどう思っていたかは分からないが、この言葉からすると、コーラを売ることは、世界を変えることではない。
対して、アップルが作り出すコンピュータを売ることは、世界を変えることなのだ。

これは、コーラを売る仕事の人に限らず、反論が出てくる言葉には思われる。
どうして、同じ市場経済の中で、売り物が違うことが、世界を変えるか変えないかの違いになるのか、と。
自分のプロダクトに対する、傲慢とも言えるほどの、革新性への自信。敵を作る言葉であるが、だからこその強い魅力も感じる。実際、口説かれたジョン・スカリーは、アップルコンピュータのCEOに就任した。


2016年の今、世界を変えるプロダクトやサービスとはなんだろうか?
この質問に答えるのは簡単ではない。
「世界を変える」かどうかは、どこまで言っても主観の問題だ。しかし、すべて主観にすぎないと分かった上で、それを考えてみる遊びはけっこう楽しいものだ。

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たとえば2007年からAppleが作り続けている iPhone。これを売ることは、今からの世界を変えることか?
NOだ。

2007年当時、 iPhone は革命的なプロダクトだった。一番の証拠は「こんなものは売れない」と言っていた人が大勢いたことである。

iPhoneがそこそこの市場シェアを獲得する可能性はゼロだ。あり得ない」

(Microsoft CEO スティーブ・バルマー)

iPhoneは、弊社が提携先第一号にならなくてよいと思う製品だ」

(Verizon 社長兼最高実務責任者 デニー・ストリングル)

(*2)

彼らが在籍していた会社を考えれば、当然ポジショントークだが、それにしても、あまりに iPhone の売れ行きを低く予想している。
iPhone が斬新すぎて、競合や提携という概念すら持ち得ないほどだった。そう考えるのが自然だろうか。逆に、iPhone を作り出したチーム、この時点で世界で売り出そうとしていたチームにとっては、まさに iPhone で世界を変えることを目指していたといえる。

2016年現在、iPhone は世界のあらゆる国に届いている。後発の Android と併せて、スマートフォンは世界にほぼ普及し終わった。
確かに、iPhone の性能は世代を重ねてどんどんアップして便利になっている。しかし今、iPhone を売ることが、世界を変えるかと言われれば何か違う。

「斬新すぎて、直感的に多くの人から否定されるプロダクト/サービス」であること。
こういう状態にあることこそが、世界を変える、と感じさせるための必要条件なのではないだろうか。

VR(バーチャル・リアリティ)に関するプロダクトやサービスは、今でいうとその条件に当てはまるかもしれない。

何万円もするVR専用機器と、コンピュータを購入して、たとえば初音ミクとの戯れにいそしむ。酔狂だ。
(*3)

たとえVRという技術やそれを使ったサービスに興味がある人からしても、高額を払ってそれを買う、遊ぶなんてことは、あまり理解されないものだろう。VR産業に関わる人たちは、否定的な言葉を浴びて疲れている人も多いかもしれない。

しかし、そのフェーズだからこそ「世界を変える」条件を満たすのだ。
もし10年後、VRが世界で普及しきっていたら、もうVRは世界を変えるものではない。世界を変えたもの、という過去形で扱われる。

世界を変えるワクワク感が生まれるためには、常に多数派が否定してくれることが必要だ。奇妙に、持ちつ持たれつの関係で、世界は変わっていくのかもしれない。


(*1) 学校の勉強ってどうして必要なの?(砂糖水編)

(*2) web.archive.org

(*3) www.itmedia.co.jp

諸君 私は水のくじが好きだ

コンビニで、2リットル入りの水を買うことが多い。1日を通して、たくさん水を飲むのが健康に良いらしいと数年前に知って以来、けっこう水を飲む人になった。

さて、コンビニで水を買おうとすると、不思議なことに気づく。

500ミリリットル、1リットル、2リットルの3種類のサイズが売られていることが多いのだが、なぜか一番安いのは2リットル。次に安いのは、500ミリリットル。1番高いのは、1リットル。
常にそうとは断言できないが、コンビニ各社通して、こういう傾向がある。

その理由を考えてみようと思ったが、考える前にググッたら、とても納得いくYahoo!知恵袋を見つけてしまったので、考えるのはやめる。 (*1)


