ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

札幌でふとひらめいた、満員電車が許せないワケ

満員電車は不快だ。言うまでもない。

・他人と密着するのが気持ち悪い
・冬は服が厚くて混雑度がより上がる
・夏は汗かいていると人に接すると不快な顔されてこっちも不快
・とはいえ、汗かいてる人がいたらきっと自分もそうしてる
・他人の足を踏んだりしないように気をつけないといけない
・他人から足を踏まれたりしないよう気をつけないといけない
・痴漢に出会う危険がある(女性は。一部男性もいるかも)
・痴漢と間違えられる危険がある(これは男性だけだろう)
・スリの被害に遭う可能性がある
・落とし物をしても、拾うこともできず、なくす可能性が高まる
・本を読んだりする自分の時間が過ごせない
・リュックやカバンを下ろさなくてはいけずに面倒くさい
・イヤホンが他人に引っかかるおそれがある
・ドアに挟まれる危険がある
・入り口付近にいると駅に着く度に出たり入ったりしないといけない
・結果、出たものの混みすぎて乗り切れないことがある
・そして体調が悪いと人の海で吐きそうになる

もう、どこまでいってもロクなことがない。

こんなもんに毎朝乗って会社に行って、生産性高い仕事が気持ちよく始められるわけがないと思う。

これをデフォルトにしている、我が国の首都の移動の状況は、完全にアホ極まれり、だ。
「日本人は整然と混んだ電車に乗って通勤している」とか、それは誇ることでもなんでもない。しくみが間抜けなのを、耐えているだけ。
なにが時差Bizだ。YouTubeで見たい動画を見ていると、すぐあのCMが挟み込まれて、腹立たしい(←これは完全に八つ当たり)。

通勤をなくして、リモートで仕事ができる人が増える世界をつくることが本当にの働き方改革なのではないか。
そんなことも大真面目に思う。

また、通勤・通学者以外に視野を広げるならば。
朝の時間帯に子供を連れて移動したい親御さんや、外国人観光客などにとって、朝まともに電車に乗れないという状況があることもまた、多大な損失と思われる。

この満員電車の不快ぶりと絶望感は、多くの東京圏の通勤者、来訪者が感じているのだろう。

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が、私は札幌で平日朝(8時頃)の地下鉄に乗ったときに、ひとつ驚きがあった。
なんと、満員ギュウギュウではないのだ。確かに席はすべて埋まり、それなりに立っているけれど、別にリュックを下ろさなくても全然人に当たらない。
東京の鉄道の朝の状態を予想していた私は、良い方向に裏切られて、拍子抜けした。
別にこれくらいなら、気にならんな、と。

その瞬間に気づいたこと。
それは、なぜ満員電車が許せないのか、の根本を説明する仮説である。個別の不快な事象について、ではなくて、なぜ総体としての状況に、ここまで怒りを感じるか、ということについて。

仮説とは、

「何もプラスのものを生み出さないが、サボると多大なマイナスが発生する選択と行動を、断続的に、多種に、繰り返す義務が生じる」

この状態が、人をとてつもなく不快にさせているのではないか、ということだ。

たとえば満員電車で、私(男性)が女性に手がくっついてしまう羽目になると、「痴漢です!」と言われる危険がある。つまり多大なマイナスが発生する。ので、手の位置を調整して、吊革を掴むとか、なんとかしないといけない。これ以外にも、足を踏まないように、踏まれないように、とか、いろんな「やらないとマイナスがでかい」のに「それ自体プラスなものをは何も生み出さない」ことがある。考えてみると、アホらしくて涙が出てくる。

いままで言語化してみたことはなかったが、満員電車という状況に対する怒りの根源は、ここに起因しているような気がする。

私は今、フリーランスのような形で仕事をしていて、ひとつの仕事の場所は自転車で通えるので、満員電車ストレスはない。もうひとつの場所は、リモートOKであり、会社に行くことがあっても、お昼くらいに行くことにしているので、満員電車は回避できている。

毎朝の東京の電車に乗って
「何もプラスのものを生み出さないが、サボると多大なマイナスが発生する選択と行動を、断続的に、多種に、繰り返す義務が生じる」
くらいなら、お金は少なくても、それを回避できる仕事を選ぶ。

