ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

「生き方」〜AIと未来について(後編)〜

give.hatenadiary.com この前回からのつづき。

私の率直な意見と意思。しごと、AIと。

報酬のための苦役的労働、が大嫌いなので、もし仮にAIが普及していってそういうものをなくしていくなら、とても良いことではないかと思っている。
といいつつ、そもそも現在コストがかかって高単価な仕事からリプレイスされるはずなので、私がやっている仕事が早くそれになるかどうかは結構あやしい。

個人の生計としてみた時に、いかにして生存するための収入を得るかというのが課題になるとは思っている。
現在日本では、お金とモノの流れとしては、企業と家計の活動のほかに、国家や自治体が個人や企業から税金をとって、ほかのところに回すという活動の、2種類がざっくりある(貿易は面倒なのでここでは省く)。

仮にAI(とロボティクス、オートメーションetc)が事業における課題解決を促進し、企業活動においてそれまで必要とされていた労働力(頭数)としての人がいらなくなると、企業は可能ならばその人達を雇わなくなる。コストをへらすため。すると解雇された人たちは収入を得る手段がなくなる。
ほかの、収入がえられる職に移るか、働くことを放棄するか、色々なオプションはある。
BI(ベーシックインカム)議論が持ち上がるのはまさにこのあたりで、ほかの仕事に移れないスキルの人は、もはや税金から収入を直接給付するしかないではないか、とそういうことだ。

BIを配ることで、最低限は生き延びることができるようになり、さてあとはもっとお金がほしいとかやりがいを求めたいとかあるならどうぞ仕事をしてください、ということになるのかと思う。
しかしそれは、なかなか厳しい世界ではある。それまで採用するために使われていた学歴や資格といった証明の多くが役立たずになってくると、あとは採用されるには、よほど欲しいと思われる技量(たとえばAIを作ることができるとか)がある人でないと、その時代の「一流」で働くことは難しい。かといって、誰でもできる仕事という意味では、それはAIを入れるほどのコストインセンティブが働かない、儲からない仕事になる。その時代に活きるようなスキル、経験を得ることは難しく、BIに加えて月にもう少しだけお金が使えるようになるくらいの収入がいいところに思える。

仮にこんな時代が来ると、私自身はどこにいるかというのを想像する。

シナリオ1「BIをもらって、なんとか生きながら、リプレイス可能な安い仕事を日々やっている」
シナリオ2「BIをもらって、お金がもらえる仕事はせず、安くて時間のつぶせる娯楽をしている」
シナリオ3「BIはもらうが、基本的にはそれなりの報酬を得られるような付加価値の出る仕事をせっせとしてしている」

どれかのシナリオだろう。
シナリオ1は正直つらそうだけど、しかし仮に20年後、50歳過ぎて特に価値の高い仕事法を持っていなかったら、そうなりそうだ。それがつらいと、たぶん仕事をやめてシナリオ2になっちゃいそう。
やっぱりシナリオ3がいいな...と思うけど、そこにいたるには現在との差分が大きい。
2035年。50歳で、価値が高い仕事の仕方とはどんなものなんだろう。
もう少し先にを見ると、たとえば2060年。75歳でも仕事ができているとしたら、それはどういう形なんだろう。

想像すると怖さもあるけど、想像を放棄して戻れないシナリオに進んでしまうことは本当に怖い。
しかし恐怖感で自らを駆り立てるのも度を越すと辛いので、怖さをおぼえつつも楽しく没頭の先に、生きる道を見ていきたいという気持ちではある。

ここまで書いて思ったけど、とどまる余地はないんだな。人生で。
色々やった結果、やはり社会の変革に呑まれちゃって、50歳過ぎてBI無職になってもそれはそれでいい。

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相対的な所得の低さが、必ずしも不幸を生むわけではないというのが、文明の進歩の恩恵である。今の時代の日本の中流家庭が、得られている実質的な豊かさは、100年前の大富豪を遥かに上回る。明治にはツイッターAirbnbもない。
相対的な所得の差を不幸の源泉と思い込むこと自体が不幸なのであって、納得して生きていく方法と時間を持っていれば、幸せでいられる。その方法にたどり着くプロセスが、大事なんだ。