書きたいことの本題は、「くじ」について。

今日、ファミリーマートでいつも買う2リットルの水を買おうとしたら、ペットボトルの首のところに紙が巻かれていた。

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よく見たら、「くじ」だった。
水に、くじ要素は求めていない。だが、買う前にくじをはがしたら器物破損になってしまうので、そのままちゃんとレジに持っていって買った。

改めて、くじをよく見てみた。 その場で当たり外れが分かるタイプだ。当たりだと、ファミマの108円相当のスナックがもらえるそうだ。

最大でも手に入る価値は108円相当ということで、くじとしては、恐ろしくリターン金額が小さい部類に入る。というか、これまでに見かけた小売商品のくじの中で、一番リターンが小さい気がする。

当たりの確率は何パーセントだろうか。

コンビニのほかの商品に、このくじがついていたのかどうか確かめていないので、推定に必要な情報が不足気味ではある。だが、このくじキャンペーンが何のためかと考えると、推測はできそうだ。

思い付きだが、狙いは景品のファミリーマートコレクションというスナック菓子の商品群の認知アップではないだろうか。
たとえば、水や飲み物だけを買って帰るお客さん、すなわち私のような人は、客単価が100円程度にしかならない。もしファミマコレクションのお菓子を認知して、買うように行動習慣が変わると、客単価が200円、300円程度に大きく伸びることになる。

しかし、単純に店内にPOPを出しても、目に入らないし、行動は変わらない。そこで、よく買われる水のペットボトルの首に紙のくじをつけることで、ファミマコレクションを意識に取り込まれるように仕掛けているのではないか。

実際のところ、私は今日、水だけではなく、なぜかファミマコレクションのクッキーを1袋、買っていた。
くじが当たっていれば、それは景品としてもらえるものでお金を出す必要はない。だが、会計を済ませる前にくじを開けるわけにはいかないので、ファミマコレクションを今回はお金を払って買うしかないのだ。
私の客単価は、200円程度になった。このくじキャンペーン、なるほど結果は出ているのかもしれない。

このように考えると、くじの当選確率は、高い必要はない。高ければ、その分、お菓子を無償提供するために販促費用がかかってしまう。
また、店員にも、当たりくじと景品の交換というイレギュラーのオペレーションが発生するので、人件費の観点でも、当選が少ないほうがコストを抑えることになるだろう。

したがって、当選確率はおそらく1%程度ではないかと予測している。


と書き終わった今、くじを眺めていて、このキャンペーンの別の要素に気がついた。

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「当たりが出たらFamiポート端末にてシリアルナンバー入力」
なる指示がある。
 
Famiポートとは、チケット発券などができる店内の端末だ。どうやらお菓子をもらうには、当たりくじを店員に持っていくのではダメなようだ。Famiポートを使わなくてはいけないらしい!

とするとつまり、当選した人は、Famiポートなるものを使うことを要求されるわけだ。
それによって、Famiポートで、チケット類の発券ができると学習することにもなる。

これだ。
 
コンビニでは、いまや公共料金の支払いからamazonの受取まで何でもできるようになりまさにコンビニエンスが一層と進んでいる。が、まだまだそれらの店が提供する機能の多くは、顧客に広く理解されているとは言えない。そこを理解させることができれば、大きな金額の利用の窓口としてコンビニが使われるケースが増える。
すなわち、人々の消費総額における、そのコンビニのシェアを高めることができる。

この「コンビニ活用法の浸透」という戦略があって、その実現の作戦として、Famiポートの認知向上があって、そこに至る戦術として、ファミマコレクションのお菓子がもらえるくじがある。

こう考えるのが、一番すっきりする。

ドヤ顔で「ファミマコレクションの認知向上」と先程は書いた。多分違っている。

当選確率の推測も見直しだ。低かったら、Famiポートを使う人の数が減ってしまうので意味がない。
適当だが、10パーセント程度は当選するのではないだろうか?