しかし、さらに考えてみると、そういう理由で仕事の選択をしているのは、仕事の価値の作り方という本質から遠いような気もする。本来、そんなところが仕事の選択理由に入る事自体が、歪んだ状況だ。自分が選べるかといって、ただ喜んでいてもしょうがないとも思う。

2020年オリンピック!で浮かれるより(それは別にほっといても開かれるでしょう)、この業の深い満員電車を消滅させられたら、偉業だと思います。
そしてこれは都知事ひとりの仕事ではなく、日本人の問題。

札幌のとある高校を訪れて

札幌でどうしてもやりたかったことが一つだけあった。
それは、札幌南高等学校を訪れてみることだ。

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ここは、岩田聡さんの母校である。

ぼくの岩田さんの高校時代についての知識のほとんどは、「岩田聡の原点」 (*1) に依っている。
この電子書籍は、岩田さんの高校の仲間たちが、2015年に55歳の若さでこの世を去った岩田さんを惜しんで、おもに高校時代のエピソードを中心に、これまで世の中にほとんど出てこなかった話をとりまとめたものだ。
2016年7月。すなわち今から1年前であり、岩田さんの一周忌のタイミングで発刊された。

いま思い出しても、この書籍のインパクトはすごかった。岩田さんの経営哲学に心動かされてきたぼくも、まるで高校時代の話は知らなかった。
岩田さんがバレーボール部だというのは知っていたけれど、まさかそこまで、彼の人生に多大な影響を与える経験、そして人の繋がりがそこに生まれていたことはまったくの初耳だった。
ぼくも高校からバレーボールをはじめて、そして同じようにセンターポジションをやっていた人だった。これで、親近感が強まらないわけがない。もちろん一方的なそれでしかないとしても、だ。

岩田さんの細かい話に興味ある方は電子書籍を買って読んでいただきたいのだが、そんなこんなで、札幌南高校はぼくにとって、一度足を運んでみたい場所だった。

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これが体育館の写真だ。
もちろん学校の中には入ったりはしていないし、これは道路から撮った写真だけれど。

この日は平日で、グラウンドでは、陸上部やサッカー部の高校生たちが練習に勤しんでいた。きっと体育館の中ではバレーボール部の高校生たちが、かつての先輩と同じように、練習やトレーニング、あるいは、休憩時間に談笑していたことだろう。

ちょうど岩田さんが亡くなって2年が経った。
札幌南高校を訪れたことで、自分のなかでひとつ、何か整理がついたような気がした。


*1

ゲーム界のトップに立った天才プログラマー 岩田聡の原点: 高校同期生26人の証言 Kindle

札幌の合理性、東京の不合理性

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札幌市に始めて来た。正確には子供の頃に一度旅行で来たらしいのだが、まったく覚えていない。

友人が市内を案内してくれたのだが、もっとも驚いたのは、格子状の町並みだ。東西南北に格子状の道が整然と走り、すべての住所は、東西と南北の掛け合わせの場所で表される。「北3西4」といった具合に。

最初は地理感覚がよくわからなかったけれど、慣れてくるとこの合理性にしっくりくるようになった。
次の日は自転車で札幌市内をいろいろ巡ってみたのだが、そのときもこの格子状の構造が分かりやすくて、ほとんど迷うことなく目的地にたどりつけた。

なぜこのようなわかりやすい町の構造になっているか、調べてみると歴史は1869年に遡るようだ。

明治2(1869)年、札幌本府の建設を命じられた島判官は、円山の高台に立ってはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれています。京都の街づくりを参考にしたその構想は、札幌の広野を現在の南1条通りで南北に、また、すでに堀削されていた太友堀(創成川)で東西に分けるところから始まりました。この島判官の構想を生かしながら岩村判官は、60間四方の格子割による街区構成を利用し街の中央には58間幅の大通りを設定。

