鮭の皮
子供の頃から、焼き鮭は好きだった。
ただし、皮が食べられなかった。どうにも食感が気乗りしなかったのかもしれないし、意識のなかで、皮は身ではないから食べる必要がない、と思っていたのかもしれない。
このへんはもう遠い昔のことなのでよくわからない。いやそもそも、食品に対する感性を言語で記述するのはなかなか難しいんだけども。
ただしいつの頃か忘れた、4年前くらいだろうか。鮭の皮を食べてみる気持ちになった。そして食べてみたら、不思議な食感ではあったものの別に全然食べられる。味も悪くない。
それを「発見」してからはずっと鮭の皮も食べている。
なぜ食べようと思ったか、のきっかけがないわけではない。その頃に流行っていた健康法・食事法の本かWebsiteかなにかを見て「栄養は皮にあります」みたいな記述が引っかかったんだと思う。なぜ皮に栄養があるのか、というロジックはいまいちはっきりしていないのだが、そのときには何か納得感があったのだ。
思い出した、玄米と白米の話がその頃、結構ぼくには情報として入ってきていたのだ。要するに、精米しすぎて白米にするのが日本人は大好きなんだけど、そもそも精米のプロセスで栄養価がだいぶ持っていかれてるという真実。
これは史実もあって、かつての20世紀初頭頃の日本軍では脚気が流行っていたが、それは調べてみると白米だけを食べていた部隊ではそれが蔓延していたものの、まるでそれが起きていない部隊もあって。仮説を立てた医学者が大麦を白米に混ぜるようにしたら、見事に解決したという話がある。(*1)
白米からは人体にとって大事な栄養がもっていかれているというのは史実もあることを知った。
たぶんそっから想起して、ぼくのなかでは「鮭の皮のほうが栄養ある説」は比較的に肚落ちして、それが「皮を食べよう」につながったように思うのである。
実際のところ栄養学の真実としては、身よりビタミンが豊富だったりというのもあるようだ。(*2)
ということで、あと何年生きるかわからないけど、よほどのことがないとたぶんずっと皮を食べるのだと思う。
*1 歴史の明暗を分けた!日本海軍と陸軍で食べられていた食事の違いとは | | 管理栄養士 圓尾和紀の「カラダヨロコブログ」
*2 魚の部位別栄養学
先回り謝罪社会
さっきファミレスにいたとき、厨房から「ガシャーン」という音がして、そのあとに間髪入れずに男性店員さんの「失礼しました〜!」というデッカイ声が店内に響いた。
これは日本の飲食店ではよくある光景だ。
この環境に慣らされていたら「失礼を謝罪できる日本の良さ」みたいな結論づけをする人もいそうだけど。しかし一歩引いて見てみると、なんかこの光景って異常なんじゃないかと思えてくる。
だって、別に誰にも迷惑かけてないじゃん。確かに、調理器具を落として、2秒くらいガシャーンという音は響いたよ。でも、それってほんとにただの音だよね。調理場での話なら、お客さんは誰もケガもしないわけだし。
たかだか2秒くらいの音って謝罪対象なのか?