仮に3週間、キャンペーンを実施するとして、その間に特定のお客さんが、10回来店して、毎回水を買うとしよう。
そうすると、ハズれ続ける確率は、仮に当選率が10パーセントだとすると、1-0.1=0.9で、90パーセントの10乗となる。これを計算すると、35パーセント。
つまり、当選確率10パーセントのくじは、10回ひいてもらえれば、65パーセントの人が当選する。

これくらいだと、Famiポートを認知させる打ち手としては、ちょうどいいのではないだろうか。

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…想像してたけど、ハズレるとなぜか悔しい。

明日も、きっと水を買うのだろう。

(*1) コンビニで買うお水 はなんで2リットルの方が安いのですか? ... - Yahoo!知恵袋

きゅうりスティックからの伝言

野菜の価格が高騰している。
きゅうり100円、キャベツ400円、レタスはなんと500円以上ということもある。

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なぜ価格が高騰するか?調べてみた。

参考にしたWeb記事(やさびあ)によると、理由は主に2つあるようだ。
1つは供給不足。もう1つは作るための原価の上昇。

供給不足の面では、日本各地での供給力が想定よりも落ちているからのようだ。 なぜ日本各地で供給力が落ちているか、というと夏から秋にかけての天候面の理由、特に地域によるが日照不足が、生育面にマイナスに影響したためとある。また、収穫サイクルが伸びてしまうことでの、生産量の期間での総量も落ちるようだ。
原価上昇の面でいうと、日照不足による温度の低さを補うための暖房費がかかる、ということのようだ。

毎日食べる野菜の高騰は、家計への負荷が大きいし、消費量を減らさざるを得ない。野菜摂取量は健康の鍵だ。これは結構、国レベルで深刻ではないだろうか。 大好きな、きゅうりスティックをもりもりと食べられない世界は悲しい。 国にはなんらかの野菜価格が下がるような解決策を求めたいものだ。

参考: 【野菜の高騰が止まらない】2016年・野菜が高い原因と代わりになる野菜って?


という文章を10分くらいで書いたのだが、今日ほんとに書きたいのは野菜の話ではない。 上の文章には、「情報発信の危うさ」があるということ。

中身を振り返ってみよう。
冒頭がひどい。

きゅうり100円、キャベツ400円、レタスはなんと500円以上ということもある。

これ、単位がどこにも書いてない。1個なの?って思うけど、そうなのかは分からない。 派生するところでいうと、価格のフェーズ情報もない。卸売価格か、小売価格か、だけでも全然価格感は違うはず。

で、ここまでを読むと適当っぽいことに気づきそうなものだが、恐ろしいのは、次から「調べてみた」と宣言し、情報ソース元も貼ることで、根拠付けはそれなりなプロセスをとっていること。

しかも、ちゃんと価格上昇の要因を分解し、「〜のようだ」と表現することで、自分はソースにもとづいて適切な意見を組み立てています感が出ている。

最後になると家計の話を書いて、さらっと共感を得るような雰囲気を出している。 が、次になぜか、なんのソースもなく「野菜摂取量は健康の鍵だ。」と断言。
そして、仮に野菜高騰が事実だとしても、それは市場経済の需給で決まる価格なのに、いきなり国の政策に解決を求めている破綻した主張で終わっている。


先日、DeNAが運営する健康情報のキュレーションWebメディアのWelqが閉鎖された。「引用を示さないソースの盗用」「切り貼りによるコンテンツ作成」「不正確な健康情報の発信」といった流れが、問題となった。 (*1)
これは組織的にやっていれば、言い逃れもできない「歪みを自覚した行為」だと思う。

だが、もし個人レベルで、悪意なく「不正確でバイアスがかかった情報発信を行っている」人がいるとすると。
それに気づいて、ストップをかける人はいるのだろうか? 阻止するインセンティブが何もないなら、それは放置されるのではないか、と私は考えている。 冒頭に試しに書いたような、少しのプロセスの妥当性と情報の正確性を含みつつも、全体としては論理的にも科学的にも壊れた主張が、発信されるものの中には割と多い気がする。

なぜ悪意なく、変な主張を書けるのか。

そもそも、人の信念や考え方というのは、だいたいが思い込みに始まり、それが相当の割合を占めるものではないだろうか。
行動経済学者のダニエル・カーネマンは、人には「ヒューリスティック」という判断基準があると提唱している。直感的に、なぜ手っ取り早く判断が下せるかというと「感情」や「周りがそう言ってるから」というヒューリスティックな基準があるからだ。 (*2)

たとえば感情を起点に主張の方向性が決定されると、あとはそれを補強するような材料を探し、論理的・科学的な匂いを少し纏わせることを行うのだが、全体の破綻については、そもそも目に入らないことになる。

ヒューリスティック自体は悪ではないし、それを否定することは難しい。それを使って祖先から生き延びてきたわけで、私たちに深く埋め込まれている。
でも、自分自身の判断が、ヒューリスティックに囚われている可能性があることを自覚することは、自分や、大切な誰かにとって本当に良い結果に繋がる選択をするために、大いに役立つ。
...と、私は信じているが、この信念自体がヒューリスティック依拠だったら、説得力は乏しいことになる(笑)。