(*1) 札幌市HPより

それまで、高台に立って、未来を見据えて0からの都市設計をしたのだ、ということ。計画して、たしかに実現させた明治期の人々の偉業は素晴らしいと思う。

ただ、仮に計画実行力が高い人々がいても、すでに街が出来上がっていたら、これを壊して人を動かして0から作り上げるというのは大変な困難を伴う、というか実質無理だったことだろう。何もない土地だったからこそ、150年後にあっても便利でわかりやすい、都市計画がたてられた。

もうひとつ、今回友人がいっていたのは「札幌には、歴史ある寺社などがほとんどない」ということ。確かに札幌市内をうろうろしても、歴史ある遺跡のようなものはほとんど見当たらない。これもまた、それまでに人がほとんど住んでいなかったことの証である。

この札幌に対比して考えてみると、私が住んでいる東京は極めて計画性がない都市である。道はぐねぐねしており、地名の合理性はほとんど存在しない。不合理、きわまりない。
「まっすぐ道を行ってください」と東京で言われること。それは、方角的に直進せよ、ではなくて、多少のグネグネも承諾して道なりに進め、ということを意味している。
きっと札幌に生まれ育った人が東京都心に来たら、あまりの不合理に最初は愕然とするのだろう。

人が住み続けていく街。そこの始点に都市計画というものがなく、時間が重なっていくと、それは後戻りが極めて困難な「都市のありよう」が生まれる。もちろん、それは文化と極めて密接、というか文化そのものでもある。
仮に日本のすべての都市が、0から都市計画で合理性のもとに作られたとしたら、そこには文化的多様性、違いが少なくて面白くない、となってしまうだろう。
しかしながら、東京の人口、経済の一極集中が起こり、そこに交通の問題や住居、保育園といった公共性高い施設をつくる困難が生まれている現状を見ると。もはや都市の小さな部分改善を行おうとする労力を割くよりも、0からの都市計画を立てて、これからの150年のあり方を想定して街をつくるほうが、これから皆幸せなのではないかとも夢想してしまう。


*1

道路建設の歴史/札幌市

夕張の1950年代の教師の行動、現代にそれは活きるのか。

夕張市にあるローカルの喫茶店で、そこの経営者の方や、お客さんに話を聞いてきた。年齢でいうと60代後半。かつて夕張が炭鉱の街として栄え、絶頂だったころに若年期を過ごした方々だ。
いろいろな話を聞いたのだけれど、一番印象的だったのは夕張の街の話というよりも、その時代の学校の話だ。もっというと、教師の話である。

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話をきかせてくれた方々の小学校の同級生で、極めて秀才がいたのだという。ただし彼の家は貧しく、まともな靴ももっておらず、雨が降ると何キロもの道を歩いて通うのが難しくて学校を休む、そういう有様だったという。彼の両親も教育熱心とはいえず、子供は中学校を出たら地元で働けばいいと思っていたようだ。

しかし、彼の才を、そのように生きるにはあまりにもったいないと思った担任教師は、彼の家に行き、両親を説得し、なんとか進学させるように働きかけたそうだ。最終的に彼は高校卒業後、京大に進学したという。

この話のどこが印象に残ったかというと、こんな教師はきっと現代には割合として少ないだろうと思ったからだ。
親の方針を覆させてまで、進学させようと思って、自分には何の得もなくても家まで行って交渉する。

その教師や、その時代がすばらしくて、今がそうではない、と思っているとかそんなことではない。
そもそもこの高度知識労働社会、そしてそこから先の機械による自動化も含めて産業社会そのもののあり方が揺れている中で、工場労働者の効率的輩出のためにつくられた学校モデルなどというものは、1mmも社会に適合していない。1950年台に良かったモデルが、2010年台に良いということはない。

だけど、子供の持っている才能を正しく評価して、それが活きるようなキャリアをつくる(当時はキャリアという思想はなかったと思うけど)ということを強力に提案できる立場と、それを無私にできる存在の価値というものは、今でも、いや今だからこそ、ますます重要になっているような気がする。