アメリカ、中国、ヨーロッパ、どこの国でもいいが、海外にいることを想像してほしい。その国の料理店に入って、店員が調理器具を落っことして「I'm sorrrryyyyyy!!!」みたいなことを店中に聞こえる声で言うのが想像できるだろうか? 1mmも想像できない。言っていたらギョッとして、やばい店に入ってしまったのかもしれないとすらぼくは思うかも。
でも日本だと、これをでかい声で言う店員がいる店が、「店員教育がなされた店」というラベリングになるらしい。
結論から言う。日本は「先回り謝罪社会」になってしまった。いつからかはわからない。たぶん社会文化に関する資料を調べれば、なにがしかの情報は出てくると思うが、今は時間もないしスルーしておく。
予想だけど、たぶん1990年代くらいから言われ始めたのではと思っている。
いや、これがけっして悪いとは考えていない。しかしながら、謝罪すべきと思えないシチュエーションで、謝罪対象不在の、声だけがやたら響く「失礼しました〜!」が違和感がある。
たぶん「サービス」という言葉が社会に敷衍してから、こういう文化が変わったんだと思っている。サービス精神の名のもとに、そして「お客様は神様です」の三波春夫のフレーズの曲解も合わせて、だんだん謎の「先回り謝罪」がスタンダードになっていったのではないだろうか。
結局、そうしたほうが楽だから、だと思う。理由なく文化は継続しない。クレーマーに相手するくらいなら、先回りして芽を摘んだほうが、きっと楽だ。そういうことになったのだろう。
「日本は悪くなっている」…50年近く前から日本を見ていますと、いまは天国です。小中学校の先生は生徒を殴る蹴る、駅のホームでは火のついたタバコの吸い殻が頭に当たり、25歳で結婚してない女はボロクソに言われ、ゲイやレズは大笑いされ、左利きは迷惑だから飯を食うなと言われる、そんな国でした
— 田中泰延 (@hironobutnk) May 28, 2018
このツイートはたぶん真実で、全般的に日本もよくなっているんだろう。そのプロセスのなかで、なんともいえない方向に来たものもある。そういうことかと思っている。
今日もまた、現金。
どうして日本人は現金(キャッシュ)が大好きなんだろう。
経産省の「キャッシュレス化推進に向けた国内外の現状認識」なる資料(*1)によると、日本におけるキャッシュレス決済の比率(金額換算)は2016年で19.8%。
他国を見ると、韓国の96.4%を筆頭に、軒並み60〜40%台が並んでいる。
おそらく日本人の多くが「発展途上国」とみなしているインドでも35.1%となっており、日本よりずっと高い。
驚くべきはドイツ。EU随一の経済強者ドイツが15.6%と日本より低いのはかなり不思議だ。施策例には「現金志向が強い」と書いてあるだけ(笑)。
想像だけど、日本もドイツも、現金を取り扱っても安全だというのが社会的な理由として大きいのかもしれない。
現金をもっているとスリや強盗などの犯罪に遭う可能性に高い国では、たとえ多少の導入コストを払っても、国民としても国家としても、キャッシュレスを推し進めるほうが治安向上に効果が高く、満足度が上がることが想像される。
中国ではキャッシュレスの進展により、泥棒、スリ、偽札工場が減少して治安が改善したそうだ(*2)。
国家自体の変革推進のパワーの差異もそこに関係していると思っている。
たとえば中国は共産党の実質的一党独裁ということもあって、経済、政治を「ある方向に進ませる」ちからが日本よりずっと強い。 キャッシュレスにして、犯罪を減らそうとなったら、それを強力に後押しする。これは環境問題や公害減少にも生きていると思うが。
あとは国家の年齢構成もあるだろう。平均年齢45歳、そして高齢者比率が世界トップクラスに高い日本で、QRコードを読み取れるスマホを活用することが必須のモバイル決済がどれだけ浸透するかというと、仮に国が普及をすすめようとしても「わからない」「使えない」という強い反発が出ることが予想される。特に地方など。そこにかかるコスト、エネルギーを乗り越えてまで、キャッシュレスを進めたいかというと、政府、民間のリーダー層も、頭を抱える人が多そうだ。
別のサイトの記事で、ドイツ、アメリカの支払い手段の比率を見ると、デビットカードがともに27%程度あることに気づく(あれっ、これは最初に出した経産省の調査結果とドイツの現金決済比率が違う気がするけど…。デビットカードはキャッシュに含まれるの?よくわからない)。
デビットカードは預金口座と紐付けられた決済用カードであって、「借金」ができない仕組みなので、よく言われる「クレジットカードは使いすぎが怖い」問題にもある程度歯止めになることが予想される。そして、当たり前だが現金と違って使用権が本人に紐付いているのだから、盗難や紛失による治安の問題も避けられる。いいことづくめに見えるぞ。
しかし、日本ではほとんど使われていない。なぜなんだろう。歴史的経緯?
