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1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

「ホモ・デウス」を2時間半で読んでみた

ユヴァル・ノア・ハラリ著ホモ・デウス
諸事情で、上下巻あわせて2時間半で読んだ。
その感想を記す。

本の内容の解釈を正確にできてない可能性もあるのでそのへんはご容赦を。

まず、飢餓と疫病と戦争の3つを人類は克服したという前提が興味深い。
いやまだ世界には飢餓が、疫病が、戦争が、という人はもちろんいるけど、統計と歴史を見れば基本的にほぼ克服したというほうが正しい。
このあたりはスティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」とも通じる(ってまだそっち読んでないんだけど…)。

その先に人類が目指すものは不死と幸福であり、それに対しては科学技術的な介入が進むだろうという推測。なるほど。そうかも。

そしてそこから、ホモ・サピエンスとは何かという話へ。
人間の意識は解明されていないもののアルゴリズムで整理されうるものの中にあるだろうし、そして感覚や情動がアルゴリズムで説明がつくのであれば、人と動物の差分はなんなのかと。
実際、これもそうだろうと思う。何も差はなかろう。差があることにしたいのは特別であることが社会意識に必要だから。

話は宗教と科学へ。実は科学と宗教は対立するものではない。宗教が倫理担当、科学が実証実用担当。そこの両輪がハマることで科学もますます育ち、そしてそこから成長を希求する資本主義は生まれ加速していく。

しかし科学の進展により、神が人間の上に立つ世界では説明がつかなくなってしまった(それでも人は宗教と神を信じたがる…そんな人たちもおそろしくたくさんはいるが)。
そこで人間至上主義が代わりに立ち上がってきた歴史。
明確に人間至上主義という表現で歴史の中で扱われてきたかは私は知らないのだが、たぶんここはハラリの説なんだろうな。

人間至上主義は3つあって、社会人間至上主義(=共産主義)、進化的人間至上主義(=ナチズム)、自由人間至上主義(=自由主義)とあって、自由主義が勝ち残ったのは第二次大戦に勝ち、冷戦に勝ったから(あるいは他の主義が破れたから)。でも自由主義が勝てたのは核兵器による膠着(一発撃ったら反撃して世界が滅びることをどっちもわかってるゲーム)のおかげ。自由主義がすばらしかったからではない。
このへんの冷静な歴史にもとづく洞察が気持ち良い。

というわけで自由主義は勝ったんだけど、自由人間至上主義も続かなくなりましたよ、なぜなら、というのが本書のミソ。
だって、自由意志ある人間のための自由主義だったはずがそもそも科学の進展により自由意志なんかないじゃんと分かってしまった。あとは分割不能な自己というのもないよねというのも同じく科学で分かった。もはや前提揺らいでますね、とハラリは鋭い。
となってきたところに加えて不死と幸福という「人間の強化、アップグレード」の方向に行くしかないという前段の話がここでつながってくる。

もう人間は自分でなんかを決めるんじゃなくて、もっと優れたアルゴリズムに決めてもらえ、という世界が来るのでは?というかある程度は来ていて、それがデータ至上主義。

ハラリはデータ至上主義が取って代わる中で、ホモ・デウス階層(?)が誕生し、多数のホモ・サピエンスたち(=データの一部)と分かっていく世界を予想している。
でも別に本書を予言の書にしたいわけじゃないんだ、外れてほしいからみんな考えようぜ、という締め。

ということでスーパーざっくり本論の振り返りと、ちょいちょい感想。忘れてた部分は ホモデウス図解、要約してみた (*1) を参照した。

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改めてぼくの考えまとめ。

いやはやハラリすごいね。よくここまで整理して、ファクトベースの論理構造を打ち立てたなと。
一方で論理だけじゃなくてハラリ自身の価値観が根底にあるというのがおもしろい。
彼は同性愛者であることを公表している。そして、ヴィーガン(動物性のものを食べない)。
キリスト教はじめとした異性愛こそ唯一許されるという一神教的価値観の束縛から外れていて、そして人間は動物を支配する、動物とは別物だという近代以前の倫理観ではなく、動物と人間の違いはないという現代科学にもとづく倫理観の立場にいる。

ぼく自身は生物学&神経科学の知見を重視する立場なので、自由意志ならび分割されない自己というのは虚構だというのは、まったく違和感はない。
そもそも自由主義陣営と共産主義陣営との対決で、核の膠着がなかったら共産主義が勝っていたんだとすると、その世界には自由主義はなく、要するに今この世界の主流だと思われている自由主義も、偶然生き残った、いわば自然淘汰の結果みたいなもの。
歴史を紐解き、有史以前に遡れば、そこにあるのは現生人類が、我々が歴史的進歩と称するような変化を起こさずに生きていた期間が長かったという事実。
その状態から、定住、農耕、組織化、ヒエラルキー形成、民族の対立と交流、そして国家の形成、工業化と進んできたこのプロセスもまた、ホモ・サピエンスの中における自然淘汰プロセスでしかない。ドーキンスの言葉を借りるならジーンではなくミームでの変容を重ねてきた、と思う。

この先、仮にハラリの言うデータ至上主義が支配的になると、ミームの担い手がついに人からデータ(ならびにデータを扱い決定を下すアルゴリズムとそのシステム)に委ねられるということになるだろうか。 それは正直とてもおもしろいと思う。
ディストピア? いやいや、それを言ったら自由主義の観点に立てば共産主義が支配する世界のほうがよほどディストピアではありませんか。そして共産主義だと、戦争はともかく飢饉、疫病という歴史上のもっとも大きな苦痛を克服できてなかった可能性はある。
データ至上主義が、自由主義を引き継いで(?)仮にすべての人の最低水準の生命を救ってくれる前提を崩さない方向もキープするならば、自由意志も自己もないとしても、かつて自由主義が明文化した「平和」や「福祉」を守ってくれるのだとしたら。
それは望まざる世界?望ましい世界?
でもそもそも「望む」って誰が、って話。自由意志なき人類の共同主観?

最後ただの雑記。

悲観というのは未来が不確かだから生まれるのかなと思う。もしも確かに未来の道筋が明確だったら凡そ諦観にしかならないだろう。ここは改めて歴史から学びたいところであるが。永劫に変わらない時代が続くように感じられる世界があったら、そこは諦観が主流なのだろうか。あるいは管理されたなかで管理されたことも気づかぬまま生化学的幸福を与えられていたらそれはどうだろうか。

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ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 Amazon.co.jp

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*1

note.mu

(そのほか参考記事メモ)

wired.jp

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honz.jp