親がそれが難しく、教師に要求するものでないとしたら、それができる誰か、を作らなくはいけないのではないか。

夕張市、人口減少の先陣を切り続ける先に

かつて夕張市には、最盛期には12万人の人口がいた。
炭鉱の街として活気にあふれ、企業があり、労働者が集い、その家族や、そこに対して物を売る人々がたくさんいた。
いまや、人口は9,000人を割っている。最盛期の93%の人口がいなくなってしまったのだ。(*1)

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人口動態には、社会動態と、自然動態がある。
ある地域の人口動態を見たときに、生まれて増える、死んで減る、ということがあれば自然動態であり、自治体に入ってくる、出て行く、ということがあれば社会動態になる。

夕張の場合は、炭鉱の閉鎖、石炭産業の衰退とともに、多くの企業が撤退し、労働者と家族が街を去り、そこに商売をする人々もいなくなった、という社会減の占めるところが大きいはずだ。

具体的には、最盛期には小学校が22校あって、児童数だけで20,000人を越えていたという(1959年)。それがいまや、1校のみになり、児童数は216人である。 (2) (3)
60年弱のあいだに、児童数が100分の1になる街。これを小説で読んだとしても、荒唐無稽な設定を笑ってしまうが、事実なのだ。

もちろん日本全体が、終戦後のベビーブームで人が増え、出生率の低下に伴い児童が減った、というトレンドはある。しかしここまで如実な「人口減少」を起こした街は、世界を見回してもレアではないだろうか。
そして、高齢化率は50%を越えている。
市場経済の観点からすると、世界で最も絶望的な街といってもあながち外れていない気もする。
ただし、絶望的に見えるが、絶望だとは思わなかった。

というのは、私が会った街の人たちは、決して鬱々としているわけではなかったからである。いわゆる高齢者という範疇にはいる、65歳以上の方は、高齢化率50%というのは認識しつつも、老人だからもっとサービスを自治体に提供してほしい、というような雰囲気はまるで見られなかった。ただ、夕張が好きだから、何かこの街に活気が生まれるようなことが起きたらいいと思っているのだけど、自分が当事者としてそれを起こすのはなかなか大変と感じているそうだ。
ということは、当事者になりえる人のプラットフォームというべきものが生まれて、高齢者という枠に入っているが元気で未来への意志をもっている人々をエナジャイズして巻き込むことができれば、何かが起こる可能性はあるだろう、と私は思う。

もしかしたら合理性の観点からはコンパクトシティ化して、分散している人たちは今の拠点を放棄することに同意した方がいいかもしれないし、私はそれも全然アリだと正直思っている。しかし、最初からそこだけを見ているのも、理を見て、人を見ていない気がするので、ちょっと違う気もしている。

あと直接関係ないけど、人口動態と都市の発展という観点で、夕張市と好対照をなす街があるのだが、それについても日を改めてどこかで。


*1

http://soundscape-of-yubari.com/blog-old-201308.html

*2

www.unipro-note.net

*3

www.gaccom.jp

夕張メロンの秘密

北海道夕張市に来た。

地元の方に、名産品の夕張メロンについての興味深い話を聞いた。
夕張メロン」という植物の品種は存在せず、2種類の植物の1代かぎりの掛け合わせ種、つまりF1が、夕張メロンなのだそうだ。(*1)

そして、夕張メロンの大規模栽培農家というものは存在しないのだ、とも聞いた。
極めて細かい温度、湿度の管理を必要とするので、家庭経営の農家が、家族総出で、1月頃から畑をつくり、夏の収穫期まで、細かい調整と管理をしながら育てるのだという。

ということで、残念ながら夕張メロンの種をいくら集めて植えても、あの甘い夕張メロンは育てられないのだ。そして、そのF1種をつくるための種は、厳密に、門外不出に管理されているのだという。

確かに、種が出回って、誰でも作れるようになってしまったら、夕張メロンの市場価格のコントロール、というか需要に対しての供給をコントロールすることは難しいだろう。そう考えれば、種を囲い込み、大規模化をさせることもなく、毎年メロンを生産するというのもわからないでもない。