日本の都市部だとICカード(SUICAとか)の決済は増えてきたけど、でもあれのチャージがだいたい駅の自動券売機での「現金」のチャージだったりするから、笑い話だ。
私自身はクレジットカードと紐付いたオートチャージのSUICAにしているから、もうチャージとはおさらばした。はずなんだけど、残高が1000円を切った状態で自動改札を通らないとチャージされないため、タイミングによっては1100円くらいしかチャージされていないことがある。たとえばその状態で、1200円以上の買い物はできないわけで、不便…。結局クレジットカードを出すことになるが、すると4桁の暗証番号を入れてくださいと言われて、まためんどい。
というわけで、今日もやっぱりある程度現金を持ち歩いているのだった。はー。
いつこの国から現金はなくなるんだ。
確かに、この写真みたいなシーンは、現金じゃないと絵にならないな(笑)。お札が降ってくるような映画のシーンはキャッシュレス社会になると観られない。30年後くらいに生まれる子どもには話が通じない絵になるかも。
*1
http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/shoryu/credit_carddata/pdf/009_03_00.pdf
*2
【キャッシュレス社会のデメリット】第4回 キャッシュレス社会で消えゆく仕事とは? | GloTech Trends
*3
続・音声入力に再挑戦
前回の記事はこちら
引き続き、音声入力について調べていたらとても助かる記事を発見した。ここで紹介されているSpeechkeys Smart Voice TypingとSpeechnotesというアプリは非常に便利だ。(*1)
Androidの通常の Google 音声入力だと曲の後に半角スペースが入ってしまうとか句読点を音声入力しながら出すことができないとか何秒か黙っていると音声入力が停止されてしまうといったような問題があった。
しかし今私がこの音声入力にリアルタイムに使っているスピーチノートというアプリは問題を全て解決していた。
まず謎の半角スペースが入らない(笑)。
次に音声入力の途中でキーボードを並行して使えるので句読点を入れたり、誤変換を修正したり、といったことがリアルタイムに行える。これはめちゃくちゃ便利だ。
そして黙っている時間があっても音声入力が止まらない。これまた助かる。
ひとつ課題はなぜかしゃべった音声が文字に変換されずどこかに消えていってしまうことがある(笑)。あれはどこに消えているんだろう。インターネッツのどこかにブラックホールがあって吸い込まれているのかもしれない。
とはいえそれを除けば非常に快適。変換精度も思った通りになっている。
これはアプリの問題ではなく私の感覚的なものなんだけど音声を喋った後キーボードで修正して次の言葉をまた喋るという感覚が慣れないため違和感を覚えている。
考えてみれば当たり前で進化の中で獲得してきた音声言語は実際に人間に対して意図や意思を伝えるためのものなので途切れ途切れ発声することには違和感があるのである。
ここは自分の感覚のアップデートで対応できるのかどうか検証してみたい所である。
悲しむべき事態。今、このアプリでほとんど入力ができなくなってしまった(上述の、しゃべったことばがテキストにならず消えていく問題が多発しすぎて、もうだめ)。Speechnotes、せっかく期待して出だしがよかったのに悲しすぎるぞ。
わたしのアンドロイドのスペックが足りないのだろうか?(2016年発売Huawei のP9である)原因がまったくわからないが困ったものだ。とほほ。また元に戻ってしまった。
*1
起業と、情熱
日本は起業率の低い国と言われている。確かに、世界の起業率の調査結果をを見るとその通り。(*1)
ではどうしたら起業が増えるのかと言ったときに、政策や国情などのマクロな要因もあるけれど、今日は個人の内面というミクロのことについて考えてみたい。
起業するということは何か解決したい課題や実現したいことがあるときに自分で事業を起こすということである。
しかし考えてみればかなりの手間をかけてまで自分で事業を起こし、会社を登記し、運営するというのはなかなかのハードルである。
いやすでに起業して当たり前のように経営している人からすると、そんなことは大した問題ではないよ、と言うかもしれない。だが私のようにそれをしたことのない人間からは相当高いハードルに感じる。
起業したいのですか?と問われると。いや、やりたいことがないわけではないのだがそれが興味の域を出ていないと思っている。
興味と情熱は違う。興味は一瞬で沸く、だがしかし一瞬で消えることも多い。興味で起業したら、うまくいかないどころか心もお金も尽きて、倒れてしまうように思う。
対して、情熱は長きにわたり自分を動かすものである。起業して事業を軌道に乗せ、社会に価値を出していくには創業者の情熱は極めて大事になる。
情熱抜きでは、深くまで物事にダイブして、まだ見えていなかった真実を掘り出したり、新たなる市場を作り出していくような時間と労力のかかる、そして成功するかどうかわからない取り組みに挑みつづけるのは難しい。
ではどうすれば情熱を持つことができるのか?