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「野菜高騰!」とどこかで目にして、義憤にかられて「野菜価格下げるべし!」という主張を、例えばすることは、ヒューリスティックの見方からするととても自然だ。
でも、その主張は、果たして自分も皆も本当に幸せにする主張か?を考えて、発信の前に一度踏みとどまること、それこそ発信者としては「カッコイイ」姿だと思うのだ。

以上、「きゅうりスティック」と「ヒューリスティック」が似てる。
そう気づいて勢いで書いた。
反省はしていない。

(*1) jp.techcrunch.com

(*2) www.teamspirit.co.jp

21世紀の酒を飲まないこと事情

先日、Kさんという方と、一緒に運営していたイベントの打ち上げをすることになり、焼き鳥居酒屋で会った。 以前会った時、一緒に酒を飲んだKさんはこの日、一滴も酒を飲まなかった。

「もう人と会う時に、酒は飲まなくていいのではないか」 という考えを持ったのだという。

理由はいくつかあるそうだ。 普段面白い人なのに、酒を飲むことで、面白さのクオリティが落ちてしまう人がいるのでもったいないということ。 そして、飲むことで面倒くさくなり、皆から避けられるようになってしまう人がいるので、それは残念だということ。 飲まないほうが、みんなのクオリティが高くなると考えたそうである。 そして、自分でも人と会う時に飲むのを止めてみたそうだ。

何事も気に留めることなく、Kさんはごくごくとウーロン茶を飲んでいた。

私は普通にビールを飲んでいたのだが、このKさんの言葉に、大いに考えさせられてもいた。 Kさんは、一切他人に「酒は飲まないほうがいいですよ」とは言わない。あくまで、自分の仮説に従って、自分が酒を飲まないだけなのだ。 その自然さが、一層私に「酒を飲むとは」ということの問いを投げかけてくるのだ。

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折しも11月は、人と会って酒を飲むことが多く、そのうち2回で、結構酒のダメージを受けてしまった。1回は体調不良で飲んでクタクタになり、もう1回は、飲み過ぎで二日酔いになった。 多く酒を飲んだことで得たものはほぼほぼなく、疲れが残り、次の日に負の影響が出た。

特に二日酔いになったとき、あまりの辛さに 「もう二度と酒を飲むのは止めよう」 と思ったのに、その数日後、Kさんと会ったとき、私は何事もなくビールを頼んでいたのだった。 新たなる決意なんてものは行動を変えるなんの役に立たない、という大前研一の名言を噛み締めた。 (*1)

人と会う時に、酒を飲むのが欠かせない、と感じてしまうのだとすると、それは明らかに風土・文化・空気が生じさせる感覚の圧力ではないだろうか。 アルコールを飲ませることの強要なんて言語道断、それは私もそう思うのだが、そういう人でも、会って酒を飲む文化自体に疑義を呈していることをほとんど見たことはない。 これは不思議だ。

確かに私は酒(特にビール)を飲むのが好きだという自覚を持っている。 何年か後、人間の感情や幸福度についての研究と測定技術開発が進み、なんらかの方法で、私や一緒に飲む人、周りの人の、感情と幸福度に関して信頼に足るデータを採取、意味付け、評価できたと仮定しよう。 そこで算出された幸福度の比較で、明らかに、酒を飲まないケースのほうが、飲むケースよりも、高い幸福度が示される、と分かってしまったとする。 それでも私は、自分が酒を飲むのが好きだ、というアイデンティティを保っていられるだろうか?

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他方、あるWeb記事によると、人類の祖先がアルコールの摂取を始めたのは1,000万年前と言っても過言ではないそうだ。1,000年ではない。1,000万年だ。 (*2) これが真実ならば、人間の感情と幸福に、進化と生物の観点からして、酒は貢献している、というデータが取れてしまうかもしれない。言い換えると、酒は適者生存のキーだったのかもしれない、ということだ。

しかし、一定の割合、体質的にまったくお酒が飲めない人もいるので、この説はどこまで正しいかは謎だ。

現代の、私の見える範囲からすると、この問題は正答を得るのが極めて困難かもしれない。それはそれでよい。

会食の時に、酒を一滴も飲まないというのを、実践するのもありかと思っている。

(*1)

(*2) gigazine.net