しかし考え方を変えてみると、一度確立した夕張メロンの作り方をはみ出ることなく、ずっとそれを作り続けるしか、夕張メロンの生産には道はない、ということになるようにも思う。それは果たして、楽しい仕事なのだろうか。ずっと決まったものを繰り返す、それ自体は確かに市場で高く売れるものをつくる「付加価値の高い一次産業」なのかもしれないが、それを営む人はどう思っているのだろう。純粋に、そこが知りたい。
だが残念ながら今回の夕張の訪問ではその声を訊くことができなかった。次回への課題だ。

いずれにせよメロンは美味かった。それだけは間違いない。メロンを出してくださった方々に感謝である。

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*1 www.tabetayo.com

価値の流れを、見られるようになりたくて

今日は仕事にひとつの区切りがついた日になった。
全国47都道府県を回って起業家や事業に取り組んでいる人に登壇してもらい、そして自分らしく事業をつくりたいという人たちが集う場をつくる、というイベントが50箇所目の開催を終えて、終わった。
始まりから考えると、半年間以上にわたり続けてきたプロジェクトの終わりになった。

いま何を思っているかというと。

仕事を通じた「価値の流れ」とは、いかに複雑で面白いものなのか、ということへの驚きと、その自分ごと化ができた少しの達成感。

たとえばこのプロジェクトについて言うと、各地を回るための原資になるお金はスポンサーのいくつかの会社さんに出していただいている。
とすると、我々のプロジェクト・チームの顧客は、このスポンサーさん方ということになる。
一方で会場に足を運んでくれる参加者の方々は、ユーザと捉えるのが、ビジネスの仕組みの説明としては適切だと思う。
会場の方には施設利用料を払っているので、我々のほうが、顧客となるだろうか。
登壇者の方々にはわずかばかりの謝礼はお渡ししているが、本当になんというかわずかなので、我々が彼らに対する顧客などとはとても言えない気がする。この関係性は、なんだろうか。

そして、ぼくはプロジェクトを仕事として請け負ったので、このプロジェクトのオーナーから、給料をもらっている(いた)。でも雇用者と被雇用者という関係をあまり感じていない。
どっちかというとぼくというパーソナル・コンテンツならびアビリティをオーナーに対して提供して、それへの対価をもらっている感じ。ぼくにとっての顧客がプロジェクトオーナーになるだろうか。

この、一言でとても説明のつかない不思議でパワフルなプロジェクトを、ビジネスとして見てみたときにも、これだけ多様な「お金の流れ」と「繋がりの流れ」、つまるところ「価値の流れ」が存在している。

そして、登壇者や参加者、スポンサーさんなど、今回のステークホルダーの方々が営むビジネスが、「流れ」としてあるときには繋がったり、合流したりしながら、また他の数多くのビジネスの流れと相互に影響しあっている。
こうして、広いことをいえば、世界中のビジネスの「お金の流れ」と「繋がりの流れ」が行き来して、そこに価値が生まれ、流れることで、ぼくたちの生きる今と、そして未来がつくられていく。

どこの空も、世界の空と繋がっている。どこの海も、世界の海と繋がっている。
6次の隔たり」という言葉に示されるように、人と人のネットワークも、我々の想像する感覚よりもずっと短い経由数で、世界の人が繋がっている。(*1)

ぼくらの日常を成り立たせる「価値の流れ」は、空や海、人の繋がりよりももっと可視化することが難しいけれど、もっとも生きていることをダイレクトに支えている。

かように考えると。
ぼくたちはただ生きているだけでも経済の一部であることに違いはないけれど、それだけではあまりおもしろくない。

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「価値の流れ」を自ら起こすもよし。その勢いを掴み取って、波に乗るも良し。流れの及んでいない人たちに、流れの経路を作ってつなぐもよし、あるいはその人たちを流れに引き込むもよし。

見えない流れを感じ、そこで動けるようになるには、時間がかかるし、意思をもって挑戦し続けることが必要なんだと思う。転んで溺れて、立ち上がって身につける。

ぼくはそれの大事さに気づいて動き始めるのに、本当に多くの時間を費やした。そして、まだ流れでの動き方も分かっていない、よちよち歩きではある。

でも、価値を生む仕事をするために伴う「おもつらさ」。(*2)
それを、ようやくすこし、感じるようになったかもしれない。


*1

*2