逆説的ではあるが興味を持ったことを始めて、それを続けることが必要なものではないだろうか。
領域は違うが、スポーツ界のトップアスリートに着目する。彼らにしても、最初は何か小さなきっかけ、TVを見たとか近所で教室をやっていたとか、小さな興味のレベルからスポーツを始め、夢中になって時間をかけているうちに技術・体力が高まって試合で活躍していき、一般アスリート・レベルを遥かに上回る、高みにたどり着いているように思う。
ちょっと逸れるが、スポーツの世界では当たり前のことが一般的に「仕事をする」を考える時には、無視されていることが多い気がしてきた。
確かに情熱だけをアピールして就職するようなやり方は違和感があるかもしれない。だが、情熱を測定するときに、そのひとの積み重ねた行動に着目したら、そのような違和感はないだろう。「私は◯◯に情熱があります」という発言と「私は◯◯をし続けている(その裏側には◯◯に対する強い情熱がある)」という見える事実は、まったく異なるもの。
内面の情熱を育て、外面への行動につながっていき、そこから得た学びを自分、他人に伝えていき成長するサイクルが、当たり前のような社会に、生きていたい。
情熱をもった人を応援するのはもちろんするが、それ以上に、まだ情熱を持てていないひと(自分含めて)が興味から前進できるようになるにはどういうやり方があるのか?考えてやっていきたい。
*1
音声入力に再挑戦
GOROmanさんのマッハ新書「礼儀2.0」の中にこのような一節があった。(*1)
12時間ぶっ通しだと流石に指が痛いです。 (抜粋::“礼儀2.0v0.11BETA”iBooks)
マッハ新書、じぶんも書いてみたいと思いつつ腱鞘炎にはなりたくないなぁ...。
と、そう思った時に、思い出したのが音声入力のこと。
音声入力であれば腱鞘炎になることもない。以前このブログで紹介したShibataNaokiさんのノートにあるように入力速度は劇的に早くなる。
たしかに、その時、僕はブログを書く目的では、思考を整理して編集することができないから音声入力はあまり自分には合っていないと思うと結論づけた。だが、それから2週間してこのマッハ新書のムーブメントを体感する中で、音声入力の可能性をまずは自分で最大限取り組んでみることが必要なのではないかと考えを変えるに至った。
そして今この文章は音声入力で綴っている。やってみて思うことは、Androidの音声入力の場合は正直言って句読点も自動で出てはくれないしかといって、「てん」「まる」と発声しても読点・句点には変換してくれない。
なので結局音声入力をした後で改行や句読点の入力と調整、そして逆戻りできない入力のためにまるで意味がわからない文章になっているところ、あるいは誤変換を一つ一つ直していく必要がある。今まさに直しているので、ここは手で打っている。
ここを僕は直感的に面倒くさいなと思ってしまっていたのだが、しかしやはり綴ってみるとアウトプットされる速さは圧倒的に早い。(しかし繰り返しになるが今ここは手で打っているw)
これはもうちょっと自分でゴリゴリ体験してみないと強みと課題、運用上のポイントがつかめないかなと思っている。
ということで可能な限りはこのあと、音声入力でブログを書いてみようかなと思っている。
音声入力で気になること。例えばスターバックスなどのカフェやコワーキングスペースなど他に人がいる所で音声入力ができるのか、という点。これが気になるといえば気になる。
GOROmanさんやVR業界のトップランナーの方たちが起点となり、いま一般人に広まりつつあるOculusGo。(*2)
たとえばこういうVR体験が普及して、人前でVRゴーグルをかけることも当たり前じゃないか、という空気が強まってくると、人前で音声入力することも普通なんじゃないか、と。そういうふうに世が前進することを祈って。
今日のブログ、結局相当手で直したな...音声入力だけで書くにはまだ色々試行錯誤必要だ。
*1 礼儀2.0 (BETA版) - 未来のゴロマンショップ - BOOTH(同人誌通販・ダウンロード)
*2
マッハ新書「礼儀2.0」から読書観のアップデートへ
マッハ新書というムーブメントがある。そもそもマッハ新書とはなにか? クリエイター向けマーケットBOOTHの説明から引用する。(*1)
マッハ新書は、@GOROman氏が提唱する電子出版レーベル (というよりはむしろ電子出版のスタイル?)です。 時間をかけて執筆し、編集し、校正して、万全のものをリリースする従来の紙の出版のあり方に対し、即時リリースかつアップデート可能な電子書籍の特性を利用して、瞬間的に執筆して販売する、熱意ドリブン・情報鮮度第一の出版形態です。
VR界のトップランナーにして、最近ではVRにとどまらずテクノロジー全力投球時代のオピニオンリーダーという感があるGOROmanさん。マッハ新書として販売されている「礼儀2.0」を買って読んでみた。(*2)
余談だが、BOOTHからepubというファイル形式でダウンロードできるが、このままだとKindle PaperwhiteなどのReaderでは読めないので、Kindle PreviewerというAmazonのアプリを使えばKindle Paperwhite互換のmobiというファイル形式に変換できる(*3)。私はそうした。
読んだ。
この本から、私は「(日本的)礼儀のバージョンがアップデートされた時代が来た」ということを学んだ。たとえば電話や訪問に代表される「相手の時間を拘束する」ことはもはや今望まれる礼儀ではない。非同期で相手の時間を奪わないこと、そしてツールとしてはチャットなどがスタンダードであること。
↑本書のはじまりになったツイート。礼儀の定義が変わってきてる気がした
— GOGOman (@GOROman) 2018年4月13日
礼儀1.0
相手を重んじる。自分の時間を犠牲にし、時間を相手のために使う。直接会う。スーツなど服装をわきまえる。
礼儀2.0
相手の時間を奪わないようにする(電話しない、リモートで済むものはリモート)
一番私がうれしかったのは「ああ、これでいいんだ」という感覚を得たことである。
そして私はこの礼儀2.0という知識を自分のなかに「インストール」することができた気がしてる。なぜならそのメッセージが、感情的なうれしさを伴っていて、だから強く記憶に残る。それは意味記憶でもあるし、エピソード記憶でもある。自分の経験から生じる意見を言語化してもらえた、ということでもある。
私はこれを取り出せる知識として使える感覚がある。
以上は本の中身から学んだことだが、今回の体験を通じて、本と読書じたいについても大きな発見があったので書いておきたい。
本の中身は記憶して引き出せるかが、自分にとっての価値
長く時間をかけて書きしっかりと編集の目が入って校閲が入った本が読み手にとって必ず価値が大きくなると限るわけではない。12時間で書き上げられたマッハ新書は、それを私に強く印象づけた。
これには人間の記憶が多分に関係していると思っている。我々は、何らかの理由で特別に画像記憶のようなことができる、というような一部の人を除いては、鮮明な意味記憶から思考をすることができない。すなわち読んだものをそのまま自分の知識として巧みにアウトプットにつなげる、なんてことはできない。
そして記憶はアウトプットされる時に初めて思い出されるものという本質があることもまた事実。
これは何を意味するのか。いわば、取り出せるもののみが陳述的記憶とも言える(ちょっと強引だけど)。
本の「価値」は、文章量とか文献量とか編集された量の多さとかによらない。それらのパラメータはどこまでいっても自分(価値を感じる主体)から見れば、「知を使える感覚を得る」というタイプの価値の源泉にはなりえない。
正直にいうと、最近まで私は本はある程度の量がないと読んだとは言えないよなー、と思っていた。たぶん、そう思いたがっていた。量ある本を読んだ自分えらいよね、としたかった。その感情はその感情で、否定しなくていいと思っている。そのおかげで、手を付けることができた本も少なくない。
ただ一方で私のアウトプットはそれらの本に内蔵されている知識をどこまで使えているかということになったときに感覚としてそこが薄いことに居心地の悪さも感じていた。
今回GOROmanさんのマッハ新書を読んで、礼儀2.0の知を得たことは、同時に私にとっては「本と知識」にまつわる自分のもやっとしていた常識、いわば「読書観」をアップデートする機会にもなった。
感謝。
*1 booth.pm